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戦国小町苦労譚  作者: 夾竹桃
天正四年 隔世の感
181/243

千五百七十七年 四月上旬

武田領は未曽有(みぞう)の危機に(ひん)していた。西からは織田軍が怒涛の勢いで攻め寄せており、退路となるはずの南方からは徳川軍が着実に攻め上がってきている。

更には武田家を率いる勝頼と領民の関係が著しく悪化していた。とくに武田領の西端付近、美濃との国境(くにざかい)近くの村では徴兵に応じないだけに飽き足らず敵国と通じて織田軍を領内に招き入れるまでに至った。

これは主に真田昌幸による調略の影響が大きいのだが、本来当主を補佐すべき一族衆を(まと)めきれず、領民を(かえり)みない圧政を敷いた勝頼にも問題がある。

こうした領内の状況は敵軍が迫るほどに深刻さを増し、遂には武田家一族衆筆頭である穴山(あなやま)信君(のぶただ)が織田家に寝返ったことを契機に組織が完全に崩壊した。

主家を見限った一族衆は織田軍を前にすると早々に降伏し、あるいは少しでも有利な戦後を迎えるべく織田軍に便宜を図る者も多く出た。


「名にし負う武田の命運も最早これまで。其方(そなた)は親元である北条へと帰るがよい」


勝頼は悔恨を(にじ)ませながらそう口にする。勝頼の許に織田軍が高遠城へと迫っているとの一報が届き、妻である北条夫人(北条氏康の六女とされるが、名は不明であるためこう呼称する)及び嫡子である信勝(のぶかつ)を後方の岩殿山(いわどのやま)城へと逃がそうと(こころ)みた。

しかし岩殿山城を治める武田家譜代の家老衆であり武田二十四将の一人にも数えられた小山田(おやまだ)信茂(のぶしげ)は既に織田家に寝返っており、遣わせた先触れに対して受け入れを拒否する旨の返答が届くに至り勝頼は敗北を悟った。

退路を断たれた勝頼に対し息子の信勝は共に自刃するよう進言さえした。かつて信玄に仕えていた多くの武将が勝頼の許を去り、かつての主家に対し刃を向けることを良しとせず逐電するか、保身のために勝頼の居城である新府城へと攻めてきている状況だ。

己と嫡子である信勝の首はいくさを収める為に必要となるが、同盟を結ぶための政略結婚であった北条夫人の首までは取られまい。そう考えた勝頼は妻へ実家に帰るよう告げたのだが、北条夫人は黙したまま静かに首を横に振った。


「北条より嫁いだ時からこの身は四郎様と共にございます。最期までご一緒いたしとうございます」


「……そうか」


妻の決意を耳にした勝頼は翻意を促そうとはしなかった。当主である勝頼が妻子を逃がそうとしたことから、新府城に詰めていた将兵たちも我先にと逃げ出しており、今となっては彼女を北条まで送り届けるだけの手勢すらままならない。


「既に織田軍は高遠城に迫っており、遠からず落城するであろう。後方を守っていた穴山が徳川と呼応して攻めてくるだろうが、それよりも早く織田軍がここに押し寄せると見ておる」


勝頼は遠からずと口にしたが、この時点で既に高遠城は落城していた。既に士気が崩壊している武田軍では、長可たちの別動隊と合流した信忠率いる本隊の猛攻を凌ぐことが出来ず、一日と()たずに落城してしまう。

長可たちの城攻めでも明らかになったように、技術レベルが隔絶した状態での籠城戦は成立せず、当主である勝頼に落城の報せを齎す伝令を逃がす暇すらなかったのだ。

更に信忠は落とした高遠城に最低限の兵を残し、即座に新府城へと進軍したため勝頼が想像するよりもずっと間近にまで迫ってきている。


「死出の旅支度もままならぬとは織田の殿方は慌ただしいこと。さりとて黙って命をくれてやる訳には参りませぬ、最期に目にもの見せてやりましょうぞ」


「そうよのう。甲斐の武田はここにありと見せてやらねばならんな」


最早死を待つのみという境遇で放たれた北条夫人の軽口に勝頼は小さく笑って応じた。しかしすぐに表情を引き締めると、勝頼が告げる。


「深志城からの伝令が齎した(しら)せが真であれば、高遠城は既に落ちているやも知れぬ。しかるに新府城を守る兵力は無いに等しく、其の方らに穏やかな最期を選ばせてやれるのも今暫くの間だけであろう」


「四郎様は討って出るおつもりでございましょう? なれば四郎様が本懐を遂げられるのを見届けてから後を追って参ります。それに少ないとは言え、城にとどまった者もおりまする」


今や新府城に残っている者と言えば傷を負い逃げられぬ兵や、たとえ逃げ延びたところで先の短い年老いた者が殆どであった。流石に勝頼が直々に育てた子飼いの部下は残っているものの、そうした恩義や忠義に拠って残っている者は稀であった。

沈みゆく船から逃げる(ねずみ)のように我先に逃げ出したものを思えば、彼らに感謝をしても(ばち)は当たるまいと勝頼が感傷的になっているところへ猛獣の唸りのような奇妙な音が響き渡った。


「これはしたり。夫婦水入らずに割り込むつもりはござらぬが、どうにも腹の虫が騒いでしまい申した」


愁嘆場(しゅうたんば)にそぐわない朗らかな声がした。完全に虚を突かれた勝頼が北条夫人を背後に庇いながら声の主を誰何(すいか)する。油断が無かったとは言わないが、勝頼とて一廉(ひとかど)の武人であり、これほど近くまで寄られて居ながら気付かなかったという事実が信じられなかった。

勝頼の目に映った人物は寸鉄を帯びていないが、見上げる程の巨躯(きょく)に一目で判る隆々たる筋肉を窮屈そうに法衣に押し込めた魁偉(かいい)なるものであった。生物としての本能が勝頼に逃げろと叫んでいるのを意志の力で押し込める。


「しばし待つつもりであったが、気取られてしまっては致し方ない。拙者、しがない山伏(やまぶし)華嶺(かれい)と申す。武田四郎殿とお見受けするが相違あるまいや?」


「今更逃げも隠れもせぬ。わしが武田四郎よ! そなたの狙いはわしの首か?」


「はっはっは、ご冗談を申されるな。未だ修行中なれどかつては僧を志した身、命を奪うからにはその命を余さず食らうことを己に課しておりまする。流石に同族を食らうのはご勘弁願いたい」


華嶺行者はそう言って快活に笑うが勝頼は少しも笑えなかった。幼い頃に山で熊に遭遇した際にも感じた巨獣が放つ熱の様なものに()てられ、身動きすることが叶わない。幼きあの日の熊は気まぐれに去っていったが、この怪人はそうは行かないだろう。

己の一命を賭してでも北条夫人を逃がせないものかと隙を窺うが、華嶺行者は身構えてすらいないと言うのに隙らしい隙が見受けられなかった。


「それでは、その華嶺殿はわしに如何なる御用かな?」


「織田勘九郎殿より言伝(ことづて)を預かっておりまする。松姫をいくさから遠ざけて頂いた思いに報いるべく、武田四郎殿に一騎打ちでの果し合いを所望いたす。さて、ご返答や如何に?」


「一騎打ちだと!?」


華嶺行者の思いがけない言葉に勝頼は訝し気な表情を浮かべた。一騎打ちをするまでもなく既に大勢は決しており、圧倒的に優位な織田の総大将たる信忠がその身を危険に晒す意味が判らなかった。


「拙者は武士でござらぬゆえ、その企図は判りかねまする。しかし、名も知らぬ者に討たれるよりも、大将同士の一騎打ちにて散る方が(ほまれ)となるのではござらぬか?」


「わしが(はな)から負けるような物言いよの」


「はっはっは。さても勘九郎殿は我が主が直々に鍛えられた御方。年若いからと侮れば、己の首が落ちたことにも気付けませぬぞ?」


「わしとて武門の名門、武田の当主よ。そう易々とは負けてやれぬ!」


(しか)らば果し合いにて雌雄を決するということで宜しいか?」


華嶺行者の問いかけに勝頼は目に熱を(たた)えて(うなず)いた。そこには先ほどまでの諦観に(まみ)れた勝頼ではなく、武人らしい覇気に満ちた偉丈夫(いじょうふ)の姿があった。


「御覚悟しかと承った。追って使者が詳細を伝えに参りましょう」


意外にも人懐こい笑みを浮かべた華嶺行者は、そう言うや否やトンボを切って開いていた板戸の外へと身を(ひるがえ)した。慌てて勝頼も後を追ったが、その姿は何処にも見当たらなかった。







先にも述べたように高遠城は戦端を開いてから僅か一日にして落城している。その理由は実に単純であり、パラダイムシフトとでも呼ばれるべき革命的な変化に()るものであった。

先遣隊である長可軍と、本隊である信忠軍は高遠城を目前にして合流し、事前に齎されていた情報及び寝返った武田方の武将から得られた情報を統合して逃げ道を塞ぐように布陣した。

やや遠巻きに布陣し、その日のうちに高遠城へと攻め掛からなかったのは、進軍速度の遅い部隊を待って隊を編成しなおす時間が必要となったためであった。

翌朝、日が昇るとともに戦太鼓(いくさだいこ)が打ち鳴らされると同時に轟音が響き渡り、堅固なはずの城門が内側に吹き飛んだ。これは夜陰に乗じて城門に爆薬を仕掛けておいた結果なのだが、武田側からすれば何をされたのか皆目見当がつかなかった。

その混乱に乗じて正面からは信忠軍が大挙して押し寄せる。時を同じくして裏側からは擲弾筒(てきだんとう)を装備した長可軍が、次々と防衛設備を破壊しながら攻め上がった。

元より逃亡者が相次いでおり、守備兵が減っていたところへ防衛設備をものともしない猛攻を受け、戦意を失って投降するものが続出した。

高く上った日が西の空に掛かる頃、城主である仁科(にしな)盛信(もりのぶ)は圧倒的な劣勢の中、奮闘するものの小山田大学助(だいがくのすけ)が討ち死にしたと耳にして敗北を悟った。

配下の将に自分の首を持って織田に下るよう伝えると、自刃して果てた。


戦国時代でも屈指の規模を誇った高遠城が落ちた要因は、(ひとえ)に『時代が変わった』ためであった。

堅固な城に籠って戦えば、自軍に倍する寄せ手にでも善戦できる時代は終焉(しゅうえん)を告げた。大口径の砲や高性能な爆薬を前にすれば、従来の城門や城壁は少し丈夫な衝立(ついたて)に過ぎない。

武田とて頑なに旧態依然とした戦法に固執していたわけではない。鉄砲の重要性は理解しており、それなりの数を揃える努力は続けていた。

しかし、それでも過去の成功体験に裏打ちされた騎馬隊偏重(へんちょう)の部隊編成や、鉄砲軽視の流れを覆すには至らない。騎馬隊の突撃距離を遥かに上回る射程と、充分な命中精度と威力を備えた新式銃の登場によってそれらは過去のものとなった。

城壁に囲まれ曲がりくねった九十九(つづら)()りによって敵部隊を長く薄く延ばして、銃眼や矢狭間より攻撃を加えるという定番の防衛は呆気なく通用しなくなった。

あろうことか信忠率いる本隊は大砲を用い、城壁を一直線に打ち抜いて進んできたのだ。その結果、随所に分散して配置した兵は瞬く間に討ち取られ、最短距離を攻め上がられたため水を湛えた堀以外は足止めにすらならなかった。


「高遠城を一日で落とし、更には大将である勝頼を一騎打ちにて(ほふ)る。武田が誇った『武』と『軍』の双方を完膚(かんぷ)なきまでに叩き、勝者と敗者の姿を白日に晒すおつもりか?」


長可は愉快そうに笑いながら隣に並ぶ人物へと声をかけた。落城した高遠城にて一夜を過ごし、信忠はある程度の部隊を残すと早々に進軍を開始する。

今まで別動隊を率いていた長可は、充分に戦功をあげたとして後方に戻され、大将である信忠の周囲に(はべ)る栄誉でもあり、暴走する長可を繋ぎとめる首輪でもある役目を与えられていた。


「このいくさに先んじて、武田殿はわしの妻となる松姫を恵林寺(えりんじ)へと逃がして頂いた恩がある。このまま無名の兵に討ち取られるよりは、一騎打ちにて決着をつける方が武士の本懐となろう」


「確かに下手に落ち延びた挙句に、落ち武者狩りに討ち取られたとなれば惨めな最期となりまするな」


「それに武田が織田の前に屈したと衆目に示せるという利点もある」


「この()に及んで一騎打ちを邪魔立てする不心得者もおらぬとは思いますが、お二人が雌雄を決される場は某がお守りいたしましょう」


「頼りにしておるぞ、鬼武蔵(おにむさし)(長可の異名)」


そう言って信忠と長可は笑い合った。静子邸では互いに軽口を叩き合う仲だが、いくさ場に於いては厳格な上下関係が存在する。無法者に見える長可だが、軍に於ける上下関係が持つ意味が理解できない程の愚か者ではない。

ゆえに衆目のある公の場に於いては、その場に相応しい振舞いをすることも出来るのだ。


「先ほどの早馬によれば、近々上様がこちらにお越しになると耳にしましたが、となれば静子殿もおいでになるでしょうな」


「父上と静子、その(いず)れも替えの利かない我が軍の急所。可能性が低いとは言え、一度に失われる恐れのある愚は犯されぬと思うがな」


「なるほど。上様は我々の働きを見たのち、富士の山をご覧になって尾張へと戻られるとありました。富士の山には何があるのでしょう?」


「富士の山は静子も気にしておったな。しかし、あの辺りは徳川の領土ゆえ迂闊(うかつ)なことは出来ぬ」


そうこうしている間にも信忠の率いる本隊は新府城へと到着した。事前に使者が遣わされ勝頼との交渉の結果、新府城は無血開城しており信忠の本隊はそのまま城内へと兵を進めた。

勝頼は己の手勢のみを率いて天目山に陣を張っており、そこで一騎打ちを行う手筈となっていた。新府城内に残されているのは病人や怪我人、投降する意志のある者が武装解除の上、一室に集められていた。

可能性は低いとは言え騙し討ちを警戒しつつ進軍したのだが、勝頼は約定通りの処置を施した上で撤収しており、信忠は軍を機動力重視の小部隊に編成し直す。


「さて、連戦に次ぐ連戦で皆も疲れているとは思うが、今日はここで充分に英気を養い明日の決戦に備えてくれ」


信忠の号令を受けて軍は新府城にて休息をとった。軍同士での勝敗は既に決しており、残るは大将同士での一騎打ちという英雄譚のような成り行きに皆は口にしないまでも固唾(かたず)を飲んでいる。

一夜明けると信忠は手勢の精兵千名のみを率いて一路天目山を目指した。騎馬を中心に編成しているため、信忠の部隊は僅か半日ほどで勝頼が陣を構える天目山の(ふもと)まで辿り着いた。

まもなく日も沈もうという頃合いであったため、お互いの陣を目視できる距離に居ながら睨み合うという奇妙な構図となった。そして信忠が一騎打ちの刻限を伝えるべく使者を遣わそうとしていた折、予想だにしなかった人物が信忠の陣を(おとな)った。


「面白い。会おうではないか」


信忠の陣を訪れたのは、武田勝頼その人であった。先触れもなく数名の供のみを伴って訪れた勝頼を、信忠は自陣に招くと真正面から向かい合う形で対面した。

勝頼は一騎打ちを申し出た信忠を信頼してか、いくさ装束のままではあるが刀を預けている。


「こうして直接お会いするのは初めてになるか。私は武田四郎、父信玄の後を継いだ武田家二十代当主である」


「お初にお目にかかる、私は織田弾正忠(だんじょうのちゅう)が嫡子、勘九郎である。さて、互いに刃を交えんとする前夜に御自(おんみずか)ら陣を訪ねられるとは如何なる御用か?」


信忠の問いに勝頼は深々と頭を下げることで応えた。


「まずは敗軍の将たる私に礼を尽くして頂いたことにお礼申し上げる。明日には一騎打ちにて雌雄を決することになるが、どちらが勝つにせよ我が軍は貴軍に投降致す」


そう告げて面を上げた勝頼の目は死んではいなかった。城を出て陣を張っているため、やや薄汚れてはいるものの勝頼は覇気に満ちている様子だ。


「厚かましいのを承知でお願い申す。勝敗の如何に拠らず私は自刃致す。代わりに私に付き従ってくれた配下の助命を賜りたい」


「貴方と御嫡男以外については我が名にかけて身の安全を保障しよう。ただし、主君の後を追わんとする者については引き留めぬ」


(かたじけな)い。(しか)らば一騎打ちを前にこれ以上のなれ合いはすまい。これにて失礼致す」


勝頼は最期まで自分に付き従ってくれた者の助命を嘆願した。そして信忠は勝頼と彼の息子である信勝以外については保証する旨を確約した。

この時代に於いては大将及びその嫡子は、後顧の憂いを絶つためにも責任を負わされることになる。そして自らの命を懸けてそれらを勝ち取った勝頼は信忠の陣を去ろうとした。


「待たれよ。見たところ、充分な支度が出来ておらぬようにお見受けする。別の天幕に湯と飯を用意させるゆえ、しばし待たれよ」


「既に温情は充分頂戴した。これ以上は不要」


「情けをかけているのではない。一騎打ちの相手が見窄(みすぼ)らしくては私が困る。万全の態勢の貴殿に勝利することに意味があるのだ、私のためにもお受け願いたい」


「……承知」


勝頼は信忠の口上を真に受けた訳ではないが、同じく武を志した者からの最期の気遣いを有難く受けることにした。

決意が鈍らぬように頭を下げたまま背を向けると、勝頼は信忠との会談を終えた。

信忠としてもこの一騎打ちには大きな意味がある。武田の総大将を我が手で討つことで、初めて胸を張って信長の後継者を名乗れると考えていた。

負けるつもりなど毛頭ないが、勝敗は兵家の常であるため信忠も湯を運ばせると体を拭いて髭を整え、髪を油で整えた。

明日になれば、日ノ本の趨勢を左右する一騎打ちが行われる。







緊張の高まる甲斐の地より遠く離れた尾張では、静子が久方ぶりの穏やかな執務に勤しんでいた。

それと言うのも長らく静子邸に逗留し続けていた信長が、電話による定時連絡により信忠と勝頼との一騎打ちの報せを知るや否や、大急ぎで手勢を集めて甲斐へと出立したためであった。

曰く「万に一つも負けは無いとは思うが、その一つに備えねばならぬ。取り越し苦労であれば物見遊山と洒落こもう」とのことで、速度重視の編成をした軍を率いて一路東を目指している。

信長の進路は信忠の侵攻ルートをなぞる形となり、信忠の軍が構築した中継地点ごとに馬を乗り換えて進む強行軍となる。

当初は静子を伴う予定であったのだが、偶然にも近衛前久(さきひさ)が信長と同道することになり、静子は尾張で二人の帰りを待つこととなった。


「二人揃って物見遊山の旅とは、殿も良いご身分じゃのう」


信長が尾張を発ったのと入れ替わりに岐阜に詰めていた濃姫が静子の許へ訪れている。此度の信長と前久による東国遠征は、十中八九物見遊山の旅となると判断した濃姫は珍しく愚痴を零す。

静子は信忠が留守の間に岐阜城を預かるはずの濃姫がこんな処にいて良いのかと訊ねたのだが、当の本人は口許に手を当てて艶然と微笑みながら答えた。


「妾までもが留守にしたからこそ、不心得者が動こうというものよ。静子ご自慢の電信程では無いにせよ、岐阜と尾張程度であれば全ては妾の(たなごころ)の上じゃ」


あえて留守にすることで泳がせていた容疑者を(いぶ)りだすつもりだと察して静子は空恐ろしくなった。

濃姫が如何に優れた諜報網を持っていたとしても、物理的な距離は厳然と立ちはだかるはずである。どうやって彼女が情報を得ているのか、静子をしてすら見当がつかなかった。


「毎度思うのですが、濃姫様は事前に防ごうとは思われないのですか?」


「ほほほ。人が欲を抱く限り悪の芽は無くならぬ。そんなものを幾ら摘んだとてきりがない。ならば罪を犯せばどうなるか身近な存在を以て、適度に知らしめて見せるのが上策とは思わぬか?」


「……確かに悪事を働いたことに変わりはありませんので、罰を下すのは当然ですが……誘うような真似をするのは如何なものかと……」


「魔が差すと言うじゃろう? 魔というのは日常のふとした処に潜んでいるものなのじゃよ。本物の魔が育つ前に、妾が間引いてやっておるのじゃ、親切とすら言えよう」


静子とて組織を纏める地位にあるため、濃姫の言わんとするところは理解していた。誰しも甘い誘惑には抗い難く、厳しく己を律さねば容易に流されてしまう。

そういった際に助けとなるのが信仰であったり、主君に対する損得を超えた恩義であったりするのだが、濃姫はそういった不確かなものに頼らず一罰百戒を以て警告するのだ。

決して口にも態度にも出さないが「見ているぞ」と。そんな背筋が寒くなるような警告を以てしても、罪を犯す者が絶えないのだから人の業というものは救いがたい。


「義姉上、ここにおいででしたか」


「おや、市ではないか。妾になんぞ用かえ?」


濃姫と語らいつつも執務を続けている静子の許へ、お市までもが現れた。これは本格的に仕事にならないかなと静子は諦めかけたのだが、どうも用事があるのは濃姫に対してであったため静子は胸を撫でおろす。

藪をつついて蛇を出す愚を犯すまいと、静子は黙したまま耳だけをそばだてて執務を続けていた。


「静子もいるのならば丁度良い。兄上が出立されたのをまるで見計らったかのように、親族の一人が妾に義姉上の所業について触れ回っておるのよ。流石に目に余るゆえ、義姉上にもご相談せねばと思うての」


「ああ、あ奴であろう? 殿の前では借りてきた猫のように大人しく振舞うが、こうして隙を見せれば立ちどころに馬脚を(あらわ)しおる。ほんに虎の威を借る狐よの」


対する濃姫は既に把握していたようで、まるで動じずにせせら笑って見せる。こうした裏工作は本人に知られぬようにせねばならないと言うのに、まんまと目の前に垂らされた餌に食いついてしまったという形となった。


「本日最後の定時連絡は先ほど終わりましたので、緊急でない限りは上様に連絡を付けることは叶いません」


「ほほほ。このような些事(さじ)で殿のお心を(わずら)わせるまでも無かろう。織田家の内々で対処するゆえ、市もそれで構わぬか?」


「義姉上がご存じであれば構いませぬ」


静子は未だに織田家相談役の地位を返上しておらず、こうした織田家内の醜聞をも耳にすることがあるのだが、その殆どが濃姫によって対処される。

静子は結果がどうなったかを知ることなく、問題が解決した旨のみを知らされることとなる。少し消化不良ではあるが、これを詮索することで得るものも無いため放置していた。


「何をされるおつもりか知りませんが、余り大事(おおごと)にならないようにして下さいね?」


「ほほほ。自分がしようとした事がそのまま降りかかってくるだけのことよ。まさに自業自得というものであろう?」


(あ、これは締め出されるヤツだ)


織田家の中には嫡流(ちゃくりゅう)庶流(しょりゅう)と呼ばれる区分けが存在する。所謂(いわゆる)本家と分家に当たるのだが、信長も元を正せば庶流の出であった。

しかし、嫡流であった父信秀の正室が離縁され、信長の母が継室となったことで信長は信秀の後継者となり、嫡流に組み込まれることになった経緯がある。

庶流は嫡流を支える義務があるのと同時に、嫡流も庶流を安堵する義務を負う。こうした枠組みを良しとせず、野心を抱いて己が嫡流に成り代わろうとするものは常に一定数出てくる。

嫡流の庇護を受けていながら、それに牙を剥かんとする(しつけ)のなっていない飼い犬の行く末など知れたものだろう。


「ただでさえ戦時なんですから、お家騒動なんて起こさないで下さいね?」


「あ奴程度ではそれほどの騒ぎにもならぬよ。大人しくしておれば見逃してやったものを……愚かよのう」


(見える場所に餌をぶら下げておいて、この言い様)


「身の程を弁えぬゆえ、破滅を招くことになるのじゃ」


「市の申す通りじゃ。妾としても売られた喧嘩は買わねばならぬ」


「喧嘩にすらなっていないじゃないですか……」


静子が盛大なため息を吐いた。まるで『西遊記』に登場する『孫悟空』と、彼を掌であしらった『釈尊』のようだと静子は思った。


「ほんに静子は優しいのう。下克上を(くわだ)てるというという事は、己の全てを賭して夢を掴まんと挑むということ。夢破れたのであらば仕方あるまい?」


「陰口を吹聴して回ることが死に繋がるとは、まさに夢にも思わないでしょう……」


「ああした陰口というのは存外厄介なのじゃよ。吹き込まれた側がどう思おうと少しずつ(おり)のように心に堆積し、何かの拍子に芽吹くゆえな」


「市の申す通りよ。ゆえに妾が悪事は身を亡ぼすという証拠を突き付けてやっておるのじゃ。なんと寛大なことよのう」


最早、彼の人の行く末は定まってしまったようだと静子は悟った。不相応な野心を抱いた彼は、果たして噛みつこうとした相手の大きさを理解していたのだろうか?

名前を聞いても顔も思い浮かばない彼に、少しだけ憐憫を覚える静子であった。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 今まで別動隊を率いていた長可は、充分に戦功をあげたとして後方 に戻され、大将である信忠の周囲に侍る栄誉でもあり、 暴走する長可を繋ぎとめる首輪でもある役目を与えられていた。 「暴走す…
[一言] まさかの大将同士の一騎打ち。絵になる上に勝っても負けても後世に語り継ぐことが出来る最高の誉れ武功。でも静子、後で小言は言いそうですねw
[一言] 阿呆は一体誰なのかなぁ……
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