千五百七十七年 六月上旬
遠藤基信にとって信長との会談は白昼夢のようであった。まるで地に足が着いておらず、夢心地のままに彼は信長直筆の約定書を手に帰途に就いている。
事前に得ていた情報では信長と謁見すること自体が難しく、仮に機会を与えられたとしても不興を買えば中座されることもあるという話であった。
しかし、基信に至っては昼餐をともにするという破格の厚遇を受けてすらいた。まさに『瓢箪から駒』であったのだろう。
(これが尾張……これが天下人の暮らし……そしてその全てを統べる織田様なのか)
信長と会食をするという機会に恵まれた基信は、日ノ本の常識から隔絶した信長と尾張の在り様に畏怖を抱いた。
極度の緊張下にあった基信は、供された食事の味など感じる余裕すら無かった。
それでも調度一つ、食器や什器に至るまでの全てが高度に研ぎ澄まされたものであることが感じられた。基信は神経を張り詰め、信長や同席していた静子に倣って食事を取ることに腐心し、醜態を晒さないようにすることで精一杯であった。
恐らくは当代一流の料理が供されていたのだろうが、味はおろか香りや色あいですら曖昧模糊としており記憶に残っていない。
「誰もが羨むような豪華な一席だったが……わしは二度と御免被る。あれならば面を伏して意見を申せる謁見の方が心やすらかでいられよう」
信長は警護の兵はおろか、小姓すら伴っておらずに無防備であった。そんな彼に刃を向けられるかと問われれば否である。
基信から見た信長は近寄りがたい程の威光を纏っており、敵意を抱いた瞬間に己の首と胴が離れているであろう事は想像に難くない。
「ともあれ、何とかお役目は果たせた。問題は、人質か……」
そう呟いた基信は大きなため息を吐いた。彼が手にした約定書には、伊達家が恭順の証として人質を差し出すことが明記されている。
順当にいけば人質として差し出すのは嫡子である梵天丸(後の伊達政宗)となるのだが、元服したばかりで伊達藤次郎政宗と名を改めた彼には性格に少々難があった。
「心根は真っすぐなのだが……しかし、危うい……」
政宗の性格は竹を割ったように素直であり、少々向こう見ずなところはあるものの概ね問題ない。しかし、人質として他家に預けるにあたって致命的な問題があった。
それは素直さ故か、思ったことを直ぐに口に出してしまうことである。伊達家の内部であれば何ら問題ないのだが、信長や静子に対して失言をしてしまえば外交問題となってしまうのだ。
他の候補として次男である小次郎を差し出すという方法も無いではないのだが、長男である政宗が病を得て隻眼になって以降、実母の義姫は弟の小次郎のみを可愛がるようになっているため難しい。
「いずれにせよ、まずは殿にご報告した上で勘案せねば」
自分一人では結論が出ないと判断した基信は、一路奥羽を目指して帰路を急いだ。
伊達家の一件が片付いた静子は、一軍を率いて上洛し京屋敷へと身を落ちつけていた。静子が尾張に籠っていると、如何に朝廷の使者といえど彼女と接触するのは容易ではない。
朝廷が静子に対して三顧の礼を取ったのではなく、静子が朝廷の命を拝領した形式にしたいと言う思惑があった。
つまり朝廷の面子を保つため、静子は上京して使者を待っているのだ。既に信長と密約を交わしているため、対外的なポーズに過ぎないのだが信長は呆れながらも彼らに便宜を図るよう静子に命じていた。
「ようこそ義姉上、ご機嫌麗しゅうございます」
朝廷と接触する機会を更に増やすべく、静子は近衛邸に滞在している。早速前久と会談を持とうとしたのだが、厄介な相手につかまってしまった。
静子を義姉と呼ぶ少年の名は近衛信伊という。前久の実子であり、史実に於いて関白相論と呼ばれる朝廷内の人事抗争を引き起こし、秀吉が公卿を差し置いて関白に就任する口実を与えてしまった。
これにより七百年にも亘って維持してきた摂関家の伝統を一夜にして潰したとして公家社会から孤立し、やがて心を病み酒浸りになった挙句に薨去した人物である。
今世に於いても当初は前久の後を継いで関白を目指していたのだが、そんな彼の興味を惹き付けてやまない人物がいた。
「此度はまことにおめでとう存じます」
「……念のために伺いますが、何が目出度いのでしょう?」
「それは勿論、義姉上が久々に御出陣されることについてでございます」
きらきらと目を輝かせて断言する信伊に静子は嘆息するしかなかった。信伊は幼少より父である前久について地方で暮らしていたため、公家よりも武家の人間と付き合うことが多かった。
その方向性は前久が信長と昵懇の間柄になって以降、更に顕著になっていく。そんな中で前久から猶子として静子を紹介され、立身出世の見本市であるかのような彼女の生き様に強い憧れを抱くようになった。
「私自身が出陣するような事態は喜ばしくないのですが……まあ良いでしょう。義父上をお待たせする訳にも参りません、一緒に来ますか?」
「是非に! 父上からは同席の許可を頂いておりまする。お供いたします!」
信伊の言葉に静子は軽く眩暈がする思いであった。前久の私室に向かう道中、静子は信伊から質問攻めにあっていた。
信伊がただの子供であったならば、微笑ましいで済む話なのだが、彼は僅か十二歳という年齢にかかわらず既に多方面に対して大人顔負けの才を発揮している天才であった。
それゆえに彼の質問は微に入り細を穿つものであり、静子をして返答に苦心させられるため、静子は会談前から疲労感を覚えていた。
(今は軍事に傾倒しているけれど、これでいて書道に和歌、絵画に音曲といった文化面にも優れた才を示すんだから天才って残酷だよね)
史実に於いて信伊は「寛永の三筆」に数えられるほど書道の才を示した。因みに残る二人は本阿弥光悦と、松花堂昭乗である。
彼ら三人は平安時代などの古筆より、新しい書法へと昇華させた。これにより日本の書道史は記録よりも表現を重視した、近世書道の幕開けを迎えたとまで言われるようになっている。
現時点に於いてすら書道の才を遺憾なく発揮しているのだが、本人にしてみれば手慰みでしかない。更には静子のような一時代を切り開ける存在を目標に掲げているため、目指すところが高すぎて他者からの評価を頑として受け付けない。
彼の悪意無き態度によって筆を折った人間はかなりの数に上っていた。
「お疲れのようだな、静子殿」
静子を室内に招くなり、開口一番前久は静子を労った。彼女が疲労している原因は、彼女に付いて回っている己の息子にあることは明らかである。
「やり取りを交わす度に、質問がより高度になっていくので参ります」
「ほどほどであしらってくれれば構わぬよ。さて、此度の件について認識をすり合わせよう」
前久が居住まいを正し、静子と信伊もこれに倣った。とはいえ事前に情報を共有しているため、認識に齟齬が無いかを確認し合うことが主である。
「今回の一件、裏で手を引いていたのは九条、二条、一条家辺りでしょう?」
一切の躊躇なく信伊が爆弾発言を投下する。既に裏が取れているため、間違ってはいないのだが明け透けに発言するところが迂闊だと静子はため息を吐いた。
「すみませぬ。既に口にしてしまった以上、重ねてお訊ねしますが間違っておりましょうや?」
「(直感のみで本質を掴む、天才の怖さだね)いえ、合っています。鷹司家は我ら側に立っていますので、残り三家のいずれか、悪くするとその全てが結託して画策したのでしょうね」
「お前は正解を見出しても、そこに至る背景を押さえておらぬ様子。それでは正鵠を射たところで足を掬われるぞ」
「はっ! 申し訳ございません」
前久から叱責を受けて信伊は項垂れた。天才であるが故に余人には理解しえない結論に至るのだが、何故そこに至るかの過程を説明できないのでは宝の持ち腐れとなる。
世の大多数は凡人であり、結局のところ凡人に理解し得ない論理の飛躍が世に受け入れられることは無いと前久は説いたのだ。
「失敗は若人の特権です。この失敗を糧に次に活かせば良いのです」
「義姉上!」
「何故失敗したのか反省しないまま進むのはいけません。貴方はそこを怠りがちなので、努々忘れないようにしなさい」
憧れの静子が助け舟を出してくれたと勢い込んで顔を上げるが、そんな信伊に静子は容赦なく現実を突きつけた。
「うう……義姉上が厳しい」
「厳しいぐらいで丁度良いのです。確かに教如の背後には例の三家がいると思われます。財力的にも権力的にも朝廷主導の和睦に反対する勢力を、あれだけの数、囲い込める余裕が他にはありませんからね」
追い詰められた教如であっても、流石に勝算なしであのような暴挙には出まい。これに関しては静子も前久も考えを同じにしている。
今回の騒動に於いて、まず本願寺を占拠できるほどの僧兵たちを養えるだけの勢力と言えば限られており、消去法的にも件の三家に絞られてくる。
そもそも現時点で朝廷の威光は武家が持つ武力を背景に成り立っている。己が寄って立つ土台を攻撃するなど自殺行為でしかないのだが、それでも武家の朝廷介入を排除せんと強行できる者となれば片手で足りる。
同じく宗教関連で仏家の関与も考慮したのだが、世の景気が上向いているときは宗教の求心力は失なわれるため早々に候補から外れた。
「例の御三家ですが、密偵を放って調べたところ面白いように証拠が集まりました」
「それらは何処に?」
「現物の写真を撮って証拠を保全した後、元の場所に戻しておきました。その後、写真を元に精巧な贋物を作り、完成次第順次本物とすり替えております。八割方終わっていますが、あと少し時間を頂ければ全てが手許に揃うでしょう。写真自体がそれほど知られていないため、証拠能力を疑われては面白くありませんからね」
静子はそういうと小姓に合図して重量感のある木箱を持ってこさせた。静子は木箱の中より、何枚かの書状を取り出すと前久に差し出す。
受け取った前久はそれらをざっと流し見て、相手を攻撃するに足る証拠として十分であると確信できた。
「血判状か。互いに裏切る可能性を排除しきれぬ辺りが、利害のみで結びついている輩の泣き処よな」
「お陰で証拠集めが楽でした。しかし、まんまと踊らされている教如も哀れですが、このように稚拙な絵図で自作自演を企むとは……」
「自作自演ですか?」
「そうです。武家による日ノ本統一が気に入らぬ御様子で、朝廷の威光は衰えぬと世に知らしめるために画策したようですね。明らかに時流が読めていない上に、仮に成功したとて後が続かないのでは意味が無いでしょう」
現時点に於いて信長に反抗する公家は限られている。信長は決して朝廷を蔑ろにしておらず、朝廷の権威を盛り立てた上で共存の方針を打ち出している。
実質的に信長が朝廷の運営に経済面で巨額を出資している以上、彼の意向を無視できないのは仕方ないのだが、それを良しとしない者は一定数存在する。
かつての栄光を忘れられず、感情的に信長の台頭を面白く思わない公家達が結託したのが今回の騒動だ。
とは言え武力で信長に敵うはずもなく、経済的にも比べるのも烏滸がましい程に差が存在する。そんな信長の面目を潰すべく考え出された苦肉の策が、織田家と本願寺との和睦を潰すことであった。
その後、おっとり刀で駆けつけて問題を解決して見せることで恩を売る、所謂マッチポンプを画策したというのが今回の本質である。成功すれば信長の影響力を幾らか削げるかもしれないが、根本的な構造改革に寄与しない愚策であった。
「教如を焚きつけて本願寺を乗っ取り、その後公家主導にて官軍を編成して教如を本願寺から追い払う。首謀者たる教如自身は口封じとして始末すれば後腐れもないという手筈だったのでしょうね。どうにも牢人が思うように集まらないようで、未だに討伐軍を編成できないようですが」
「集まらないのは自明なのだが、京に籠っているとそこまで世情に疎くなるものか」
前久はそう呟くと、静子をチラリと見やった。近畿から中部地方にかけての一帯では、牢人を集めて軍を編成しようなどとは夢物語に等しい。
何故なら織田領が全世界を見渡しても類を見ないほどの勢いで土地開発を行っており、土木工事用の重機が導入されてはいるものの人足の需要は引きを切らない。
更には出稼ぎ労働者に対する福利厚生も充実しており、利息の無い前借りとして衣食住を整える支度金も渡されるため、周辺地域は言うに及ばず遠地よりの出稼ぎ労働者が押し寄せている状況だ。
牢人として命懸けで戦うよりも、安全な肉体労働で安定した賃金を得る方が良い。そう考える者が多いため、どうしても大金が即座に必要という状況でも無い限り牢人のような不安定な生活を好むものは少ない。
「今ごろは教如も焦っているでしょう。予定では例の三家による息の掛かった官軍と適当に戦って敗走し、後は隠遁生活を保障して貰う手筈だったのでしょうからね」
「全てが裏目に出て八方塞がり、焦らぬ道理がない。今ごろ必死になって神仏頼みをしておるだろうよ。信仰が試されるというものだ」
「間者に拠れば『私には神仏の加護があり、敵の矢も鉄砲も当たらない』と嘯いているようです。門徒が信じているかは判りませんが、折角なので教如の言葉を利用させて貰いましょう」
「ふふ。いつになく悪い顔をしておるな、教如も判断を誤ったものよ」
前久は静子の言に薄く微笑みながら相槌を打つ。すっかり温くなってしまったお茶を一口啜ると、物憂げに呟いた。
「思えば教如も哀れなものよ。あ奴は最期まで周囲に利用され流され続けた人生を送るのだろう。己だけが自分の意思を貫いていると信じているのが余計に哀れでならぬ」
静子は前久に対朝廷工作費用を渡すと、上京にある自身の京屋敷へと移動した。彼女はそこでゆっくりと体を休めた後、間者から報告を受けたり様々な指示を出したりしてから再び近衛邸へと戻る。
静子の京屋敷では彼女直属の兵が周囲を警備しているため、たとえ朝廷からの使者であろうとも事前に通告の無い者は面会できない。朝廷としてはあくまでも前久主体であり、静子はそのおまけという位置づけを貫かねばならないため勅使を立てたり、先触れを遣わせたりすることも出来ないのだ。
面倒だとは思いつつも、静子は朝廷の面子を保つため接触を図り易い近衛邸に極力滞在するようにしている。そしてついに朝廷より勅使が遣わされ、前久に本願寺鎮撫の命が下された。
「私から静子殿に依頼する分には、朝廷として関与しないという姿勢を貫くのだろうな。全く迂遠なことだ」
建前が重要視される公家社会の柵に苦笑しつつ前久は肩を竦めた。朝廷としては関白である前久を官軍の総大将とし、前久の裁量によって静子を動かす事を暗に認めている。
しかし、前久もただでは利用されてやらない。今回の官軍編成にあたって、動員する顔ぶれは前久に一任するとの言質を得ている。朝廷としては静子を官軍に引き入れるための方便として使えという思惑なのだが、これは朝廷の名の下に誰であろうと動員できる事を意味する。
腹に一物を抱えながら笑みを浮かべた前久は、入念に下準備を進めた。数日後、上京の一角に黒山の人だかりが出来ていた。本願寺教如を征伐する官軍が出陣すると知らされ、皆が一目見ようと集まった結果であった。
織田家の勢力下に組み込まれて以来、京では武家の甲冑姿を目にする機会が増えた。逆に公家の正装である束帯(公家の男子が身に纏う衣装)は滅多に見られないため、物珍しさから見物人が増えたという経緯がある。
公家達も京の民たちから注目を集めると思ってか、皆がめいめいに気合を入れて束帯を着こなしている。目にも鮮やかな衣装が並ぶ中、一際目立つ存在があった。
五摂家筆頭である近衛家の家紋『近衛牡丹』が染め抜かれた旗を棚引かせ、周囲のそれと比べても一層華美な束帯を身に纏った少年の姿がある。
一般の公家に付く護衛は数名なのだが、その少年の周囲には完全武装の武士が数十名も配され、猫の子一匹近寄る隙すら無い有様だった。その物々しい雰囲気に威圧され、他の公家からは遠巻きに眺められる様子を見て、信伊は嘆息した。
「見世物にでもなっている気分です」
「仕方ありませんよ、此度の官軍を率いるのは貴方なのですから。警備が物々しいのは当然です。官軍の総大将が京で討たれたなどとあっては、近衛家末代までの恥になりますからね」
「重々承知しておりまする。しかし義姉上、何もその様な古めかしい衣装を選ばれずとも……」
「趣味です」
信伊が苦笑するのも無理は無かった。静子は特例中の特例として、女人の身でありながら公家男子の正装である束帯を纏っている。それも平安時代に流行していた時代がかったものであり、周囲の公家達から浮いて見えた。
何故そのような大時代的な衣装を着ているかと問われれば、わざと目立って彼らの神経を逆撫でするためである。本来、束帯とは公家男子の正装であり、猶子を結んだとは言え静子に与えられることは無い。
普段は目立つことを嫌う静子が、敢えて耳目を集めるような真似をする意図はここにある。
「さて、彼らは見ていますかね? 折角、方々手を尽くして彼らの宝物を探し出したのですから、慌てて貰わないと困るんですけどね」
静子は腰に佩いた太刀の柄頭をポンポンと軽く叩きながら呟いた。彼らとは勿論、九条・二条・一条家の手の者となる。公家による官軍の編成ということで、彼らの家からも何人かは参陣している。
とは言え派兵された者は嫡流ではあるものの末席に近い者であり、明らかに数合わせとして遣わされている。何の権限も自由をも与えられていないため、官軍の列内所定の位置から動こうともしない。
「敵意のこもった視線を感じますので、何処からか見ているのでしょう。ただ義姉上の太刀が『藤原三宝』の一つと気付くか否か……」
「義父上を含め色々な方に尽力して貰ったのですから、気付いて貰わねば割が合いません」
信伊の言う『藤原三宝』とは公家の名門中の名門である藤原氏伝来の宝物を指す。その名の通り三つを数え、一つを藤原鎌足(藤原氏の始祖)の肖像画『大織冠の御影』、一つを惠良和尚筆の『紺紙金泥の法華経』、そして最後が『小狐の太刀』である。
史実に於いては藤原頼長が小狐の太刀を佩いて、千百五十二年八月に石清水八幡宮を詣でたという記録が残っている。その後、九条家に伝来するも鎌倉時代前期に失われ、後に鷹司家に伝来したとされるが、これも鎌倉後期に失われている。
その後は、とある寺所蔵となっていたのだが紛失して行方不明とされていた。史実に於いては明治期に九条家が買い戻したとされているが、果たして本物の小狐の太刀であったか定かではない。
それというのも小狐の太刀は同名の刀が複数伝わっており、更には影打ちまでもが存在している。そのため、静子が現在佩いている『小狐の太刀』も真作である保証はない。何しろ小狐の太刀は誰の手によるものか不明なのだ。
(影打ちとされる物も回収したし、出来得る限りの捜索はしたので本物と強弁するしかないね。太刀に九条家所縁の物が添えられていたのは、盗んだ兄の子が真作の証拠として付けたとも考えられるか)
九条家から小狐の太刀が失われた理由は家督相続にある。鎌倉時代前期に九条家には二人の兄弟がおり、病で兄が家督を継げなくなったため、弟が継ぐことになった。
しかしこの決定に兄の子が不満を持ち、ある時小狐の太刀を盗んで出奔したとされている。
困り果てた九条家は、当時の名人に依頼して代わりとなる小狐の太刀を打たせた。以降、それを小狐の太刀として代用していた。今回静子の発見した小狐の太刀には、九条家の家紋が象嵌された懐刀が添えられていたため、恐らく本物であろうと推測している。
(小狐の太刀を盗んで出奔し、どのような経緯で手放すことになったのか興味が尽きないところだけど、何にせよ今考えることではないかな)
いずれにせよ、今は目先のことに集中しようと静子は頭を振った。
「さてさて、お荷物……いえ、お神輿を担いで大坂へ向かいますか」
「言い繕えていませんよ、義姉上!」
「隠す気が無いですからね」
「隠して下さい。義姉上のお考えは判りますが、父上も動き易くなりますからお荷物も連れて行きますが、いくさ場では案山子にも劣りますよ?」
「いくさ場には出しませんよ。城を守らせる名目で詰めさせれば良いでしょう」
「いくさ場に立つか、我々の指示に従うかであれば後者を選ぶでしょうね。あ、私は勿論どこまでも義姉上と共に参ります!」
「義父上から大将に任じられていなければ、何処かの城に城代として残したんですけどね……」
「そんな! 義姉上、私はお役に立ちますよ!」
静子は己の頬に手を当てて嘆息すると、信伊が諸手を挙げて抗議した。己が近衛家の跡継ぎであるという事実を、彼が忘れていることに静子は頭痛を覚える。
「元よりそれほど時間を掛けるつもりもないので、さっさと行って手早く片付けましょう」
自分の歓心を買おうとあれこれと話しかけてくる信伊をいなしながら静子は南方を睨んだ。