食へのこだわり
天下人と目される信長を己の宴席に招くと言うのは、自身の権勢を示すに当たって絶大な効果を発揮する。
その反面、信長を接待するということは多大な苦労をも背負い込むことになる。
元々難しい気性の持ち主である上に、山海の珍味を食べ飽いているため、並大抵の料理では彼のご機嫌を取ることすら叶わない。
「だからと言って、お市様経由で私に訊ねないで欲しいのですが……」
悩み抜いた人々が最後に縋るのが、信長を度々もてなしているにも拘わらず、絶大な支持を勝ち得ている静子であった。
とは言え、昔とは異なり静子の立場も相当に高くなっている。文を出したからと言って、必ず返事が貰えるとは限らない。
多忙を極める静子だけに返事がいつになるかすら判らない上に、既に予定が決まっている宴席は刻一刻と近づいてくる。
そこで静子への橋渡しを出来る者へ白羽の矢が立つのだ。男社会ではなく、女社会という独自の世界を通じて。
「まあ、そう言うてやるな。兄上を招いた宴席を成功させれば皆から一目置かれるのじゃ。妻として力になってやりたいと必死になるのが女の性よ」
「上様は神経質ですから、苦労をする割に得るものが少ないように思いますが……」
「お主はどのようにもてなしておるのじゃ?」
「最近では到着されるとまず湯浴みをなさいます。移動の疲れと汚れを風呂で流し、縁側に出て涼みながら浴衣姿で猫と戯れておられたり、うちの者たちが角力を取る様子を眺めておられたりと言った感じです。その後は上様の御気分次第で変わりますが、お一人で食事を取られたり、誰かを招いてご一緒に会食されたりなさいます」
「ふむ、静子にとっては当たり前のもてなしだが、他の者にはまず風呂が用意できぬな」
そう評するとさも愉快そうにお市が笑う。信長は気難しいが礼儀を重んじるため、余程の失態を犯さぬ限りは声を荒げる事もない。
ただ箸の進みが悪くなり、口数が減るだけなのだ。しかし、彼のご機嫌を窺う立場からすればその沈黙こそが恐ろしい。
「兄上には最後に甘味を出せば良いのじゃ。少々手抜かりがあろうとも、最後の一品で挽回できる。この間も、それで首が繋がった輩がいたであろう?」
「それを真似て甘味尽くしにした結果、見事にご不興を買った御仁も居られましたよね」
「あれは兄上には甘い物を与えてさえ置けば良いと侮ったからであろう。前の例では己が出来る精一杯のもてなしをした上での失態じゃ。失敗は赦せても、侮られて見過ごすわけにはゆかぬ」
「確かに手抜きと言われても仕方ないですね」
それでも万座の席で恥をかかせたのはやり過ぎと感じたのか、後日信長からの礼状が届いたことで辛うじて面目は保てたそうだ。
もてなした側も侮ったつもりは無かったのだろう。『溺れるものは藁をも掴む』、悩み抜いた末に差し出された藁に縋ってしまった結果だが、か細い藁だけで己の全てを支えるには無理があったのだ。
「最後まで力を尽くすことなく、安易な策を弄した結果じゃな。兄上の中では静子のもてなしが基準となっておるからのう……食事で気を引くのは難しかろう」
「単に美食に目覚められ、食へのこだわりが強くなっただけでは?」
「元々兄上は飯は湯漬けで充分と常々仰っていた。他ならぬ静子、おぬしがあれやこれやと旨いものを食わせ、兄上の舌を肥やしたのが発端じゃ」
「まあ……それは否定できませんが、あの上様が美味しそうに食事をされるのを見ると、ついもっと美味しい物を食べさせたくなりまして……」
実際に静子が居なければ、信長の食生活は昔通りの質素なものであっただろうと言うのは、譜代の臣たちの共通認識である。
お市が言うように、信長が持つようになった食へのこだわりは静子が育てたと言っても過言ではない。
「まあ、いつも通りに料理人を派遣して、指導をさせておくれ。それが一番互いに労が少なかろう」
己の役目はここまでと言わんばかりに話を締めくくったお市は、静子が差し出した菓子に手を付けた。