退屈しのぎ
封建社会に限らず現代に於いてさえ、権力者に近しい人物、とくに配偶者などは隠然とした権力を持つ。
史実に於ける豊臣政権下では、天下人となった秀吉の正室であるねねは、時に秀吉を掣肘(動きを妨げる)出来る程の影響力を誇った。
これは時代が下って江戸時代になっても変わらず、むしろ大奥という独自の社会が形成されたこともあって、その傾向に拍車が掛かった。
夫である将軍亡き後も絶大な影響力を振るった正室すら居たという。
天下人と目される信長の正室たる濃姫もまた、領地や軍勢を持たずとも絶大な影響力を持っていた。
「遊びにきたぞ。妾の無聊を慰めておくれ」
「私の家は見世物小屋じゃありません」
静子の抗弁を右から左へと聞き流し、濃姫は上品にほほ笑んで見せる。
信長の安土入りを機に、静子邸に逗留していた濃姫だったが、信忠が岐阜城へ入城したのと時を同じくして彼女も岐阜城へと居を移していた。
本拠を岐阜に据えて尚、濃姫は折に触れては岐阜城を抜け出し、お忍びと称して静子邸を訪ねるという事を繰り返していた。
当然ながら周囲は良い顔をしないのだが、濃姫が行動を慎むはずもない。近侍たちが信長に泣きついても「好きにさせておけ」と放任されていた。
城主である信忠自身も濃姫が大人しくしているなどとは思っておらず、配下に時折様子を報告するようにさせていたのだが、不思議と彼女が不在にしていても奥向きに問題が発生しないのだ。
かつては濃姫の不在にかこつけて下剋上を企むという暴挙に出るものもいた。しかし、その悉くが不慮の事故によって命を落としたとなればどうだろう?
下剋上を企てた本人は勿論、その行動を看過していた親族にすら累が及んだことから、災いの芽が出る前に身内に摘まれるようになり秩序が保たれている。
「近頃は気骨のある者がおらぬのでつまらぬ。妾に牙を剥かんとする若人を年寄りが押さえつけるゆえ、揶揄い甲斐が無くて手持無沙汰じゃ」
「わざわざ獅子身中の虫を育てようとしないで下さい。何も起こらないのが一番じゃないですか」
「若い者はどんどん上を目指して野心を抱くべきなのじゃ。その結果、身を滅ぼすのも若人の特権よな。とは言え後進を絶やすわけにもいかぬゆえ、仕方なく間者で遊んでおるのよ」
「先日、間者が献立表を盗み出そうとしたという訳の判らない報告があったのですが、さては濃姫様の仕業ですか?」
尾張には静子と真田昌幸の手によって構築された監視網が存在する。蜘蛛の糸のように張り巡らされた網から逃れることは難しい。
そしてこの網に岐阜城から文書を持ち出そうとした間者が引っかかった。当然のように捕縛され、厳しい尋問の果てに間者が持ち出した文書の隠し処を吐いた。
逃げきれぬと悟った間者が隠した文書を見つけ出したとの報告を受けた昌幸は、その文書を前にして困惑する。
間者が命懸けで持ち出そうとした文書とは、静子邸の厨房が定期的に発行している献立表であり、わざわざ盗み出さずとも厨房に貼り出されている公開文書だったからだ。
「如何につまらぬ物であっても、重厚な外箱にしまってやれば機密文書に見えるものよの」
「あー……大事そうに隠す様子をわざと間者に見せつけましたね?」
「漆塗りの桐箱に入った献立を大事そうに抱える間抜けの姿は見ものであった」
「手の込んだ悪戯をなさる」
「遊びは全力でやるからこそ面白いというものよ」
(遊ばれる側は堪ったもんじゃないんですけどね……)
突っ込み疲れた静子は、口に出すのをやめて心の中で呟くにとどめた。濃姫は静子の私室に当然の様に居座ると、勝手知ったる他人の家とばかりに寛ぎ始める。
既に恒例となってしまった濃姫の行動ゆえ、普段は静子の私室を根城にしている動物たちも姿を見せない。
中でも濃姫が来ても図太く居座り続けたマヌルネコの丸太は、散々に可愛がられることとなった。その為、丸太は濃姫の匂いを感じ取ったのだろう押し入れの天袋に隠れてしまい出てくる様子もない。
「南蛮の果実はなんとも香り高い」
そう言いながら濃姫が口に運んでいるのは静子の果樹園で収穫されたマンゴスチンであった。今もなお取り扱い品種を増やし続けている果樹園だが、中でもマンゴスチンは奇跡の産物であった。
種の状態から収穫可能となるまで5~6年を要するマンゴスチンは、発芽から最低でも2年ほどは遮光率7割で育て、3年目以降は光に当てて育てる必要があるなどと栽培条件が難しい。
そうした栽培条件を見つけ出すまでに幾本もの苗が立ち枯れてしまい、最終的に鉢植えにして育てた数株がようやく実を結んだのだ。
「こればかりはここでしか味わえぬ。足しげく通った妾の特権よの」
「私の果樹園なんですけどね。種さえしっかり残して頂ければ、少々召し上がっていただいた処で問題はないのですが……少しは遠慮する素振りぐらい見せて下さい」
「水臭いことを申すな。妾と静子との間に遠慮など不要じゃろう?」
(ああ言えばこう言うって見本だよね)
口では勝てないと悟った静子は心の中で嘆息する。しかし、自分が丹精込めて作った果実を濃姫が童女のように喜んで口にする様子は作り手冥利に尽きるというものでもあった。
結局、濃姫が遠慮をすることはなく、その後も彼女が満足するまで居座り続けた。