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戦国小町苦労譚  作者: 夾竹桃
天正四年 隔世の感
194/244

千五百七十七年 九月下旬

九月に入り、東国情勢に新たな動きが加わった。まず織田家の重鎮柴田と、越後の龍こと上杉謙信が率いる連合軍が北条氏の居城である小田原城へと進軍を開始している。

この動きに対して北条は、柴田・上杉連合軍の進路上に存在する北条影響下の国主に働きかけ、散発的な襲撃を掛けることで戦力を()ごうと試みた。

しかし圧倒的大軍に対して寡兵の襲撃は然したる成果を上げることなく、進軍を僅かに遅らせるだけに留まってしまう。

そして北条が織田軍に対して優位に行動できたのはここまでとなった。信忠軍が里見領に本格的に駐留し、占拠した勝山湊及び勝山城を再建し始めたためである。

里見家の居城である佐貫城に関しては、静子の腹心である可児(かに)才蔵が率いる才蔵軍のみにて完全に動きを封じ込めていた。佐貫城にて籠城する里見を尻目に陸上へと展開した才蔵軍は、即席の陣を張ったかと思えば瞬く間に街道を封鎖する支城を造り上げたのだ。

里見家の窮状を見かねた佐竹軍が援軍として駆けつけるも才蔵軍の襲撃を受けて潰走し、()う這うの(てい)で佐貫城へと逃げ込み負担を増やす結果となっている。

これにより元より個人として勇名を馳せていた才蔵が、指揮官としても有能であることを知らしめることとなり、才蔵の名はより一層高く評価されることとなった。


無論、佐竹家と里見家が一丸となって才蔵軍に総力戦を挑めば、如何に才蔵軍が精強とは言え劣勢に追い込まれることは否めない。

しかし、織田家と言う共通の敵を抱くが為に協力し合っているだけで、元々反目し合っていた両家が手の内を晒して互いに連携することは難しい。

また才蔵軍が支城を構築して以降、海上より支援をしていた信忠軍の艦隊は姿を消している。

こうして孤立した寡兵となった才蔵軍を叩くに当たって全軍を出すまでも無いと侮っていることも、協力し合えない傾向に拍車をかけていた。


一方、奥州(おうしゅう)(現在の福島・宮城・岩手・青森の4県と秋田県の一部)の情勢と言えば蘆名(あしな)伊達(だて)最上(もがみ)家に対しても北条家より援軍を派遣するようにとの要請が届いていた。

これに対する三家の動きは鈍かった。元より『寄らば大樹の陰』とばかりに、東国の覇者たる北条氏に(おもね)る意味合いでの同盟関係であり、織田家という嵐によって大樹が折れんとしている現状において、馬鹿正直に援軍を送る意味合いは薄い。

とは言え、全く援軍を出さないというのも悪手となる。義理を果たさなかったことを大義名分として、他家が攻撃を仕掛ける口実を与えることになるためだ。

こうして三家ともに消極的ながら援軍を派遣する運びとなる。因みに三家が足並みを揃えることはなく、蘆名家が真っ先に援軍の派遣に応じた。

この背景には、以前蘆名家が織田家に対して密書を持たせた間者を送った際に、北条家の手によって捕らえられたがため信頼関係が揺らぎ、失点を取り返そうという意図がある。

次に動いたのは最上家であり、親伊達派が北条家への援軍派遣を反対したがために最低限の派兵数となった。

そして最も動きの遅かった伊達家は、義理を果たしたと言える最小限度の派遣であり、明らかに北条家から距離を置きたがっていることが窺える陣容であった。


「と、各国の情勢はこんな感じかな」


静子は彼女が運営する学校の一室に集めた面々に対して東国の情勢を説明していた。

静子と卓を挟んで向かい合い、各自が机の上に広げた帳面に必死に書き留めているのは四六や真田信之(のぶゆき)、伊達藤次郎(後の政宗)、上杉景勝、直江兼続を筆頭に織田家の家臣たちが送り出した子女が並ぶ。

機密情報や裏取りの為されていない低確度情報は割愛しているものの、それでも黒板に大きく板書された日ノ本の地図をなぞりながらの静子の解説は解り易かった。

国許に居た折に国主となるべく教育を施されていた景勝は、静子が惜しげもなく開示する情報が凄まじい情報量と精度を持っていることに気付き、尾張に居ながらにしてこれだけの情報を把握しうる彼女の能力に戦慄する。


「我が伊達家は勿論、最上や蘆名も明らかに兵を出し渋っておりまする。奥州では北条が敗れると判断したのでしょうか?」


藤次郎は隣に座っている四六の袖を引っ張り、己が思うことを訊ねた。四六の見解では伊達家は織田家に恭順を示すがため、形だけの援軍を送っているのだと考える。

残る両家の動きに関しては、隙あらば奥州を統一せんとするがための兵力温存を第一とし、万が一にも北条家が生き残った際に睨まれない程度の義理を果たしていると見た。

伊達家が旗幟(きし)をはっきりと織田家に示したのに対し、残る両家は日和見主義と言われて仕方のない態度となっている。

戦国の世に於いて生き残りを模索する上で、伊達家のように大きく博打に出るか、それとも情勢を見つつ臨機応変に動くのかのどちらが良いかは蓋を開けてみるまで判断できない。

それでも信長は伊達家の潔さを好み、風見鶏を決め込む両家に対する評価は推して知るべしだろう。


「私の見立てでは北条氏に勝ち目など無いが、反織田を掲げて同盟を呼びかけた以上、一度も矛を交えることなく織田に下るなどできようはずもない」


「それでは北条は一戦交えた後に、頃合いを見て和睦を狙っているのでしょうか?」


「仮にそうだとしても、上様が和睦を受け入れられる可能性は極めて低い。何せ北条を生かしておくだけの理由が無い」


「しかし、北条の居城である小田原城は難攻不落で知られております。如何に若様(信忠のこと)とて一筋縄ではゆかぬと思うのですが……」


「確かに東国の雄と名高い北条氏がそう易々と滅びはせぬだろう。しかし、それでもいずれ雌雄を決さねばならぬ。そして今こそがその好機なのだ」


「まあまあ、お二人ともそれはここで議論しても詮無きこと。藤次郎殿としては北条の先行きが気になるとは思いますが、私語はその辺になされよ」


議論が過熱したためか、内緒話の範疇(はんちゅう)を脱しつつあった四六と藤次郎との会話を信之が制止する。学校の講義でこそ無いものの、領主である静子から一同に情勢を伝える場であったため、二人は周囲に詫びつつ黙った。


「四六と藤次郎君が仲良くしているのは知っていたけれど、源三郎君(信之のこと)とまで面識があるとは思わなかったよ」


「私は図書室に入り浸っておりますれば、お二人と出会う機会もそれなりにございます」


信之は己が静子邸で生活できていることを幸運だと捉えていた。静子領で暮らすようになってからは、甲斐での生活からは考えられないような知識に触れることが出来るのだ。

すっかり図書室の主と化し、蔵書を読み(ふけ)っては思索に浸る毎日を送っている。対して彼の実弟である信繁(のぶしげ)(後の真田幸村)は兄と対照的に体を動かすことを好んだ。

それでも勉学は重要と捉えており、学業を(おろそ)かにはしないものの、学校の体育や角力への情熱と比べると一段劣ると言った印象となる。

物静かで書を好み、俳句も(たしな)む文化人的な信之、対する信繁は竹を割ったような性格であり、社交的で友人も多いため毎日泥だらけになって帰ってくる。

親である昌幸としては両極端過ぎて困惑するものの、それでも己の子供に対して性格の矯正をしようなどと思わず好きにさせていた。


「父上は常日頃より他者の腹を探ることに腐心しておられます。表裏の無い信繁の快活さが父上の癒しとなるのならば、それは良きことでしょう」


信之付きの家臣から、昌幸が弟である信繁ばかりを可愛がっていると苦言を呈された際に、彼が返した言葉がこれである。

常に一歩引いた立ち位置から状況を俯瞰(ふかん)して見ることが出来るという意味では、父親の才能を色濃く引き継いでいるのは信之なのだと理解した家臣たちは、己の不明を恥じて前言を撤回している。

事実として信之は昌幸の態度に何ら不満を覚えておらず、過剰に干渉されることなく好きに学ばせて貰えていることに感謝すらしていた。

父である昌幸としても信之の聡明かつ思慮深い処を信頼しており、その分手の掛かる信繁に時間を割いているだけなのだが、それが周囲に誤解を与えているとは思い至っていない。


「佐竹が里見に援軍を出したのは、恐らく一度矛を交えて彼我の戦力を分析すると同時に北条への義理を果たすためでしょう。ならば、彼我の戦力差を思い知った佐竹はこちらへ接触してくるやも知れませんな」


四六と藤次郎との議論は、一堂に会した皆の関心事でもあったため静子は以降を自由時間とし、各自が好きに議論するように言い渡してその様子を見守ることにした。

すると先ほど二人を(いさ)めたはずの信之が真っ先に口を開き、佐竹の動向に関する意見を四六と藤次郎に述べたことを皮切りにそこら中で小集団同士が侃々(かんかん)諤々(がくがく)の様相を呈し始める。

普段は他者の話を聞くことを優先し、強く己の意見を主張しない四六も同年代の論客を相手に積極的な議論を繰り広げている。

やや年長である信之と、子供から大人へと向かいつつある四六、そんな兄貴分たちを慕う藤次郎とそれぞれに立場は違うものの、静子領以外では絶対に接することの出来なかった影響を受け合っていた。


「全ては静子様の(たなごころ)の内、ですかな?」


そんな三人の様子を微笑ましく見守っている静子に、景勝が声を掛ける。狙っていたかと問われれば、そうなれば良いなぐらいに考えていた静子としては苦笑するしかない。

今までの四六は己の殻に閉じこもりがちであり、お世辞にも人付き合いが良いとは言えなかった。

普通の子供であれば特段問題ない性向だが、静子の後継者たらんとするならばそれでは困る。為政者とは蛇蝎(だかつ)のごとく嫌っている相手とも笑顔で交渉できねばならず、己の周囲を気に入った人間だけで固めれば遠からず領地運営に行き詰まる。

とは言え持って生まれた性格は、口で言って聞かせたところで直るものでもない。どうしたものかと思案していたところに藤次郎が現れた。

藤次郎は好奇心が強く、四六が少々邪険にあしらったところで気にもかけない図太い神経の持ち主であった。彼が四六に付いて回るようになって以来、四六は目に見えて活動的になっていった。


「もっと時間が掛かると思っていたんですけどね」


「四六殿は遠慮がちな処がございますからな。しかし藤次郎殿はそんな四六殿のことなどお構いなしに迫ってきますゆえ、四六殿も距離を取りかねて遠慮など吹き飛んでしまったのでしょう」


藤次郎の『何故? どうして?』攻撃から逃げ回る四六の姿をみたことを思い出したのか、景勝は口元を手で隠しつつも笑みを浮かべる。静子を含めた関係者は二人の関係を微笑ましく思っているが、伊達家の家臣たちは生きた心地のしない毎日であろう。


「『男子、三日会わざれば刮目して見よ』とはこのことでしょうね。子供たちの成長は実に早い」


「静子様なれば教え導くことも出来たのでは?」


「言って聞かせるのは簡単です。しかし、それでは真に身につきません。正解を知っている者が教えるのではなく、間違いながらも正解に己の力で辿り着くことが肝要かと考えます。我らは彼らを教え導くのではなく、気づきの切っ掛けを与え続けて正解に至るのを待つことこそが大事かと。とは言え、それが中々難しいのですがね」


景勝は静子の言葉に目から鱗が落ちる思いであった。自分が静子領で得た様々な知識や知見を家臣たちに教える際に痛感したのだが、最初から答えを教えてしまう方が遥かに楽なのだ。

しかし、上の者が答えを与えている内は、なかなか家臣達の身につかないのである。飢えた人に対して直接魚を与えるのと、魚の取り方を教えるのとの差が判り易いだろうか。

与えられた魚は食べてしまえば終わりだが、魚の取り方を学んだ人は飢えを己で克服できる能力が身に付くのだ。


「ここで得られた経験は、やがて四六の血肉となることでしょう。親と言う文字は木の上に立って見ると書きます。待つこと、見守ることの難しさ、もどかしさに耐えることも親としての修行ですね」


「いやはや感服致しました。なんとしても越後に学校を開きたくなり申した。私が幼い頃に学友と共に学校で学ぶ機会があれば、と思わずには居られませぬ」


景勝が本気で口惜しそうに語るのを、静子は穏やかに頷きながら聞いていた。







九月も中旬を過ぎた頃になると、各地の戦況が動き始めた。まずは西国攻めを行っていた秀吉が鳥取城を攻め落とした。

それも史実にあったような凄惨な『鳥取の(かつ)え殺し』ではなく、兵糧攻めと並行して行った秀吉の策により、相手の士気が崩壊したがための開城であった。

鳥取城は前城主の失策により長期籠城に耐える備蓄が無く、その上で秀吉が周囲の村々を襲ったがため、逃亡した民たちを内部に抱えざるを得なかった。

元より少ない食糧備蓄に対して、予定より増えた人口によって城内の食糧は瞬く間に消費されてしまう。更に秀吉は辺り一帯の食糧を買い占めてしまったため、鳥取城主となった吉川(きっかわ)経家(つねいえ)は食糧を調達することすら出来なくなった。

それでも吉川が籠城を続けたのは、鳥取城が天然の要塞であり、そう易々とは攻略できないこと。また冬が間近に迫っており、雪が降り始めれば秀吉軍とて撤退せざるを得ないと踏んでいたからだ。

それゆえ鳥取城内では、皆が水のように薄い粥で耐え忍び、家畜や軍馬などは言うに及ばず木の皮や草の根まで口にして糊口をしのいでいた。

これに対する秀吉は、食糧及び物資の買い付けで多くの出費をしており、静子からの追加支援を受けて多少の余裕はできたものの、今一つ攻め手に欠いているといった状況であった。

秀吉としては降伏を呼び掛けて無血開城することが最上であり、難攻不落の鳥取城へ力攻めを行って(いたずら)に兵を消耗する愚を避けたいという思いがある。

こうして吉川と秀吉の奇妙な我慢比べが膠着状態に陥ったころ、ふいに秀吉に天啓が舞い降りた。

それは静子からの追加支援物資の中にあった望遠鏡を手にした際の事である。


(これがあれば城内の様子を(つぶさ)に観察できるのでは? そうならば人心を惑わすことも容易い!)


一計を思いついた秀吉は、早速物見に望遠鏡を持たせて城内の様子を探らせた。人類の視力では及ばない遠距離を拡大して見ることの出来る望遠鏡は、実に様々な情報を秀吉に与えてくれた。

曰く、城内の兵士たちは戦闘時以外では壁などにもたれかかり、力なく手足を投げだしている。既に家畜や軍馬、栽培していた作物等もあらかた食いつくしてしまい、皆が飢えに苦しみ、弱った女子供や老人が倒れて横たわっている。

それでも彼らが籠城に耐えているのは、悪名高き織田軍に下れば死が待っていると信じていたからであり、吉川らが繰り返し雪が降るまでの辛抱だと激励し続けたからであった。

こうした状況を把握した秀吉は、散発的な攻撃を繰り返しつつも兵糧攻めを続けた。そして女子供や老人などの弱いものから餓死者が出始めた頃、秀吉の巧妙な駆け引きが始まった。


秋空が夕暮れに染まる黄昏時(たそがれどき)、極限の飢えから泣くことも出来なくなった子供と共に横たわる女の傍に城外から布袋が投げ込まれた。

既に反応する力もない女であったが、布袋から漂ってくる甘い匂いに女が力を振り絞ってそれを引き寄せる。震える手で紐で縛られた口をほどき、中身を探ると竹の皮に包まれた薄い褐色の粘液が出てくる。

女は夢中で甘い香りを発する粘液に指を付け、それをカラカラに渇いた口へと導いた。甘い。飢えた体に沁み渡る甘さであった。それは所謂(いわゆる)水あめであり、久方ぶりに与えられた糖分に朦朧(もうろう)とした女の意識がはっきりと冴え渡った。

女は本能的に食糧を奪われないように物陰に隠れ、愛しい我が子の口へと水あめを与えてやった。そうして僅かばかりの甘露を食べ終えた母子は、布袋の中に書状が入っていることに気が付いた。

それは学のない者にも読めるよう、ひらがなのみで表記された手紙であった。曰く、今や死を待つばかりの女子供を哀れに思われた秀吉公からの温情である。

武器を捨て、秀吉軍に下るのであればそれらの者は助けることを約束する。夜間に城門を開いて抜け出すようにと指示する内容だった。

こうした布袋は城内の数か所に投げ込まれた。それは秀吉が望遠鏡で観察を続けたことにより、城門を守る兵士の家族と思わしきものへと渡るよう投げ込まれたのだ。


女は配給された僅かばかりの食料を手に、女と子供の許へと食料を分け与えるため帰ってきた夫に書を渡して訴えた。このままでは遠からず餓死してしまうこと、どうせ死ぬのであれば一か八かで秀吉軍に下る方が賢いのではないかと。

夫は同じく飢えに苦しむ仲間を裏切ることに躊躇(ちゅうちょ)していたが、先の見えない状況と一人で食べるいつもより量の多い食事と、竹の皮に未だ染みついている水あめの甘い香りが背中を押した。

そして夫は決断する。城門を守る兵士たちに布袋のことを打ち明け、皆で共謀してこの死地より脱するべく行動した。その結果、いくつかの城門が夜中に開け放たれ、それを守っていた兵士たちが家族ともどもごっそりと居なくなった。

しかし、全ての兵士たちが裏切ったわけではなく、一部の忠義心に溢れるものは布袋をそのまま城主の許へと届けたのだ。


「羽柴筑前守(ちくぜんのかみ)め! ついに兵どもの切り崩しにかかりおったか……」


長きに亘る籠城のため、すっかり幽鬼のような様相になり果てた吉川は口惜し気に呟く。開け放たれた城門は、すぐに閉じられたことにより大規模な脱走及び、秀吉軍の侵入を許すことは無かった。

しかし、昨日まで一緒に戦っていた兵士たちが纏まって消えればどうしても噂になってしまう。投げ捨てられた武器防具に、布袋に残された書状が衆目に晒され、投降が可能であることが知れ渡ってしまった。

飢餓にあえぐ家臣達や受け入れた民たちからは、秀吉軍へと下って欲しいとの嘆願が届けられている。それでも吉川は雪を待て、奴らも必死なのだ。今が辛抱どころだと訴え続けた。

降雪に一縷(いちる)の望みを託し耐えるよう、反発する家臣や領民たちに時には武力で脅してまで説得し続ける。その極限状態に於いて、秀吉の更なる計略が発動した。


「殿! 敵軍が……羽柴軍が!」


「敵がどうした!?」


「ほ……保存食を作っておりまする!!」


伝令を通じて側近から齎された報告に、吉川は文字通り膝から崩れ落ちた。


それは異常な光景であった。いくさの最前線に於いて不似合いな大鍋が幾つも並べられ、かぐわしい香りを放つ汁物が煮られている。

その隣では(はらわた)を取って開きにされた小魚が大量に干されており、蒸されたサツマイモが(むしろ)の上に広げられて乾かされていた。

とどめとばかりに付近で作られていた保存食である佃煮(つくだに)を、巨大な鍋で煮詰め始めたのだ。

佃煮とは摂津国(せっつのくに)佃村付近で作られている伝統的な保存食である。不漁の時に備えて作られた小魚の煮物であり、塩や醤油で辛く煮締めてあるものだ。

ここで秀吉は他国に比べて遥かに砂糖を入手しやすい織田領の特異性を活かし、大量の砂糖と醤油を使って甘辛い佃煮を作らせた。

ただでさえ飢餓で苦しんでいる最中に、敵軍は大量の食糧を加工して越冬の準備をしている光景は鳥取城内全ての人々の心を折った。

風に乗って城内へと届けられる甘く香ばしい匂いに兵士たちはついに武器を捨てて泣き出してしまう。

その状況を見ていた吉川はとうとう秀吉軍に下る決断をすることとなった。


吉川は自分を筆頭に、有力者たちの切腹を条件として兵士及び民衆の助命を秀吉に嘆願した。これに対して秀吉は、極限状態にあっても城内をまとめ上げ続けた吉川を自分の幕僚に迎えようと考え、旧山名氏家臣達の切腹のみで良いとした。

史実に於いては人が人を喰らう生き地獄となり果てた鳥取城であったが、今回は餓死者こそ出したものの損害が軽微であり、吉川も己を高く評価してくれる秀吉に(ほだ)され彼に仕えることとなる。

こうして鳥取城は開城し、飢餓の極みにあった人々は秀吉軍から食料の供出を受けることとなった。

史実であればいきなり米粥を与えたことにより、極度の飢餓から過度の栄養摂取によるリフィーディング症候群によりショック死してしまったという痛ましい事件が起こったのだが、静子の手によって人体の働きを学んでいた金瘡医(きんそうい)(本来は刀傷などを治療する外科医を指すが、織田軍に於いては従軍する軍医を指す)の指示により重湯(おもゆ)が与えられ惨劇は未然に防がれた。


この温情措置によって秀吉軍の評判は良くなり、近隣の有力者たちも協力的になった。逆に毛利は鳥取城陥落の報に恐慌状態となる。

長期戦を考えていたところへ、呆気なく鳥取城が陥落し、更には周辺の有力者たちも織田側に付く動きを見せている。今回の敗北によって毛利は、対織田戦略を根本から見直す必要に迫られることとなった。



一方、東国では織田軍優勢のまま状況が推移していた。信忠は勝山城及び勝山湊を完全に要塞拠点として整備し、伊豆以東の制海権を完全に掌握する。

この武功を以て、信忠は再び東国征伐軍の総大将へと返り咲いた。

制海権を掌握したことにより、信忠は伊豆半島最南端に位置する下田城を攻めさせた。下田城には北条五大老の一人であり、伊豆水軍を率いる清水(しみず)康英(やすひで)が詰めていた。

清水氏は北条氏康の傅役(もりやく)(跡継ぎにつく教育係)の家系であり、康英は氏康の乳兄弟でもある。

史実に於いては秀吉が小田原攻めを行った際に、下田城には僅か六百の兵しかいなかったとされる。これは海路的に下田城が素通りされる可能性が高く、そこに多くの兵を配置するのは無駄だと言うのが理由だという説がある。

また一方で主君たる氏政より「秀吉の水軍については、全て下田城の康英に任せるゆえ口出し無用」との手紙が残っており、氏政からの信頼が厚かったことが窺える。

実際に清水は六百という寡兵でありながら、一万近い秀吉の水軍を相手に一か月近く耐え抜いたのだ。


そして信忠も間者たちから齎された情報により、氏康の信任厚い清水を警戒して先に攻め落とすよう指示する。それでも流石は清水と言うべきか、史実とは兵装も近代化して桁違いの火力を誇る信忠軍相手に善戦して見せた。

伊豆水軍は信忠の到着を待たずに、既に九鬼水軍の手によって壊滅していた。それにも拘わらず清水は地の利を活かし、寡兵を巧みに運用することによって信忠軍を苦しめた。

清水は最後の一兵になるまで抵抗を続け、戦場にて討ち死にすることとなる。信忠は清水の忠勇ぶりを「敵ながら天晴。清水上野(こうずけ)(のすけ)の働きは比類なし」と褒め称えた。


里見と佐竹が籠城する佐貫城では、才蔵が率いる軍と睨み合いをしつつも、裏では和睦に向けて動き始めていた。

これまでのいくさで両家は嫌と言うほど思い知っていたのだ。このまま籠城を続けたところで、自分たちに勝ち目はない。更には北条からの援軍も望めない。

この状況下に追い込んだのが信長や信忠が率いる織田本軍であればまだしも、静子軍の一武将たる才蔵の率いる一部隊に過ぎない勢力に手も足も出ないのだ。

国人として、武将としての面子よりも血統を残すことを優先し、両家は恥をしのんで敗北を受け入れた。

しかし、才蔵軍は積極的に攻め込んでは来ないため、北条家の趨勢(すうせい)を見極めるべく、和睦の使者を遣わしつつも籠城を続けている。


奥州では伊達家が蘆名、最上の両家に対していくさを仕掛けた。蘆名家には織田軍から佐久間父子と林秀貞(ひでさだ)が攻め込み、伊達家は最上家に専念することとなる。

当然ながら最上家より嫁いできている義姫は憤慨したが、伊達家内の意見は織田軍に付くことで統一されているため、顧みられることは無かった。

最上の領土では伊達家の動きに呼応した親伊達派が反乱を起こし、最上は陥落寸前の状態へと追い込まれている。蘆名家については織田軍の侵攻を受けて早々に降伏し、その処遇については伊達家の意向を考慮しつつ、林が対応することとなる。


これらのことで東国は既に信長の手中にあると言っても過言ではない状況となった。東北地方の一部及び、奥州以北が残されているが、それらは伊達家が時間を掛けて併呑するだろう。

日ノ本で信長の手が及ばないのは、中国地方及び九州のみとなった。

それらにしても毛利は既に虫の息であり、九州は各国人が群雄割拠しているため、信長に抗しうる勢力は存在しない状況だ。政治の中心である京を押さえ、経済の中心も堺から尾張へと移りつつある。

織田家に(くみ)していない日ノ本の武家たちは、信長こそが天下人であり、天下統一は時間の問題だというのが共通認識となった。

ことがここに至っては、北条家が勝利すると考えている者はおらず、北条家が滅べば明日は我が身とばかりに保身に走ることとなる。


「今更(こび)を売ったところで、上様のご機嫌を損ねるだけだと気付かないのかな?」


静子は真田昌幸から齎された報告書を読みながら首を傾げた。信長が東国征伐の号令を掛けた時点で申し入れていれば、彼も悪いようには扱わなかっただろう。

しかし、大勢が決した状況では天下統一後の世で甘い汁を吸わんとしている意図が見え見えであり、受け入れはするものの決して厚遇はされない。


(流石にリスクを負わずに勝馬に乗ろうとするのは虫が良すぎるよね。まあ私としては太平の世になって、のんびり過ごせれば言うことないんだけど)


静子は信長が天下統一を成し遂げた暁には、引退してのんびり畑でも耕して過ごしたいと折に触れて口にしている。

しかし、静子以外の誰もがその願いが実現することはないと思っていた。何せ静子は信長すら呆れるほどのワーカホリックであり、常に何かしていなければ気が済まない性分なのは明らかだ。

ゆっくり過ごすと口にしながらも、数か月もすればあくせく働いている姿が目に浮かぶ。静子のこととなれば大抵肯定的に受け止める足満ですら、のんびり過ごす静子の姿を思い描けないでいた。


「静子様、足満様がいらっしゃいました」


「ん、問題無いから通して」


小姓に返事をすると、少しして足満が部屋に入ってきた。


「随分と熱心に見ておるな」


足満は自分が入室しても報告書から目を上げない静子に苦笑する。


「北条に関しては早ければ年内、遅くとも来年には決着を付けたいからね」


「遠からず()を上げるだろうよ。支城は櫛の歯が欠けるように奪われ、海は完全に封鎖されている。東北を平定した勢力もじきに南下して来るだろう」


「それでも暫くは耐えるだろうね」


「耐えたところで仕方あるまい。勝てる道筋が無いのだから、後は時間の問題だ。それに静子、お前も裏から手を回しておるだろう?」


足満の問いに静子は初めて報告書から目を離した。揺るがない足満の目を見て静子は嘆息すると、報告書を机の上に置いた。


「目立たないようにしてたんだけど、やっぱり判る人には判るんだね。柴田様は小細工を好まれないから、こっそりやってたんだけど」


「柴田は気付くまいよ。織田軍に於いても目端の利く者ならば気付く可能性がある程度だろう。何せ静子のしていることは経済戦争だからな」


経済戦争とは軍事目的を伴う経済政策を指す用語だ。中世から近世にかけての戦争は、人口調整という側面もあるのだが、経済戦争は国家間の対立を解消すべく行われる。

直接的に武器を突き合わせるのではなく、敵国の経済力に影響を与えて間接的に継戦能力を奪う戦略となる。

史実に於いて明確な経済戦争とされるのは第二次世界大戦時に、連合国と枢軸国の双方が戦略資源を奪い合う『敵資源の取り込み』という政策を行っている。


「とは言え、やっていることは金の流れを操作しているのと、物資を差配できる有力な商人を取り込んでいるだけだけどね」


「それだけで充分だろう。物と金を絞られたら人は干上がるしかない」


いくさをするには武器や食料も大事だが、それと同様に金が物を言う。物があっての金ではあるが、あらゆる物と交換可能な金は人を動かす原動力足り得る。

たとえ国家存亡の危機にあっても、無給で働ける者はそう多くないのが実情だ。


「それで首尾はどうなのだ?」


「いくさのお陰で物流が滞っているせいか、物資を供給できる我々に下る商人は増えているよ。一部の地元と密着した商人は抵抗しているけれど、物が無いんじゃ影響力も小さくなるばかりだね。年明け辺りには物流を支配できると思う」


足満の質問に答えながら、静子は先ほど目を通していた報告書を彼に手渡した。ざっと目を通した足満は小さく笑みを浮かべて口を開いた。


「上々だな」


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― 新着の感想 ―
[一言] 史実では「切腹させろ」と譲らなかった吉川経家。 本作の交渉でも相当に渋ったでしょう。 秀吉「吉川式部殿は将兵とも空腹のあまり平静を欠いておるのじゃ!降伏と決めたのなら、もう意地を張られるな…
[一言] 東国情勢で津軽家と南部家が出てこないのでちょっと気になりました。 両方とも織田信長と接触があったという話を読んだことがあるもので・・・
[一言] 近畿の人は佃煮は摂津佃村起源という。 関東の人は佃煮は佃島起源という。 ただ佃煮を売り出して有名にしたのは佃島の方なのは事実かな。
感想一覧
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