千五百七十六年 十二月下旬
信長が発した敵の一掃宣言より一ヶ月が経過した。外部から見える静子軍の動向は、いくさの準備を整えているようには見えない。
それというのも静子軍の兵士たちは集団で街に繰り出し、連日飲み食いを続けているからだ。
軍隊の性質上、全員が一斉に休暇を取ることが出来ず、交代で外出しているのだが、それでもかつてない規模での動きが見られる。
織田家の中にすら静子軍が遊び呆けていると陰口を叩くものがいるのだ、外部から見れば何が起こっているのか判らず困惑するのも無理はない。
しかし、兵士たちが派手に遊んでいても、いくさの準備は着実に進められている。大量の軍需物資が集積され、計画に従って各所に分配されていく。
東国征伐の中でも特に甲斐の国へ派遣される将兵たちには特別の訓練が課され、新しい装備や今までにない規則に慣熟するための演習が繰り返されていた。
過酷な訓練でのストレスを発散させるため、特別手当を支給して休暇中の飲み会を励行したため、大規模な放蕩にも見える動きとなって表れている。
「装備の準備は順調のようだね」
棚卸(書類上の数字と、現物とが一致しているかを確認すること)が終わった報告書を眺めつつ静子が呟いた。
武具の調達に関する報告書だが、これらの武具を使用するのは静子軍の兵士ではない。今静子が手にしている書類に載っている武具を使用するのは景勝たちだった。
彼らが遂行する特殊な任務を後押しするため、遠くからでも一目で判る程に派手な装飾が施されている。
俗に言う『傾いた』恰好となっており、初めて支給予定の武具を目にした景勝は顔を引きつらせ、対照的に兼続は子供のように目を輝かせていた。
「編み上げブーツも定着したみたいだね。甲斐では日本住血吸虫に注意する必要があるから必須装備なんだけど、通常のブーツよりも更に通気性が悪くなっているから悩ましいね」
静子はこれだけは例外的に大人しい鎧櫃(甲冑を運ぶ際に用いられる専用の容器)から目を離し、現代人が見ればジャングルブーツかと思うような編み上げブーツを手で撫でる。
各種サイズが用意され、つま先には薄い鉄板すら仕込まれたそれは、洗練された機能美を持っていた。
織田軍に於いてすら全員が揃いの装備を身につける制式装備という概念が無い中、足元だけとは言え一兵卒に至るまで統一しようとする静子の異質さが窺える。
この時代に於ける一般的な足元の装備と言えば、足袋を履いて脚絆を巻いた上で草鞋を履くというものだ。
しかし、この装備には防水性能など期待できず、甲斐の国への出兵に於いては致命的となる。
甲斐の国には日本住血吸虫の中間宿主となるミヤイリガイが群棲している。このミヤイリガイは水と接触することにより、日本住血吸虫の幼生であるセルカリアを放出する。
流行地に於いては陸上にすら生息圏を広げたミヤイリガイが、住居の明り取りの窓に群がっていることすらあるという。
つまり朝露に濡れた草むらにミヤイリガイが居た場合、日本住血吸虫に体内へ侵入されることもあり得るのだ。
これを防ぐ為に用意されたのが編み上げブーツだった。足首どころか膝下までを覆うシャフトと呼ばれる部位が特徴的だ。
防水機能を徹底するためシャフトには樹脂コーティングされた帆布が用いられ、極めて通気性の悪い装備となっている。
ここまで徹底しても履物であるため隙間が存在する。それを補うために開発されたのが、現代人であれば当たり前に目にするであろう『ガムテープ』であった。
頑丈さと利便性を追及した結果、布製のガムテープとなっている。水分を浸透しないよう布に樹脂をコーティングした上で、接着剤を塗布した形式をとっていた。
当然現代のような工作精度は実現できないため、我々が目にするガムテープと比べればはるかに分厚く、一度貼ってしまえば剥がすのが困難という問題点がある。
しかし、それでも補修や隙間を埋めるために便利に使えるガムテープの有用性は疑うべくもない。
因みに今回のガムテープに使用した接着剤は、常温では強固な粘着力を誇るが高温に弱く、水虫対策も兼ねて定期的にお湯でブーツごと煮るようにして加熱することにより剥がす事が出来る。
「ご休息の処、申し訳ありません。織田勘九郎様より早馬が着きました」
「判りました」
報告書を読んでいた静子は、小姓から早馬の到着を告げられた。書類から目を上げた静子は、小姓より早馬が携えていた文を受け取り広げて読み進める。
内容を要約すれば相談したいことがあるので時間を取って欲しいとのことであった。東国征伐に関しては既に動き出しているため、今更改まって相談が必要になることなど無いはずなのだ。
とは言え、相手は織田家の次期当主であるため粗略に扱うことなど出来るはずもない。
しかも、お忍びでは無く先触れを送って公式の訪問形態をとっており、出迎え一つにしても相応の格が求められることとなる。
更には相談の中身が不明であるため静子は何を相談されても対応できるよう、東国征伐に関する資料や自軍に関する資料を取り揃えるため奔走することになった。
「うーん、流石に私一人だと手に余るかも。現場の責任者を呼ぶ必要があるかな」
東国征伐の計画表や、懸念事項等がまとめられている書類を読み込んでも信忠が相談したがっていることに見当がつかなかった。
そこで実際に現場を運用している人間ならば、見えている問題点があるのではないかと静子は考えた。
手始めに間諜を統括している真田昌幸へと出頭要請を出す。何よりも優先すべきは東国征伐そのものであるため、予定外の行動で現場を混乱させたのでは本末転倒となる。
それでも要請を出した翌々日には昌幸本人と間者を取りまとめている間者頭とでも言うべき地位の人間が静子の前に揃っていた。
静子にすら面が割れると業務に支障が出るため、昌幸以外は覆面を付けた状態での面会となる。
「まずは急の要請に応じてくれたことを感謝します。皆さんの尽力により、我が軍は有利に計画を進める事が出来ています。何かと苦労を掛けるとは思いますが、これからもよろしく頼みます」
開口一番、静子は昌幸一行に謝意を述べた。間者たちは文字通り命懸けで敵地に潜り込み、有用な情報を収集した上で持ち帰ってくれる。
彼らが静子の目や耳となってくれているお陰で危険を事前に察知して対策も打てるし、敵側が抱える弱点を効果的に突くことが出来ている。
とは言え間者は裏方に徹する存在であるため、その存在は知られども賞賛されることは皆無であった。情報の重要性を知悉している静子や信長をしてさえ、表立って彼らを表彰することは出来ない。
また彼らもそれを望んではいない。彼らにとって有名になることは、即ち自らの死に繋がるからだ。栄誉とは彼らの頭領である昌幸に寄せられるものであり、自らが浴するものではないと肝に銘じていた。
しかし、それでも人間は感情の生き物であるため、こうして静子のような重鎮から面と向かって謝意を告げられて嬉しくない筈がない。
彼らは面を伏せたまま感激に打ち震えていた。それほどまでに世間一般に於ける間者の地位は低く抑えられていたのだ。
何故なら彼らを使用する立場の権力者が最も恐れる存在が他ならぬ間者であり、下手に厚遇して力を付けられては困ると言う考えが蔓延していたためである。
しかし静子はそれらのリスクを織り込んでもなお、彼らを厚遇することにしていた。他の何処よりも優遇してくれる主君に対して、態々牙を剥くような犬ならば粛清できるだけの力を有しているのも一因ではある。
「さて皆には武田及び北条の近況について気になることを教えて欲しい。情報の確度が低くても構わない、その旨を付け添えて報告して貰えれば都度勘案します。畏まる必要はありません、食事でも取りながら気軽に意見を述べて下さい」
そう言うと静子はぱんぱんと柏手を打ち鳴らし、合図を受けた家人たちが机と料理を並べてゆく。全員が席に着き、配膳が終わるのを待って静子が無礼講を宣言した。
それぞれの間者頭は最初こそ困惑していたが、頭領たる昌幸が大いに笑って飲み食いし、気安く静子と会話する様を見て次第に緊張が解ける。
静子以外の面々には少量とは言え酒も供され、宴会に熱が入ると皆の口も滑らかになっていった。
「これは裏取りが完全ではありませんが、かなり確度の高い情報です。ここのところ穴山梅雪が徳川方と接触しているようです」
「ふむ。穴山といえば武田家譜代の臣、御一門衆の一角。それほどの大物が徳川に内通するか、当代である勝頼との間に不和があるとも聞かないけれど確かなのかな?」
穴山は史実に於いても勝頼を裏切り、信長と内通した実績を持つ。しかし、史実の状況から大きくズレが生じている現状、静子としては穴山の裏切りに懐疑的であった。
なにしろ開戦前から大勢は決しているため、今更裏切ったところで彼が厚遇されることなどあり得ない。内通したふりをして織田方の情報を探るダブルスパイになられても面倒であるため、内側に招くこと自体が得策でない。
何より武田は、織田家こそが武家の統領であるという事を世間に知らしめる贄である。ボロボロの武田を討つよりも、少しでも充実した陣容の武田を討ち破った方が宣伝効果は高くなる。
「故に徳川方なのです。織田家には取り入る隙がありません。しかし徳川様ならば……」
静子の言わんとするところを察して、間者頭が自説を述べる。確かに敵方にも広く門戸を開いている徳川家ならば、穴山が登用される目もあろうというものだ。
「なるほど。徳川家も有能な家臣を抱えてはいるが、それでも覇道を目指すならば心もとないと言ったところか」
穴山としてもみすみす勝算の無いいくさに身を投じるよりも、穴山家当主として己が血筋を残す義務がある。たとえは悪いが一部上場企業に採用されずとも、二部上場の企業ならば第一線で活躍できると考えるのは当然かもしれない。
実際に徳川家ならば武田の重臣を召し抱えた場合、甲斐の国を支配する上で有利に働くことは間違いない。甲斐の民にとっても馴染みのある穴山が窓口となれば、無用な摩擦は避けられるだろう。
そして徳川家康自身にとっても、有能であれば敵であっても重用するという度量を示すことで、有能な武将が集まりやすくなる。
「穴山がそう企むのは勝手だけれど、戦後の武田領についての差配は上様の専決事項、そうそう思うようには進まないよね」
東国征伐を大々的に宣言し、音頭を取っているのは信長である。家康はあくまでも信長との同盟関係から補佐に名乗り出ているだけであり、下手をすれば彼らが武田と切り結ばない可能性すらある。
更に言えば織田家と徳川家の結びつきが余人からは想像し得ない程に強固になっているというのもある。資本関係の無い別々の企業かと思っていたが、完全にサプライチェーンに組み込まれたグループ企業に似た立ち位置になっていると言えば判り易いだろうか。
現代の国家になぞらえるならば米国と日本の関係に近い。『米国がくしゃみをすれば、日本が風邪をひく』という言い回しがあるように、既に織田家と徳川家は切っても切り離せない関係になっているのだ。
仮に徳川家が織田家に反旗を翻そうとも、既に支配領土も保有戦力も、経済力ですらけた違いである。そうした状況を一番間近から静子を窓口として観察しているだけに、徳川家としても迂闊な行動を取るわけにはいかない。
何せ下克上を企んでいると疑われることすら不利益につながるのだ。尤も家康とて唯々諾々と従っているわけではないだろう。いずれは織田家に成り代わらんと、虎視眈々と機会を窺っていることは疑いようもない。
ここまでの状況を考慮すれば、徳川家が穴山を迎え入れる可能性は、当の穴山がそれを理解しているか否かは別として相当に低いと予想される。
「一応他所の人事に口を出す権限はないけれど、穴山は上様の不興を買うリスクを冒してまで欲しい駒なのかな?」
「甲斐の国に関しては例の問題(日本住血吸虫のこと)があるため、民草の生活様式から一変させる必要があります。前例を踏襲したがる前統治者の重臣など害にしかならないでしょうな」
「そうだね。裏切らせておいて捨てるのも外聞が悪いし、そもそも交渉を決裂させるのが利口なやり方だろうね」
更に言えば行軍を共にする以上、甲斐の国が抱える呪縛にも等しい環境汚染については説明済みである。そして幼少期より苦労を重ねてきた家康は、「お前には無理だろうが、俺ならばもっと上手にやる」といった大口を叩かないだけの分別があった。
哀しいかな現代に於いても頻繁に指導者たちが口にするこの台詞だが、実際に成果を上げた人というのは絶無とは言わないがほんの一握りに過ぎない。外から見ていれば簡単そうに見える事柄でも、実際にやるとなれば相応のむずかしさが存在するのである。
「穴山の件については暫く私の処で留めて置きましょう。ある程度の裏が取れ次第、私に報せて下さい。私から上様に話をするようにします。徳川様が上様に何らかのご相談をされていれば良し、さもなくば少し東国征伐に影響が出るかもしれませんね」
「上様に!? その……絶対と言える程の証拠は穴山本人を攫いでもしなければ得られませんが……」
間者頭が不安を抱くのも無理はなかった。過去に信長は確証のないあやふやな情報を齎したもの、逆に確証がないからと重要な情報を報告しなかった間者を例外なく処断している。
信長がそれだけ情報というものを重要視している証左だが、当の間者から見れば冷酷無情な人物に映っていた。信長からすれば侮られるよりは、恐れられた方が良いと一笑に付すだろう。
「情報には鮮度というものがあります。釈迦に説法となりますが、確証を得るため徒に時間を掛けるよりも、情報確度を添えて報告した方が上様は喜ばれるでしょう。かの御方は剛毅果断ですが、狭量な主君ではありません。情よりも実利を優先される方であり、有用ならば決して無下に扱うような真似をされません」
「ははっ」
「今後の方針としては穴山の動向に一層の注意を払って下さい。徳川と繋がっている裏が取れれば、それ以上の監視は不要です。逆に交渉が決裂したとわかった場合も、監視を終了して下さい」
大事の前であるため、念には念を入れて対策を講じたが、静子はこの件を楽観視していた。静子の見る限りに於いて、家康は間違いなく有能な人物であり、この程度の局面で判断を見誤るような小者ではないからだ。
恐らく遠からず穴山との交渉は決裂し、失意にくれた穴山は別の受け入れ先を模索することになるだろう。徳川家の中で重要な地位を占められると困るが、それ以外であれば放置しても構わないというのが静子の認識であった。
「穴山に関してはこれで良しとしましょう。他には何かありますか?」
「はっ、実は——」
静子が再び話を振ると、穴山の件が呼び水となったのか、他の間者頭も次々に声を上げ活発な議論が始まった。
信忠からの先触れを受けて以来、武田と北条に関する情報を整理し、万全の準備を整えた上で正装に身を包んだ静子自らが信忠を出迎えた。
一方の信忠と言えば、供すら連れず一人でふらりと現れたかと思えば、突拍子も無い事を言い放った。
「随分とめかし込んでおるようだが、今日は何かの祝い事か?」
はじめは信忠の言葉を理解できなかった静子だが、ふつふつと怒りの感情が湧きあがった。静子は悪戯をした子供を叱るかのように信忠の頭を叩こうとしたが、日々鍛錬を積んでいる信忠は紙一重で身を躱す。
「何をする、危ないではないか」
「正式な遣いを寄越すから、相応の出迎えをした私に対して、その言い草はないでしょう?」
「なるほど、そう受け取ったか。静子が日頃から父上が唐突に押しかけて来ると愚痴をこぼしていたから、先触れを出したまでのこと。俺と貴様の間柄なのだから堅苦しい形式なぞ要らぬ」
「……判った。それじゃ織田家の次期当主ではなく、近所の悪ガキ相手だから晩餐は不要だね」
「折角用意して貰ったものを無駄にするのは惜しい、有難く頂戴するとしよう」
二人は互いに軽口を叩き合いながら静子の私室へと移動した。当初の予定では信忠を上座に据えて、謁見の間にて会談予定だったのだが中止となった。
襖一枚隔てた隣室には才蔵や小姓も控えているが、今この部屋にいるのは静子と信忠の二人きりとなり、掘り炬燵に向い合せに座ると信忠が口を開いた。
「次期当主とは言うが、あの通り父上もご健勝だ。当分お鉢が回ってくることはあるまいよ。堅苦しい応対は勘弁してくれ」
意外に寒がりな信忠は炬燵の天板に顎を載せ、掛布団に潜り込むようにして暖を取っている。静子はその様子を苦笑しながら眺めつつ、手ずから籠に盛られた蜜柑の皮を剥いてやると信忠に差し出した。
信忠はそれを片手だけ掛布団より出して受け取り、一房ずつに小分けにして口に放り込んでいる。
「いきなり当主に祀り上げられるよりも、こうして習熟期間がある方が良いでしょう?」
「確かにな。しかし、欲の皮が突っ張った連中どもの腹の探り合いにはうんざりさせられる。そういう横車を押そうとする輩に限って役立たずときているから始末に負えぬ」
「そうだね。でもいくさの無い泰平の世になれば、そうした腹芸の出来る人が台頭してくるからね。武官はうかうかしていると閑職に追いやられるかもしれないよ?」
史実に於いても豊臣政権下で武官と文官の対立が見られた。豊臣政権の転覆を企む徳川家康が対立を煽ったという側面もあるものの、武断派(軍務を担う派閥)と文治派(政務を担う派閥)は互いに反目し合い対立を深めた。
武断派の代表格である加藤清正や福島正則らは豊臣秀吉による天下統一が進むにつれ、活躍の機会を奪われて燻るようになる。
一方、石田三成や小西行長に代表される文治派は、政権の内政を担うことで存在感を発揮し、徐々に重要な地位を占めるようになった。
まんまと豊臣政権を崩壊に導き、天下を取った徳川家康も後に武断派と文治派の対立に頭を悩ませることになるのは、皮肉としか言いようがない。
ただ徳川幕府は豊臣政権とは異なり、家康を中心とした中央集権化が推し進められており、強権を以て対立を諫める事が出来たため大事には至らなかった。
「静子ならばいずれ訪れる泰平の世に於ける文官と武官との対立をどう収める?」
「そうだね、命懸けで身を立てた事に誇りを持っている武官には領地という目に見える見返りを与え、代わりに官位を与えない。逆に文治派は領土を与えない代わりに、役職や官位を与えることで身分を安堵して均衡を取るかな」
静子の回答に興味を持ったのか、信忠は半分に割った蜜柑を一口に食べた後に言葉を放つ。
「人の欲には限りがない。領土を手に入れたならば、次は官位を得たいと思うのが世の常ではないか?」
「当然そうなるだろうけど、両方を欲するのならば軍務・政務の双方で頭角を現して貰わないとね? 泰平の世になれば武力が持つ重要性は下がるのが道理。過去の栄光に縋るのでは無く、新しい時代に適応したものが生き残る。『適者生存』こそが自然の摂理だよ」
「半生を武に捧げた老兵には厳しいな」
「領土と官位の両方を得て絶大な権勢を誇るようになれば、権力と権威が一極集中するから危険だよ。特に領土は個人ではなく、家に与えられているから後継者が愚鈍ならば暗君を生むことになる」
江戸末期までの日ノ本では、家格を官職と位階で示すのが一般的であった。戦国時代に於いても朝廷より賜る官位は、領地を治める大義名分として利用された。
中でも有名なのは上杉家が持つ関東管領だろう。上杉謙信はこの役職を理由に幾度か北条へ攻め込んでいる。
現代でも言えることだが、財産(領土)や肩書き(官位)の持つ影響力は大きい。不相応な地位を得たものは往々にして問題を起こす。
「本人が身を滅ぼすのは自業自得だけれど、最終的にツケを払わされるのは領民となる」
「なるほどな。もし民が暴動を起こせば、それを理由にお家を取り潰す事も出来るという訳か」
「阿漕なやり口は反発を招くよ? 良く使われる手ではあるけれど、生殺与奪に関わることに安易な手段で踏み込めば、手痛いしっぺ返しを貰うことになる」
泰平の時代が長く続いた江戸時代では、地方の大名がもつ力を削ぐため参勤交代や転封が行われ、統治の失敗を理由にお家取り潰しが横行した。
「何事もほどほどが肝要よ。やり過ぎは社会不安を招くけれど、渦中の人間はそれに気付けないから問題だね」
徳川幕府に於いて初代の家康から三代将軍の家光までは、幕府による支配構造を定着させるため豊臣系の大名を潰して回った。
お家を取り潰せば、当然その禄を食んでいた家臣も食い扶持を失い、浪人となって流離うこととなる。
浪人となった彼らは再度仕官できる先を求めるが、余程の才覚があるもの以外は門前払いとなってしまう。中には武士の身分を捨てて農民に身をやつす者もいた。
こうした扱いを受けた者たちの不満は、原因となった幕府へと向かい慶安の変や、承応の変となって表面化することになった。
こうした事件が更に武力に依る革命を嫌う気風を生み、武断から文知への方針転換を後押しすることになる。
「いやはや為になるな。この調子で俺の補佐もして欲しいものだ」
「調子に乗らない。王者は常に孤独なものよ、最終的に決断を下すのは貴方になるんだから」
「良いではないか。俺にだって誰かに頼りたい時もある。武田に関しては懸念も消えたが、北条は如何ともし難いのだ」
信忠の言う武田に関する懸念とは、彼が予てより文を通じて関係を深めていた武田信玄の五女にあたる松姫であった。
第一次東国征伐以降途絶えてしまっていた文のやり取りは、華嶺行者という規格外の配達人の登場を機に再開されることとなる。
単独で道なき道を踏破し、誰にも見つかることなく信忠の文を松姫に届け、あまつさえ彼女からの返信すらも持ち帰ることが出来るのだ。
二人の話題は必然的に第二次東国征伐に関することに収束してゆく。互いに想い合っている者同士が敵となる運命の悪戯に翻弄される若い二人に、思いもよらない手が差し伸べられた。
救いの手は信忠の許へ書状と言う形を取って届けられる。差出人は武田勝頼であり、内容は遠くない将来に敵同士となる自分達に松姫を巻き込むのは余りにも不憫。
敵対を前にして松姫は信玄の菩提寺でもある恵林寺に身を寄せさせ、勝者となった側が迎えに行くというものであった。
この勝頼の提案は、信忠と松姫側に否やは無く。勝頼としても己が敗北を喫したとしても、武田の血統を歴史に残すことが出来る起死回生の一手でもあった。
「北条の件って……もしかして、柴田様が絡んでいる?」
眉を顰める信忠に静子は問い掛けた。静子の問いは正鵠を射ていたようで、信忠は柴田の名を耳にした途端に身を固くして押し黙る。
信忠としても気が緩んでいたのだろう、姉貴分である静子には決して見せないつもりの弱みを漏らしてしまった事を悔いていた。
信忠の様子を見て状況を察した静子は信忠に気付かれないようにため息をついた。信忠にとって譜代の重臣というのは厄介な存在だ。
前述の武断派に於ける急先鋒であり、今回の東国征伐でも北条征伐の総大将に収まるなど、信長からの信任も厚い。
信長の後継者という立場上、信忠が東国征伐全体を統括する総大将に据えられているが、武功の不足は他ならぬ信忠が一番自覚しているところであろう。
「意識するなって言うのは無理なんだよね?」
「俺が父上の後継者として誰恥じぬ武功を立てねば、その身一つで成り上がった御仁に気後れしてしまう」
「今回の東国征伐で頑張るしかないよね」
「待ってくれ! ここまで恥を晒したんだ、何か助言の一つもあって良かろう?」
「そこは、ほら。私は織田家内の権力闘争には極力関わらず、天下統一がなった暁には隠居したいと思っているから……」
「静子が隠居なぞ出来るはずが無かろう! 白昼夢にしても酷いぞ」
「いやいや、流石に世俗を捨てて出家すれば隠居出来るはず!」
「還俗という手段がある以上、出家しても連れ戻されるだけだ。そもそも父上の目が黒いうちは、出家など許されぬだろう」
「……仮に出家しても、寺まで押しかけてくる様が容易に想像できるよね」
信忠が言うように出家しても信長に振り回される未来を予見できてしまい、静子は悄然と肩を落とすのだった。
「しかし、静子の言うように柴田殿に対抗するため武功を上げたとて、いずれは文治派の台頭が待っている。既に武断派と文治派の対立の兆しは見えているし、それまでに俺は政務能力でも功を示さねばならない」
「助けが欲しいなら勝蔵君を連れていく? 彼は力押しが目立つけれど、彼の真骨頂は頭脳戦にこそあるんだ」
「あの言動ながらに文化人だからな。長可を良く知らぬ者は疑ってかかるが、あ奴は頭の回転も早く柔軟な発想力を持っている。ただ誰の目にも判り易い暴力に依る解決を好むから乱暴者に見えるのだがな」
軍規違反の常連である長可だが、流行の最先端である茶の湯を嗜み、筆をとらせれば京の文人をも唸らせる。更には和歌を詠ませても一流どころに見劣りしないというのだから驚かされる。
「そう言えば、当の本人の姿が見えないようだが?」
「勝蔵君? 死地に身を置くとか言って、慶次さんと鬼ごっこしているよ」
「そうか……」
信忠は己を助けてくれるかも知れない人物の無事を密かに祈っていた。