千五百七十七年 六月上旬
静子は公家の本質をまだ理解できていなかった。彼女の良く知る公家筆頭は前久であり、彼は公家の中でも開明的な事で知られていた。
つまりは典型的な公家という存在に静子は初めて接することになったのだ。彼らは格式を重んじ、手続きや儀礼を決して疎かにしない。
悪く言えば前例踏襲主義であり、異例な事を許さない融通の利かなさを持っていた。形式は形式として尊重はするが、あくまでも実利を追求する武家とは決定的に異なるのだ。
これらの差異が災いし、何かにつけて時間を要した結果、今回の派兵は遅れに遅れた。結局静子が本願寺に布陣出来たのは、京を出立して二日が経過してからであった。
進捗の遅れについては静子から信長へと毎日定時報告が為されていた。混成軍で他者の目がある中、秘密兵器である電信設備を運用するのは難しいため、従来の早馬と併用することで遅滞の少ない通信手段を確立している。
まず静子が連絡内容を暗号で認め、それを早馬が常設の通信設備がある静子の京屋敷まで届けていた。京屋敷常駐の通信技術者が暗号を平文に復号して信長へと通信するという流れとなる。
因みに計画が遅延していることに対し、信長は何も言ってこない。前もって信長は朝廷との間に約定を交わしており、いかなる理由があろうとも静子を貸し出す期間は七日であるとしていたからだ。
「あれこれと余計な時間を食いましたが、どうにか本願寺を包囲できましたね」
如何に大軍を擁しようとも、蟻一匹這い出す隙間もない程に本願寺を包囲することなど不可能だ。それでも主要な出入り口や水路等から出入りを封鎖する程度のことは出来る。
静子たちは布陣してから丸一日を掛けて包囲態勢を構築した。当初は内部からの反撃や妨害があると思われたのだが、予想に反して本願寺側の動きは無かった。
要所要所に構築した物見台からの報告では、内部で動いている人自体が少なく、外郭を捨てて内側に籠っていることが予想される。
つまりは外部に打って出るという博打を避け、ひたすら亀のように首を引っ込めて耐えるというのが教如の作戦なのだろうと静子は思った。
(籠城作戦を取るということは援軍の当てがあるということ。既に三日を浪費しているから、速攻で決めないと)
静子は石山本願寺周辺一帯を記した地図を眺めながら黙考する。実は織田軍が本願寺を包囲していた頃より、定点観測所をいくつも設置してずっと気象観測を継続していたのだ。
とは言え現在のような衛星からの情報など望むべくもないため、この時代でも実現可能な計測装置を用いた記録を続けていた。
つまり方位磁石と吹き流しによる風向き、扇風機のような形状をしたモーター式風量計、漏斗型の受水器と転倒升と呼ばれる仕組みを用いた雨量計で今までデータを収集し続けていたのだ。
こうした地道な活動が実を結び、今宵の秘密作戦が立案されるに至っている。とは言えそう大した作戦では無い。
夜闇に乗じて熱気球を飛ばし、天然アスファルトと有機溶剤その他を混合した安価な焼夷弾を投下する、それだけだ。ただし、日本を取り巻く気流の特性として、西から東へ気球を飛ばすのは容易だが、逆に東から西へと気球を飛ばすのは難しい。
夜間に飛行コースを確認するのは本来難しいのだが、本願寺を包囲している軍に一定間隔ごとに篝火を焚かせれば雨天時以外は問題なく視認することが出来る。
ただ熟練の飛行士と黒塗りの熱気球はそれほどの数を用意することが出来なかった。しかし天から突如火が降ってくるとなれば、信心深いこの時代の人々ならば大混乱になることは疑いようもない。
「日が暮れた頃に一機だけでも試験飛行させましょうか?」
「いえ、今までに収集された情報を鑑みると日暮れと同時に風向きが変わることが多いのです。今宵が絶好の機会でしょう、各機に準備しておくよう通達してください」
「ははっ」
家臣の提案を退けた静子は、そのまま日暮れを待った。最近の観測データ通りに夕方ごろより風が凪ぎ、日が沈み込む直前の薄暮の世界で虫の合唱とともに涼やかな風が吹いてきた。
「頃合いですね。全機搭乗! 離陸準備を進めなさい。兵装は爆装のみ、建物を重点的に狙うように」
静子の号令を受けた伝令が走り、やにわに随所に設けられていた熱気球の駐機場が騒がしくなる。気象観測台では水を電気分解して得た水素ガスを鹿の膀胱に詰め込んだ即席の風船にロープをつけて上空へ放つ。これにより、気球の飛行高度付近の風向きが確認された。
全ての準備が整った気球部隊達は地上との係留ロープを解かれ、気球自体に積載されていた重りの砂袋を一つ、また一つと落とすことにより徐々に天空へと舞い上がっていく。
素焼きの壺に特製燃料を入れて油を染み込ませた布を火口とする簡易焼夷弾を、それぞれに二百キロほど積載した僅か五機の熱気球。少数精鋭が世界初の夜間空爆を行うべく夜の帳が降りた世界を駆けた。
地上は蒸し暑い程だと言うのにはるか上空の世界は太陽が姿を隠したことにより、震えがくる寒さであった。各熱気球の乗員は3名、構成は観測手1名に熱機関の管理を行う機関士兼操縦手が1名、最後の一人は他2名の補助を行う。
地上を眺めていた観測手が叫ぶ。
「方向良し! あと四半刻(約30分)ほどで本願寺上空に達する見込み。地上の明かりが見えるゆえ、あそこが城門付近だろう。わしが合図を出したら一斉に壺に火をつけて投下せよ」
「了解! 高度は安定しておる。壺の準備は出来ておるか?」
操縦手が気圧式の高度計を読みながら声を出して確認する。気圧式高度計は水銀を封じ込めたガラス管を釣り針のような形にし、ガラス管上部に真空を生じさせることにより気圧を測定するものだ。
高度が上がるほどに大気圧が下がることから、おおよその現在高度を読み取ることが出来るのだ。
「はっ! いつでも行けます。進行方向以外の面から投下いたします!」
最も年若い補助要員の青年が緊張と寒さで唇を青くしながらも、それでも決然と告げた。
その頃、地上では西の空へと熱気球の飛び去って行った方角を睨むように見据えている静子の傍に近寄る者がいた。
「義姉上、何やら難しいお顔をしておられる」
「……何故ここにいるか理由を聞いても良いですか?」
官軍の総大将である近衛信伊その人であった。本来は本陣にて休んでいるはずの人物なのだが、どうも監視の目を盗んで抜け出してきたようだ。
「天より火を降らすと聞いておとなしくしていられましょうか? 特等席で見物すべく抜け出して参りました」
「空襲成功の報を本陣にて受けるのが貴方の役目だと伝えたはずですが……」
「判っております。どうせ御簾越しに報告を受けるのです、乳兄弟を代わりに置いてきておりますので問題ありません」
確かに使者が報告を告げる相手の姿を確認することは無いし、彼らが信伊の声を知っているはずもない。
しかし、ここ戦場に於いては何が起こるかわからない。総大将という将棋で言う王の駒が最前線でふらふらしていては、万が一の事態が起こりうるのだ。
鈍い痛みを発する頭を振りながら静子は、それでもここから本陣まで帰らせるより、目の届く範囲に置く方が安全だと判断し、伝令を立てて信伊の居場所を本陣に伝えるよう命じた。
「好奇心を持つなとは言いませんが、周囲に掛かる迷惑を理解できないのでは総大将は務まりません」
「うっ、いや……あの……」
思いのほか強い口調で叱られたことに信伊は口ごもる。流石に勝手が過ぎたかと慌てるが、こうなってしまった静子は梃子でも動かない。
「今回の軽挙妄動は義父上に報告します」
「そ、それは」
「貴方の勝手が万を数える人々の行く末に影響を与えるのです。己のやったことは、それだけの大事だと知りなさい。今更戻れとは言いませんが、私の指示に従って貰いますよ」
「はい、それは勿論」
「罰と引き換えになりますが、天からの火をとくと御覧なさい。己が分を弁えない愚か者は、いずれ除かれるのですよ?」
「も、勿論わかっております義姉上(理解できねば、私もそうなると……)」
軽い口調だが本気の声音であることを理解した信尹は、冷や汗をかきながら何度も頷くのであった。
それは突然始まった。夜闇を睨んでいた静子たちの目には、突如として空から尾を引く炎の雫が降り注いだように見えた。
ガシャンと言う音とともに天より降り注いだそれは、粘性の高い燃える何かとともに広範囲を火の海へと変えた。見張りを除いて建物内に籠っていた僧兵たちは、物音に驚いて表に走り出ると、天より火の雨が落ちてくる地獄の光景に打ちのめされる。
次々と音もなく降り注いでは、恐るべき広範囲を火の海へと転じさせる天罰そのものの光景に恐慌をきたした僧兵たちは、口々に「天罰じゃ! 教如様のなさりように天が罰を下された!!」と絶叫して逃げ惑った。
幸いにして天より降り注ぐ炎は東から西へと直線状にしか落ちてこないため、避難自体は容易であった。しかし寝ていたところを焼け出されたものも多く、避難が間に合わずに建物と運命を供にした僧兵たちも多かった。
生を拾った人々は、それでも懸命に消火活動を行った。そうして夜が白み始めて薄明の世界に浮かび上がったのは、天から線を引いたように一直線に燃え落ちた残骸であった。
皆が消火活動で疲労困憊となり、きな臭い煙があちらこちらから立ち上る絶望の光景に打ちのめされた。被害自体はそれほど甚大な物ではないのだが、余りにも巨大な線状の火災跡を見た人々は、天の怒りを買ってしまったのだと心の底より恐れおののくことになる。
皆が必死に消火や救命活動に奔走しているさなか指導者たる教如が何をしていたかと言えば、火の手の及ばない奥の院付近まで避難して井戸の水を頭から被り、震えながら災禍が過ぎ去るのを天に祈っていた。
悪夢のような空襲が過ぎ去り、火災の対処に皆が血道を上げる中、それでも教如は声を上げて僧兵たちに指示を出したり鼓舞したりすることすらなくただただ打ち震えていたのだ。
教如が特別臆病だったという訳ではない、天変地異もかくやと言う甚大な被害に対して一人の人間は余りにも無力だった。
それでも夜が明ければ皆の前に立って籠城を続けるよう檄を飛ばさなければならない。ここで降伏してしまっては己の命が潰えてしまう。
教如は渾身の力を込めて萎えきった足で立ち上がり、供に介助させて身だしなみを整えると、何事も無かったかのような素振りで皆の前に姿を現した。
「皆のもの、うろたえるでない! この教如は天より飛来した火の雨とやらに、毛一筋ほどの傷すら負っておらぬ。皆が騒いでおらねば、襲撃があったことすら気付かなかったであろう! この通りわしは天に守られておる。織田の悪鬼が外道の業を用いたとて、御仏の加護を持つわしには如何ほどのこともない!」
教如はそう大音声で呼ばわると、毎朝の如く演台へと上り説法をはじめた。そんな教如の動じない姿を見て、焼け出されて打ちひしがれていた僧兵達も演台へと集まってくる。
「見よ! 悪鬼めらは闇に乗じて天より火を降らせたと言うが、そこまでしたと言うのにこの程度でしかないのが我らに天の加護がある何よりの証拠!」
教如による堂々とした口上が功を奏したのか、疲労の極みにあった僧兵たちは教如の声に聞き入っていた。
「織田の悪鬼が何するものぞ! わしは天の寵愛を一身に受けておる、わしが正しいからこそ矢も弾も火の雨とて我が身を避けて通るのだ!」
少し前まで頭を抱えて震えていたとは思えない程の堂々とした演説であった。教如本人は毛ほども仏の教えを信じていない。
かつて幼い頃はひたむきに信仰していたこともあったが、長じるに連れて信仰は信者を従わせるための方便へと姿を変えていった。
京に於いて名門の古刹(古い寺のこと)率いる高僧たちの有り様を見てきた教如には、己を律して万民に尽くすなど阿呆の所業でしかない。
そう思い至った教如は親鸞聖人の説いた他力本願(自らの修行や功徳によって悟りに至るのではなく、阿弥陀如来様にあるがまま御すがりし、阿弥陀様の本願によって救済されること)を己の都合の良いように解釈した。
つまりは何れ訪れる阿弥陀如来によって救済されるのだから、俗世で好きなように振る舞っても構わないと開き直ったのだ。
「天よ! 御仏よ! 御照覧あれ! 我が信仰に一片の曇り無きゆえに、悪鬼どもが我が身を傷つけること能わず!」
教如が大きく手を振りかざし、そう叫んだ瞬間一発の銃弾が演台の上を駆け抜けた。遅れてガーンという遠雷のような銃声が響き、絶叫が上がる。
見れば教如が天に向けて開いていた左手首が千切れかかっていた。手首の根元に存在し、指を支える骨と腕の骨とを接続する手根骨が銃弾によって撃ち抜かれ、教如の左手は皮によって辛うじて繋がっているだけの物体に成り下がっていた。
教如は己に降りかかった災難を自覚できなかった。灼熱した火箸を押し付けられたかのような激痛が絶え間なく襲い掛かり、余りの痛みに吐き気さえ込み上げて目を開くことが叶わない。
それでも信徒の前で醜態を晒すまいと歯を食いしばって目を見開いた。彼の目線の先には断面から血液を吹き出す手首の先が存在せず、彼が悶絶した衝撃と自重によって垂れさがる手の残骸が揺れていた。
彼は余りの惨状と激痛に意識を手放し、その場に卒倒した。慌てて駆け付けた僧兵が教如の体を演台の陰に引きずり込み、拙い知識で血液が流れ出ないように断面付近を強く圧迫する。
演説中に銃撃されて凶弾に倒れた教如を見た僧兵たちは恐慌に陥った。なまじ彼の演説に聞き入っていただけに、その落差が彼らを容易に狂気へと走らせた。
即ち教如の語った『御仏の加護』など絵空事であり、教如のようにいつ己の体の一部が吹き飛ぶか判らない恐怖に全てを投げ捨てた僧兵たちは、出入口である山門に向けて濁流のように押し寄せた。
皮肉にもそれらを押しとどめたのもまた外部よりの暴威であった。轟音と共に山門や外壁が砕け散り、飛礫となって辺り一面を穿ち抉り取った。
轟音と衝撃に皆の足が竦んで動きが止まったところへ、次から次へと間を空けずに砲弾が着弾して内と外とを隔てていた全てを薙ぎ払っていく。
そうして僧兵たちが目にしたものは、ズラリと並んだ大砲が次々に火を噴き上げる光景だった。追い立てられるように僧兵たちは逆方向へと一心に駆けだして行く。
そこには信仰や兵としての矜持などと言う高尚なものは一切無く、目前に迫りくる死から逃れたいという生存本能の発露でしかなかった。
「お、俺の脚が!! 脚が!!」
「走れ! そいつはもう助からん!!」
絶え間なく撃ち込まれる砲弾と、隙間を縫うように飛来する銃弾に倒れる者が続出する。
背後から迫るのは死そのものであり、振り返る暇が有れば少しでも前へ進もうと皆が必死に走った。立ち向かう等という選択肢は脳裏を掠めすらしない。
完全に統制を失い潰走状態に陥った僧兵たちは、倒れた者や堀に落ちた者を踏みつけて我先に逃げていく。何処まで逃げれば助かるかなど判らないため、死の狂騒状態は力尽きるまで止まることが無かった。
時は少し戻り、教如の絶叫が上がった直後。
「ふん! 大げさに動かすから指じゃなくて手首を落としちまった」
「どうやら、側近が演台の陰に引き込んだようだな。これ以上の狙撃は無理だ、我らは下がるぞ菊、ちさ!」
菊と呼ばれた狙撃兵は、伏せ撃ちの体勢から身を起こすと声を掛けてきた一郎に無言で頷いた。最年少のちさも一つ頷くと一郎から双眼鏡を受け取り、比較的軽量の荷物を背負って立ち上がる。彼らは静子軍の中でも一、二を争う腕前を誇る狙撃チームだ。
教如の狙撃という難題を見事成功させた彼らは、最前線から静子の許へと撤退することになる。菊としては指だけを吹き飛ばすつもりだったが、流石に狙点が小さすぎたことが口惜しいようだ。
「なに、御仏の加護とやらで避けて通るはずの銃弾を命中させたのだ。それだけで値千金、欲をかくほどの事もあるまい」
「静子様は私を褒めてくださるかな?」
「ええ、きっと」
急に不安そうな表情を浮かべる姉の菊を見て、ちさはにっこりとほほ笑んで受け合った。
石山本願寺が火の手に包まれている頃、本願寺より遥か西の山間にて熱気球と回収部隊が合流して撤収作業に入っていた。
全五機の内、四機までは問題なく回収できたのだが、残り一機が炎上による上昇気流に流されて川へと着水してしまい、回収が難航している。
その存在のすべてが機密の塊である熱気球の部品は、たとえそれが何か判らないほどに小さなものであっても可能な限り回収するよう言い含められていた。
熱気球の乗員及び回収班の面々による決死の努力によって、何とか川岸へと熱気球を回収し、これを分解して小荷駄に偽装し京へと移送することになる。
彼らは自分たちの為した成果をここで知ることが出来ないが、しっかりと目標を果たしたという実感があった。
誰もが想像だにし得ないであろう空からの攻撃という前代未聞の作戦の完遂に胸を熱くする。自分たちの存在が秘せられるべきものであり、決して歴史に名を残すことは無いだろうが、歴史の転換点にてその一翼を担えたことを誇りに思った。
名もなき彼らは朝もやの立ち込める中、誰にも見咎められることなくその姿を消した。
砲声が鳴り止んだ後の石山本願寺の姿は惨憺たるものであった。天より巨大な筆で線を引いたように無残に焼け焦げ、また外壁から一直線に全ての物が破壊され視線を遮る物体がなくなっていた。
その直線上の至る所に無残な屍となった僧兵が身を横たえており、その攻勢の凄まじさを物語っている。五体満足の骸は少数であり、体のあちらこちらが欠損したかつて人であったものの残骸は酸鼻を極める。
そんなこの世の地獄を作り出した張本人である静子は、決然と前を見据えて声を放った。
「二刻のみ待つと伝えなさい。これが最後通告です」
「はっ」
伝令たちは生存者たちを探して西へ向かって駆けて行った。この状況下で組織だった反撃など出来るとは思えないが、それでも用心するに越したことはないと、三十名近い兵たちが隊伍を組んで降伏を呼び掛けていく。
程なくして伝令たちの進んで行った方角から、幾人かずつが小集団となって降伏を申し入れてくる。あれほどの攻撃を受けながらも、奇跡的に生を拾った者がそれなりにいたのは静子も驚いた。
生存者たちのいずれもが憔悴しきっており、己が助かったことに涙するものは居ても敵意を見せるものなど皆無であった。
「ご苦労様です」
伝令部隊の帰還を受けて、静子は直々に彼らを労った。
「これより二刻、向こうの降伏を待ちます。二刻経っても返答がなければ、全てを焼き払いなさい」
「はっ」
静子はそれだけを言い残すと、前線を去って本陣へと戻っていった。慈悲を掛けるような機会は既に逸して久しい。これらの措置は慈悲というより、戦後の後始末を楽にするための方策ですらあった。
果たして組織としての体を為していないと思われた本願寺の僧兵達だが、それでも教如に代わる代表者を立てて降伏を申し出てきた。
「我ら本願寺に籠りし一同、御身のお慈悲に縋りとう存じます」
「降伏に際してこちらの条件は三つ。一つ、指導者である教如と朝廷よりの使者の身柄を引き渡すこと。一つ、一切の武装を放棄すること。一つ、降伏後は下間刑部卿の監視下に入り、彼の指示に絶対服従すること。以上を飲むのであれば、降伏を認めます」
「我らに否やはございませぬ。全てご指示に従いまする……」
静子からの要求を受けた本願寺の代表は、間を置かずに了承する旨を伝えてきた。
「判りました。では最優先で教如及びご使者殿の身柄を引き渡して貰います」
「承知いたしました」
「念を押しますが、下手なことを考えぬように願います。遺体を片付けるのも手間なので、歩けるものは歩いて貰った方が楽ですからね」
「はっ……」
元より妙な気など起こす余裕すら無いが、それでも自分たちの生死を手間だけで左右されるということが恐ろしかった。
代表はほどなく戸板に乗せられた意識の無い教如と、後ろ手に縄を打たれて拘束された朝廷の使者を連れて戻ってくる。
教如に関しては手拭いを噛ませた上で、傷口を焼いて乱暴な止血がされており、ショック死こそは免れているものの当分意識が戻りそうにない。
また朝廷からの使者については、あれだけの攻撃を受けたはずにも拘わらず傷一つ負っていない状態だった。
「二人を本隊へ移送しなさい」
「わ、私は囚われて――」
「黙りなさい。この期に及んで我々が貴方の所業を掴んでいないとでも思っているのですか? そうならば私も随分と侮られたものですね。申し開きの場は京にて設けます、謹んで裁きを受けるように」
使者の弁明を遮ると、静子は使者にも猿轡を噛ませるように命じた。事がここに至っても己の保身に走らんとする醜い心根に辟易とした静子は、彼らをさっさと後方へと送致することに決めた。
こうして、教如が一部の公家と結託して起こした石山本願寺の乱はたったの二日で鎮圧されたのであった。