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戦国小町苦労譚  作者: 夾竹桃
天正三年 哀惜の刻
160/245

千五百七十六年 六月上旬

時は少し遡り、五月中旬頃。肺炎と思われる症状で療養していたヴィットマンの容体は、静子の献身的な看護の甲斐あってか回復を見せた。

危険な状態を脱したとは言え、病気によって失われた体力は老齢のヴィットマンだと容易には戻らない。


「眠っている時間の方が長くなっちゃったね……」


静子は眠ったままのヴィットマンを優しく撫でる。手のひらを通して伝わる体温が生命を感じさせてくれる反面、表皮にハリが無くなり薄くなった肉を通して骨の存在を感じ取れてしまうのだ。

在りし日のヴィットマンは、たとえ眠っていても静子が近づくと足音に反応して飛び起き、走り寄ってきたものだが既にそのような活力は失われて久しい。

静子としてもこのまま眠らせてあげたいのだが、心を鬼にしてヴィットマンの体を揺さぶって彼を起こした。このまま寝たきりになってしまえば、足が萎えてしまい二度と歩けなくなるとみつおから聞いたためだ。

意識を取り戻したヴィットマンは目ではなく、匂いで静子を感じ取ってそちらに頭を向けた。そして生まれたての小鹿のように震える足で立ち上がると、彼女の方へとゆっくりと歩む。


「ゆっくりね。ゆっくりでいいからね」


少し進んでは休むということを繰り返しながら、納屋(なや)から出て付近を散歩する。かつては一息で駆けられた距離が、やたらと長く感じられた。

それでもヴィットマンのリハビリは続けなくてはならない。何故なら己の最期を悟ったヴィットマンが、頻繁に山を眺めるようになったからだ。己の死地を山に定めたのだろう、静子としては最後の願いを叶えてやりたいと思った。

春から夏にかけてという新緑が芽吹き、日々その成長を目にできるという生命力溢れる季節に反して、静子たちの足取りは重い。

老いたものが去り、新しい命が台頭するという自然における世代交代の摂理なのだが、()(まま)と言われようが受け入れがたいのだ。


「今日も暑くなりそうだ、そろそろ戻ろうか?」


四半刻(30分)という時間で進めるだけ進み、そこで休憩と水分補給をしてから同じ時間を掛けて引き返す。

この一連の散歩が静子とヴィットマンの日課に加わって以来、徐々にヴィットマンの身体機能は回復を見せている。

元々並外れた巨躯を誇っていたヴィットマンだけに、自身の骨格が持つ重量が回復を妨げているのは明らかだった。

短い散歩を終えたヴィットマンはこの後、一日の殆どを寝て過ごすことになる。これに伴ってヴィットマンが、睡眠中に粗相(そそう)をすることが増えた。

便意をコントロールすることが難しい程に彼が老いたのだという事実を突きつけられることになり、静子は胸を締め付けられる思いがした。

それでも、静子はヴィットマンが少しでも快適に過ごせるよう定期的な清掃を欠かさないよう配慮している。


「がんばったね。お疲れ様」


そう声を掛けつつ静子はヴィットマンの毛並みを撫でる。そうしながら静子はヴィットマンの寝床から少し離れた場所でうずくまるバルティへと目をやった。

ヴィットマンの(つが)いであるバルティも、ヴィットマンとの接触が一番長かった為か、少し遅れて同様の症状が発症したのだ。

ヴィットマンよりも体力があった事や、集団感染を疑って定期的に観察していたため異常の早期発見と早期対応に繋がった。

バルティの容体はヴィットマンに比べてはるかに軽症だったが、それでも体力の消耗と衰弱は避けられず、こうして同じ納屋で寝起きをさせている。

ヴィットマンとバルティは、静子を初期から支えてくれた家族だ。その二頭共に死の気配が忍び寄ってきている事に静子は恐怖した。

静子はバルティの傍にしゃがむと、彼女の体に手を触れようとしたが、結局触れることが出来ず力なく手を下ろした。

愚かな行いだと理解しつつも、触ることで否応なく突き付けられるバルティの老いを知るのが怖かったのだ。


「ごめんね」


謝罪の言葉を口にしながら、知る勇気を持てない己の弱さを痛感していた。







人物に対する評価とは、評価する側の立場によって異なる。自領の領民たちや配下から慕われている静子も、処変わって織田家に敵対する側から見れば怨敵となる。

そして信長や静子が推し進める経済政策によって勢力を伸ばすものがいれば、当然その分の割を食って凋落(ちょうらく)するものが現れる。

これは誰かが得をすれば、その陰で誰かが損をしているという経済の本質であるため誰であろうと回避し得ない原則だ。

変化に対応できないものは淘汰(とうた)されるという適者生存の原則なのだが、敗者の立場に追い込まれたものは往々にして変化を生み出したものへ恨みを抱く。

そうした者から見れば静子は秩序の破壊者であり、怨敵とは言わないまでも打倒すべき暴君に映る。万人に好かれることなど不可能であり、その辺りについては静子も覚悟しているため何も言わない。

ただし、それは内心の自由で済む範疇(はんちゅう)に留まっている限りという条件が伴う。具体的な行動に移した瞬間、それは処罰の対象となる。


「ちょいと邪魔するぜ。よし、揃ってるな。死ね」


とある木賃宿に泊っている牢人の一人を、長可は部屋に踏み込むなり打ち据えた。牢人たちにとって闖入(ちんにゅう)者である長可は、まるで挨拶をするかのような気軽さで金棒を振るった。

牢人たちが長可を敵だと認識する前に、一人目の牢人の頸椎を砕いて床にめり込んだ金棒が振りあげられ、二人目の頭部を柘榴(ざくろ)のように弾けさせた。

室内に四人いた牢人のうち、二人が瞬く間に惨殺されたところでようやく残る二人が己の得物を掴んだ。しかし、刀を抜けたのは一人のみであり、もう一人は立ち上がる前に長可が振り上げた勢いのまま放り投げた金棒に腹部を貫かれて壁に(はりつけ)となった。


「き、貴様! 何処の手の者だ!?」


最後の一人が抜きはらった刀を構えて叫ぶが、勢いよく踏み込んだ長可は鋼鉄製の篭手を振るって牢人の刀を握る手を殴りつけた。

その結果、握り込んだ刀の柄と篭手に挟まれた牢人の指は砕け、取り落した刀を長可に奪われてしまう。


「相手が無手なら勝てるとでも思ったのか? こんな数打ちの安物で、俺を斬ろうとは思い上がったもんだ」


牢人が砕けた己の手から発する激痛で絶叫しようと口を開いた瞬間、いつの間にか背後に回り込んでいた長可が縄で出来た猿轡(さるぐつわ)を噛ませる。


「騒ぐな。気乗りはしないが、お前に聞きたい事がある人がいるんだ。判ったら頷け、それ以外は何をしても殺す」


明らかに不機嫌な様子を隠そうともしない長可が牢人に声をかける。激痛と死の恐怖とで涙と鼻水を垂れ流しつつも、牢人は必死に首を縦に振った。

すっかり従順になった牢人をつまらなそうに見やりながら、長可は外に控えていた兵士へと声を掛けた。

兵士は牢人に縄を打つと、腰縄を掴んでどこかへと連行していく。室内に残されたのは物言わぬ三つの(むくろ)と、それの生産者である長可だけとなった。

長可が壁に磔になっている牢人から金棒を引き抜こうとすると、死体の懐から防水の為か油紙で包まれた物体が滑り落ちた。

長可が乱暴に油紙を破ると、中から四つ折りにされた大判の紙が出てくる。血にまみれた鋼篭手を外して、内容を検めるとそれは連判状(れんぱんじょう)であった。

連判状とは目的を同じくする人々が、誓約のしるしとして名前を書き連ねたものであり、裏切りを防止するための担保でもあった。


「くそっ! こいつが首謀者だったのかよ。おーい! こいつも持って行ってくれ」


重要書類である連判状を所持していたということは、この牢人こそが襲撃部隊のリーダーであり、彼らを雇った黒幕へと繋がる人物だった。

連判状に黒幕の名前があることを願いながらも、長可は苛立ちから行動が雑になっている事に気が付いた。実際長可の技量があれば、最初の二人はともかく残りの二人を生け捕りにすることは容易い。

しかし、結果はご覧の通り。暴れる自分の感情を制御できず、必要がないものまで殺めてしまっていた。


「ちっ! イライラするぜ」


長可の苛立ちは静子に起因していた。静子との間に確執が出来たという訳ではない、むしろその逆である。

つまりは静子の苦境に対して自分を頼って貰えないことと、実際に何の力にもなれないことに対する苛立ちを持て余していた。


「くそったれ! 静子が弱っているときこそ力になってやりたいってのに、こんなことでしか役に立てない自分が恨めしい……」


長可が思わず零した愚痴は、誰の耳にも届くことなく消えていった。



長可が己の無力感に(さいな)まれている頃、信長へ暇乞いをして以降すっかり姿を見せなくなっていた静子から呼び出しがあった。

口では急な呼び出しに対する不平を漏らしながらも、長可は足取りも軽快に静子邸へと向かっていた。途中で慶次と合流し、彼と軽口を叩き合いながら座敷に入る。

定刻よりも早いにもかかわらず、静子を除く全員が揃っていた。いつもなら静子自身が真っ先に入室して皆の到着を待っているため、何か不測の事態が起こっているのだと知れた。

結局静子の到着は予定時刻の直前となった。皆に遅参を詫びながら上座に座る静子の顔色は明らかに悪く、傍らに普段は同席しない彩と(しょう)を伴っていることが皆の不安を掻き立てる。

憔悴(しょうすい)した様子の静子に足満が真っ先に声をかけたが、「大丈夫」とだけしか答えないためそれ以上は誰も踏み込めずにいた。


「皆、急に呼び出してごめんね。今日は皆にお願いがあって集まって貰ったんだ。これは公人としての命令じゃなく、私人としてのお願いだから拒否して貰っても構わない。ただ、私だけじゃどうにもできないから皆の力を貸して欲しい」


「水くさいことを言うな。お前が望むのならば、何を差し置いてでも叶えてやる。さっさと願いを言え」


静子の前口上を受けて足満が応える。彼の言葉はこの場に居合わせた者たちの総意でもあった。

乱暴にも聞こえる足満の言葉に裏打ちされた不器用な優しさに、静子は少し表情を和らげた。そしておずおずと己の願いを口にする。

それはヴィットマンが己の死地と定めたであろう山を禁足地にしたいと言うものだった。そう遠くない未来、ヴィットマンは静子の許を去って山へと還る。

ヴィットマンの(つい)の棲家であり、墓標ともなる山を踏み荒らされたくないというだけの完全に静子の私情に端を発した我が侭だ。

無論、山というものは付近住民たちにとっての共有財産であり、生きる糧を与えてくれる掛け替えのないものだ。永久に禁足地になど出来ようはずもなく、期限を定める必要がある。

静子はその期間をヴィットマンが自分の許を去ってから、その亡骸(なきがら)が自然に還るまでの時間として一年と定めた。

禁が明けた後は山を開放するが、山頂に狼を(まつ)る神社を建立(こんりゅう)したいと言うのだ。


ここまで言われれば集まった面々は静子が己に何を期待しているかを察することができた。

山が人々に(もたら)す恵は莫大だが、一年間に限ってしまえば静子の私財で十分に(あがな)うことができる。

ではなぜ静子がそれをしないかは明白だ。権力者が私情によって共有財産を独占し、皆に不便を強いるとなれば禁が明けた後に建立される神社や山に対してどのような感情を抱くかは火を見るよりも明らかだ。

ことは生活の補償だけに限った問題ではない。皆が納得するだけの理由を示し、既得権益者たちの利害関係を調整したり、前例のない話だけに不測の事態に対して備えたりといったことが必要になってくる。

領主と領民は親子関係にたとえられることがあるが、今回静子がしようとしていることは親が子の茶碗から飯を奪い取るに等しいのだ。無理を押して道理を引っ込めるための腕っぷしも必要となる。


「なんだよ、俺向きの仕事があるじゃねえか! もっと早く言えよ」


真っ先に長可が軽口を叩いた。自分の我が侭で皆に嫌な役を押し付けると心苦しく思っていた静子は、嬉々として請け負った長可に驚いた。


「難しく考えすぎなんだよ。お前はこうしたいって言えばいいんだ。それをどうにかするのが俺たちの仕事だ」


「そうだな、勝蔵にしては良い事を言う」


「おい! 俺にしては、ってどういう事だよ」


才蔵の突っ込みに長可が反論するが、才蔵は怪訝(けげん)そうに彼を見つめ返す。


「己の普段の行いを思い返せば、自ずと判りそうなものだが……」


「判らないから聞いてるんだよ!」


「自覚すらなかったのか……」


ため息を吐く才蔵に、長可は首を傾げる。本気で分かっていない長可の様子に周囲の者も思わず苦笑を漏らした。


「勝蔵様の言うとおりです。我々は静子様の望みを叶えるためにここに(つど)ったのです」


「静子様の望みを叶えるために働けることこそ、我らの(ほま)れとなりましょう」


「そうそう、静っちはもっと俺たちを頼ることを覚えな」


「慶次の言う通りだ。わしらは等しくお前に感謝しておる。お前の為になるのなら、我らは力を惜しみはせぬ」


皆の温かい言葉に思わず涙ぐむ静子だが、今は涙を流している場合ではない。皆の心意気を無駄にしないためにも、為すべきことがあった。


「じゃあ改めて皆にお願いします。私の家族であるヴィットマンが安らかに逝けるよう、私の我が侭であの山を一年閉鎖したい。その為に必要な全てを片付けるのに、皆の力を貸して下さい」


静子は(てら)いのない己の本心を告げ、力を貸してほしいと願った。

それに対する皆の答えは、集った人数からは想像できない程の大音声で返された。

彼らの表情にはようやく静子が自分を頼ってくれたことに対する喜びすらあった。

今こそ静子から受けた恩を返す時だと、誰もが奮起していた。







普段の静子から任される仕事ならば、ある程度の段取りや作業手順などが添えられている。しかし、今回は私的な依頼であるため、そういったものが一切なかった。

それほどまでに静子に余裕がないというのもあるが、今回に限っては目的だけ告げる丸投げ方式というのも都合がよかった。なぜなら普通に作業を進める際には指針となる段取りが、各自が己の能力を最大限に発揮するためには少々窮屈となるからだ。


「今後、静子様への取り次ぎ依頼は全て『上様』を通すようにします」


蕭は彩と相談した上で信長に嘆願書を提出し、弱っている静子に取り入ろうと贈り物や面会を求めてやってくる有象無象をシャットアウトして貰えるように願った。

目上の者を窓口にするという通常ならば礼を欠いた願いだが、信長はこれを快諾した上で取り次ぎを求めてきた者たちの一覧を要求した。

静子の地位が高まるにつれ、彼女に取り入ろうと企てる輩の身分も高くなった。いくら蕭が前田利家の娘とは言え、所詮は何の権限も持たない娘であり、相手の体面を潰さないよう丁重に断るのに苦慮していたのだ。


「さて、わしは静子が心置きなく休養できるよう取り計らえと皆に伝えたはずだが、わざわざあ奴の領地にまで押しかけて面会を求めんとした輩がおるらしい」


急遽信長から呼びつけられて戦々恐々としている諸侯を前にして、彼は蕭から受け取った書類を手でもてあそびつつ、世間話でもするかのように口を開いた。

信長は感情を露わにしているときよりも、静かに糾弾(きゅうだん)してくるときの方が恐ろしい。恐らく手にしている書状によって証拠を掴んでいるが、ここまでのことは不問にするとした上で問いかけているのだ。

すなわち「自分の決定に従えないのならば、誰であろうが処断する」という無言の圧力が場を重くしていた。


まさか(・・・)ここに集った皆の中に、そのような愚か者は居らぬとは思うが、配下が勝手をするかも知れぬゆえ今一度重ねて命じる。休養中の静子に対する干渉は許さぬ、たとえ手の者が勝手にしたことだとしても連座に処すゆえ心せよ」


信長の宣言は織田領内だけにとどまらず、あっという間に日ノ本中を駆け巡った。その噂に京の公家たちや豪商なども震え上がり、国人たちも配下に対して引き締めを行うに至った。

それもそのはず、この話は信長、近衛前久(さきひさ)、足満の三人によってあらゆる手段を講じて広められたからだ。火中の栗を拾うにしても、己が焼け死ぬほどの火勢に腕を突っ込める剛の者はいない。

彼らの尽力もあって静子邸は久しぶりの静けさが満ち、家人たちが十全に働ける環境を取り戻した。


「閉山による影響を書類上で確認するのと並行で、現地に人を派遣して数値として上がってこない人々の生活に対する影響を調査します」


静子の金庫番である彩は、過去分の納税記録を検めることで補償に必要な予算の概算を算出していた。

それと並行して現地の住民たちが普段から山菜取りや、焚き付けの落ち葉等を集めるといった書類上に出てこない影響を調べるよう取り計らった。

こういった生活に大きな変化を齎す施策については、発布前の段取りが重要となる。

いくら不利益を(こうむ)った分を補てんすると言っても、有力者の口約束だけで唯々(いい)諾々(だくだく)と従う者ばかりではない。

そう言った者たちへは地元の有力者である名主や、取りまとめ役などを通して言い聞かせて貰った。

それでも納得しない跳ねっ返りについては、腕っぷしと言う判り易い共通言語によって説得に当たる予定だった。

しかし、大多数の領民は静子に好意的であり積極的に協力を申し出てくれた。更には長可の悪名が悪い意味で鳴り響いていたため、敢えて藪をつついて蛇を出そうという馬鹿もいなかった。


「思った以上に影響範囲を抑えられそうですね」


「実施前の段階では(・・)ね。実際に禁足令が発布されれば予期しない不都合が生じると予想されます。とにかく衣食住及び医療に関する致命的な不都合が出ないよう準備をします。取り越し苦労ならば良いのです、実際に問題が起きる前に出来得る限り備えますよ」


「はい!」


彩が陣頭に立って調査した限りでは、かの山で一番大きな財源となっているのは林業であり、次点で猟師たちが鳥獣を狩猟することによって生産される皮革や羽毛、獣肉といった資源だ。

幸いにして山を通るような街道は存在せず、流通が妨げられるような事はないと判った。しかし、これは休業補償に関する費用だけであり、他にも必要となる費用がある。

それは山への立ち入りを禁ずれば、当然山中は人目につくことがなくなるため、世間様に顔向けできないならず者どもの格好の隠れ家になり得る。

そう言った治安の悪化を防止するためにも、山への立ち入りを監視する施設とそのための人員を手配する必要があるのだ。

彼女達は今までの経験から、発生し得るトラブルを未然に防ぐ手立てを講じつつ、予算案を詰めていった。







皆を集めた日以降、静子は一日の殆どをヴィットマンが寝起きする納屋で過ごすようになった。

しかし、彩や蕭及び慶次達に関しても誰一人として不満を抱くことは無かった。静子が心安らかにヴィットマン達と過ごせる時間こそが彼らの成果であったからだ。


「空が青いね」


良く晴れた昼下がりに、縁側から見上げる青空は何処までも青く澄んでいた。目を閉じれば初夏独特の草の匂いを含んだ風が頬を撫でる。

本邸から離れた位置にある納屋の付近は決して不快ではない静けさに満ちていた。静子はヴィットマン、バルティと共にゆったりと流れる時間を過ごしている。

しかし、同時に見えない位置から自分を警護してくれている兵たちの存在があることも理解していた。彼らの不断の努力によってこの静寂は守られている。

本音を言えば、自分と狼たちだけにして欲しいのだが、それを望むには静子は重要人物となり過ぎていた。

そのことに対して不満はないが、老いた狼たちとの日々は自由だった昔を思い出してしまい、郷愁に胸を締め付けられた。


「ああ、また益体もない事を考えちゃう……どうしてもお前たちが元気だった頃が思い出されるんだ……」


静子の脳裏にはあり得ない仮定の世界が広がっていた。そこでは全ての重責を放り出し、一個人となった静子と元気に駆け回る狼たちがいた。

いくら妄想しようとも過ぎてしまった時間は戻らない。時間を掛けて作り上げた大事なものを放り投げる事も出来そうにない。

それでも空想の世界に意識が向かうのは、決して避ける事の出来ない哀惜(あいせき)(とき)が迫っているのを感じてしまうからだろう。


(一日が短い。何もできないまま、また一日が経ってしまう)


気が付けば日暮れ時となっており、冷やされた空気に乗って虫の音が聞こえてくる。

何も為さず、ただヴィットマン達に寄り添って過ごす無為な日々が、静子の精神を次第に落ち着かせてくれた。

諦観(ていかん)とは異なり、身近なものの死をありのままに受け入れる境地へと静子は至りつつあった。


(思えばいつも慌ただしく駆け抜けてきたんだなあ。こんなにゆっくりとした時間はいつぶりだろう?)


戦国の世に迷い込んで以来、いつもヴィットマンは傍にいてくれた。それがどれほど自分の心を支えてくれていたかに気が付いた。


「子供が生まれたら『犬』を飼いなさい。子供が赤ん坊の時、子供の良き『守り手』となるでしょう。子供が幼年期の時、子供の良き『遊び相手』となるでしょう。子供が少年期の時、子供の良き『理解者』となるでしょう。そして子供が青年になった時、自らの死を以て子供に『命の尊さ』を教えるでしょう」


昔、友人が教えてくれたイギリスの諺をふいに思い出した。あの時は上手い事を言うもんだなぐらいの感想しかなかったのだが、今となってはその時を思うだけで胸が張り裂けそうになる。


「それでも、ヴィットマンに出会えてよかった」


ヴィットマンとバルティが眠る納屋で、夕暮れを見ながら静子は呟いた。

『その日』がいつになるかは解らなかったが、静子は今なら彼らを送り出してやれるという確信があった。


だからだろうか、『その日』は突然訪れた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 愛犬を亡くした身には尽く当てはまるので分かりみが深い
[良い点] 静子は権利者にはなったから、我儘を言っても良いだろうとは思う。 [気になる点] 史実どうりに、家康や秀吉や細川の性格を考えれば、静子の命を狙ったり妨害工作をしてても不思議事無いし、それ…
2022/12/21 09:44 退会済み
管理
[一言] 何度読んでもこの場面は泣いてしまう・・・
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