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戦国小町苦労譚  作者: 夾竹桃
天正三年 哀惜の刻
157/244

千五百七十六年 三月下旬

ヴィットマンの容体は、異常の早期発見とその対処が早かったこともあり、小康状態を取り戻した。

静子はその間ずっと付き添い、献身的に看護を手伝っていた。

医師及び家畜の専門家たるみつおの見立てによれば、ヴィットマンの嘔吐及び吐血は恐らく肺炎であろうと言うこと、対処としては水分と栄養を取らせ安静にさせるほかないという事だった。

静子の懸命な看護の甲斐もあってか、ほどなくヴィットマンは意識を取り戻したが、用意された餌や水に殆ど口をつけることなく、(あか)()りの格子から見える山の遠景を眺めているようだった。

ヴィットマンの行動が意味するところを教えてくれたのは、みつおであった。


現代に於いて畜産業に携わる者として、家畜やペットの生き死にの現場にはこの場に居る誰よりも多く立ち会ってきただけに、死期を悟った飼い犬の行動を知悉(ちしつ)していた。

恐らくヴィットマンは己の命が潰えようとしていることを悟り、死出の準備を始めたのだろうと言うことだった。

今のヴィットマンの体力では、既に食物を消化することも、水を摂取することも難しい。

厳しい野生環境を生き抜くオオカミの習性として、群れの一員としての役割を果たすことができない程に衰えた個体は、自ら群れを去って姿を消す事を選ぶ。

飼い主として、いや家族としてその最期までを看取りたいと望む気持ちは理解できるが、それは人間のエゴであり、(いたずら)に彼らを苦しめることになると淡々と静子に言って聞かせた。


咄嗟に感情が爆発し、反射的に口を開こうとした静子だが、その口から声が発されることは無かった。

静子にヴィットマンの行く末を語って聞かせるみつおの表情は、いつもの朗らかな笑みとはかけ離れた泣き笑いのような慙愧(ざんき)を噛みしめるものだったからだ。

静子はみつおも無念でならないのだと悟り、言葉を飲み込んだ。

その姿を見たみつおは、自分の子供にも等しい年頃の女性が、過酷な環境に懸命に立ち向かっている処に、尚も苦難を押し付けんとする天を呪った。


(本当は判っていたんだ。以前から老化の兆候はあったのに認められなかった。ずっと見ないふりをしてたんだ……ごめんね、ヴィットマン)


みつおの言に拠れば、ここからヴィットマンが回復することは年齢的にも難しいため、早晩姿を消すだろうということ。

それは今夜かも知れないし、明日かもしれない。しかし、彼が自力で歩ける時間はもう殆ど残されていないことを考えると、行かせてやるのが望ましいだろうとも。


静子は傍にうずくまっているヴィットマンに触れた。ヴィットマンの体は驚くほどに冷えていた。恐らく既に体温を維持することも難しくなっているのだろう。

せめてもと湯たんぽを用意させると、彼の首やわきの下、太ももの内側などの太い血管が集中している部位に置いて温めることにした。


「判っちゃうんだ。この時代に来てから、現代では考えられない程の生と死を見てきたから。命の火が消えようとしていることが、なんとなく判ってしまうんだ」


自分が彼にしてあげられることは多くない事を悟ると、静子は最後に一度ヴィットマンをぎゅっと壊れ物に触るかのように大事に抱きしめた。

あれほど(たくま)しく頼もしかった体は()せ衰え、かつてのような生命力に満ちた弾力を返してこないが、確かにまだ生きているという温もりがあった。

ヴィットマンはされるがままになっていたが、苦労して頭を起こすと体に抱き着いている静子の頬を舐め、一声鳴いた。

彼の既に良く見えていないであろう目は、それでも静子を真っすぐに見据え、鼻面で静子を押して立ち去るように促した。


「そうだね。私がこんな調子じゃ、お前も心配で旅立てないよね……」


静子は袖口で乱暴に顔を拭うと、周囲の家人に命じた。


「これ以降、この部屋への立ち入りの一切を禁じます。(かんぬき)を下さず木戸は開けたままにするように。また夜間に狼の姿を見かけても、一切の接触を禁じます。これは領内全ての村に触れを出して!」


主君の意を受けた従者たちが即座に動き出し、静子邸からほど近い山までの道筋については夜間の外出禁止が言い渡された。







その後も静子は一日一回ヴィットマンの処を訪れ、余り手を付けられていない食事と水を交換し、温くなった湯たんぽの中身を捨て、温かいお湯に入れ替える事を日課に加えた。

ヴィットマンの最期は近い。せめて彼が一生を仕えたことを誇れる主でいようと、静子は決意を新たにする。


「まずは迷惑をかけた皆に謝って、滞っていた仕事をキッチリ片付けないとね」


そう意気込む静子の許へ、騒々しい足音と共に生命力の塊のような人物が訪れた。


「お久しゅうございます、静子様!」


それは日本人には珍しい程の隆々たる体格を誇る人物であった。頭に頭巾(ときん)と呼ばれる六角形の帽子をいただき、はち切れんばかりの肉体を墨染の山伏装束に包んでいる。

謁見の間において、かなりの距離を挟んで向かい合っているというのに、密着しているかのような錯覚に静子は陥っていた。


「お変わりは……無さそうですね。華嶺(かれい)行者(ぎょうじゃ)


静子は彼の発する熱にあてられたかのように表情を引きつらせながらも声を掛ける。

静子邸に僧侶が訪れること自体はそれほど珍しい事ではないが、彼はそれらとは一線を画した存在であった。


出会いの発端は、信孝(のぶたか)から相談を受けたことにあった。

曰く、「伊勢詣での道中の山野に天狗が現れる」と言うもので、参詣客達が襲われることこそ無いものの、荷物を木陰に置いて水を飲みに行ったら荷物を盗まれただの、野犬に襲われそうになったところを助けられ、代金として味噌と塩を要求されただのという噂だ。


深刻な被害が出ている訳ではないが、さりとて放置していては領主としての沽券(こけん)にかかわる。

そう考えた信孝は何度も兵を派遣するのだが、その全てが空振りに終わった。

大人数で準備万端に待ち構えていれば姿を見せず、人数を分散して広く配置すればその圧倒的な身のこなしで翻弄されて歯が立たない。

ほとほと困り果てた信孝は、恥を忍んで静子に頭を下げて腕の立つ武芸者を借りることにした。即ち、静子の側近たる慶次、才蔵、長可の三人が天狗退治に駆り出された。

そもそもいつ何処に出るともわからぬ天狗退治にそれほど乗り気ではなかった三人だが、日が暮れて野営をしようと準備をしていたところに天狗は不意に現れた。

噂に違わぬ異形と見上げる程の体躯(たいく)に比して、驚くほど音を立てずに現れた割にその足取りはフラフラとしており酔っぱらったようにも見えた。


その様子を見て取った長可は、誰何(すいか)することもなく直ったばかりのバルディッシュで斬りかかった。

それに対する天狗の反応は電撃的であった。夢見心地から覚めたのか、手にした金剛杖で巧みにバルディッシュの刃の内側を叩いて弾き、巨体を軽々と宙に翻してトンボをきった。

着地の隙を見透かして放たれた才蔵の神速の突きは、刃先を天狗の一本下駄に踏みしめられて地に潜った。

正に(ましら)の如き身のこなしと、熟達の武人に匹敵する動体視力を持つ化け物だった。

長可と才蔵が戦慄する中、どっかりと胡坐(あぐら)をかいたままの慶次は鍋を掻き回し、中身を椀によそうと天狗に向かって突き付けた。


「匂いに誘われたんだろ? お前さんも食うかい?」


果たして天狗の応えは雷鳴もかくやという腹の虫であった。毒気を抜かれた長可と才蔵も得物を置き、天狗も面を外すとどっかと座り輪に加わった。

そうなってしまえば同じく腕に覚えのある武芸者同士が意気投合するのにそれほど時間はかからなかった。

天狗は世を捨てて修験者となった行者であり、余りにも山暮らしが長引いた結果、自分の名前すら忘れたという。

そんな彼を惑わせたのは静子謹製のカレー粉がふんだんに用いられたカレー鍋であった。

その味と香りに天啓を見た天狗は己を華嶺と名乗ることとし、彼の心を惹き付けてやまないカレー粉を製造した静子を主君と頂くことになったのだ。


そうした経緯もあり、雇われてからまだ日が浅いが、その身体能力及び隠形(おんぎょう)能力は熟達の忍どころか、野生動物をも(しの)ぐ域に達しており、外交僧としての任を担うことになった。

天狗の面を外していても日に焼けた赤ら顔は天狗じみており、身の丈も六尺(約180センチ)を軽く超えているというのに、雑踏に紛れれば即座に姿を見失ってしまう。

また筋骨隆々な見た目とは裏腹に学識にも明るく、若い頃に明へと渡り治水と土木技術を学んだ学僧でもあった。


「静子様、不躾で済みませぬが先に例の(ブツ)を頂けまいか? 報告は既に事務方に渡しておりますゆえ」


「え? ああ! すぐに準備させます」


(かたじけな)い。残りが心もとなく、量を減らしてだましだまし過ごしておりましたゆえ、ほれ! ご覧のように手に震えが……」


「ちょっと! 人聞きの悪い事を言わないで下さい。変なクスリみたいに聞こえるじゃないですか! アレは単なる混合調味料ですからね?」


道なき山野を苦も無く踏破し、街道など必要とせずに直線距離で移動できる彼は、情報を伝達する伝令として得難い資質を持っていた。

しかし、静子以外の誰もが彼を用いようとしない理由は、その風貌と性格に能力を上回る難があるためだ。


「嗚呼! まこと天竺の香り。一嗅ぎするごとに悟りに近づく気すらする。再び仏道に帰依するべきか……悩ましい」


「かなりの量を渡してあったと思うのですが、何に使ったんですか?」


「冬眠明けの熊に出くわしましてな。向こうも空腹で気が立っておったのでしょう、襲われたゆえ仕方なく(あや)め申した。山の掟に従えば、殺めたからには食わねばなりませぬ。しかし、唐突に襲われたが故に(くび)り殺してしまい、全身の肉に血が回りこれが食えたものではない。そこで静子様より頂戴した、例の粉を使って鍋に仕立てて供養致しました」


「熊を素手で絞め殺したって聞こえたのですが……まあ、それは良いとして美味しかったのですか?」


「血生臭くて食えぬと思われた肉も、例の粉に掛かれば野趣(やしゅ)あふれる風味と化し、拙僧の血肉となりもうした。毛皮や肝も有難く頂戴し、路銀にさせて頂きもうした。自然とは実に懐が深い!」


「僧籍に戻れば、肉食は出来なくなるんですけどね……」


仏道から山岳信仰や仏教、密教などが習合した修験道へ身を移した彼は、進んで殺生をすることはしないが、生臭(なまぐさ)を断つという考えは持っていなかった。


精進潔斎(しょうじんけっさい)はなるほど尊き教えですが、山を前にしては肉も野菜も何ら変わりありませぬ。どちらもその命を奪った以上は、美味しく頂くのが拙僧なりの供養の流儀。拙僧は己を生かして下さる全てに感謝を捧げ、その(かて)をいただくのみ」


「そろそろ昼餉の時間だけれど、ご一緒されますか? 猪肉の陶板焼きなんですけど……」


「ふむ、この香りは味噌の焦げる匂い。既に奪った命は戻りませぬゆえ、ありがたく頂戴いたしましょう! 猪も拙僧の血肉となり、山へと帰れることを喜びましょうぞ」


「……なんだか詭弁(きべん)に聞こえるけど、じゃあ用意させるよ」


「山よ神仏よ、そして静子様! 今日も皆様のお陰で飯が美味い!」


天狗というより破戒僧なのでは? と思わないでもない静子だが、戒律を屁とも思っていない相手にそれを言っても詮無きことと苦笑する。


「時に静子様、何やらお悩みのご様子」


「……そんなに判りやすいですか?」


「少し目端の利く者ならば気付きましょう。それほどに御身(おんみ)は慕われておいでなのです。無論、拙僧もその一人を自負して居り申す」


「ありがとう。でも、これは自分で片付けないといけないから」


「静子様、御仏の教えに(すが)りたくば拙僧が手ほどき致しましょう。しかし、仏の言葉は聞くだけでは意味がござらぬ。教えを聞いた上で『考えて対峙(たいじ)する』ことが肝要」


「……そうだね」


「仏陀の教えにこうあります。己を変えられるのは己のみ、自らが変わろうと一歩を踏み出すのが大事だと。静子様をお助けしようと考える者は多くおります。しかし、貴女自身がその手を取らぬ限り、彼らは貴女を大切に思うが故に踏み込んでこないでしょう」


「そうだね。こうしている間にも、ずっと皆に助けて貰っているんだものね。彼らの手を取って、恩に報いなければ申し訳ない」


「考え、悩んで出した答えこそが貴女自身の(いしづえ)になりましょう。先にも申しましたが、報告は事務方に預けておりますので、説教じみた差し出口はここまでといたします」


割と良い事を口にしていた華嶺行者だが、牛の鳴き声のような腹の虫が全てを台無しにした。


「ふふっ。お腹は正直ですよね。いくらか気分が軽くなりました。先に昼餉を取っていて下さい」


「誠にお恥ずかしながら、拙僧が悟りの境地に至るのはまだ遠いようです」


一度体を折るようにして深々と頭を下げると、彼はその巨体に見合わぬ身のこなしで音もなく部屋から立ち去った。

満面の笑みを浮かべて(くりや)へと向かう様は、むしろ清々しくさえあり小さな笑みを浮かべていた静子だが、小姓が持ってきた報告書を読み進むにつれて表情が引き締まった。


「遂に終わる時が来たのね」


本願寺を掌握した頼廉が、遂に織田家との和睦の為に動き出した。華嶺行者の持ち込んだ報告書には、そう書かれていた。







本願寺が織田家に対して和睦を申し入れる。これが意味することは唯一つ。戦国時代の一大勢力であった本願寺が信長に膝を屈すると言う事だ。

今までのような互いの態勢を整えるための一時的な和睦ではなく、自主独立を捨てて完全に織田家の庇護下に入る事を約束する和睦であった。

クーデター勃発から数ヶ月を経て、頼廉は年寄衆などの本願寺首脳部を掌握し、朝廷に対して織田家との仲立ちを依頼した。

これに対して朝廷は勅使を遣わせ、数度のやり取りを経て、この度朝廷が正式に和睦を取り持つことが決まった。


しかし、和睦が成立することイコール石山本願寺からの本願寺勢の退去とはならない。

本願寺側が申し入れた以上、信長が掲げている石山本願寺の明け渡しは確実に実行されなくてはならない。

細々とした条件については和議の場で話し合われるが、主題となるのは教主であった顕如と、彼の子息である教如の去就についてであろう。


「此度の和議には朝廷側として義父上(ちちうえ)近衛(このえ)前久(さきひさ)のこと)が立たれます。私も関係者として声が掛かっているので、当分は本願寺和睦の件について掛かり切りになります。長くても一月は掛からないと思っていますが。その間、才蔵さんは私と一緒に行動して貰います。他は第二次東国征伐の準備をしておいてね」


本願寺との和睦が公になると、静子は側近たちを招集した。いつもは安土に詰めている高虎も、この時ばかりは帰参していた。

間もなく安土城が落成し、近くお役御免となる可能性が高い。土木建築や築城に於いて一目置かれるようになってはいるが、武士としては戦で功を立てたいという心理があった。

静子が手柄を立てる機会を与えられるよう配慮すると約束してくれてはいても、口を開けて餌が落ちてくるのを待っているだけで済ませられるような性分でもない。


「使わないで済めば良いんだけど、一応足満おじさんは砲の準備もしておいて」


「教如か」


足満の言葉に静子は頷いた。これまで強硬に織田への抗戦を主張していた教如が、今回の和睦をすんなり受け入れるとは考え難い。

彼の一派には淡路や雑賀衆など、本願寺と織田家が対立しているからこそ生活が成り立っている者もいる。

本願寺が和睦などしようものなら、己の食い扶持が無くなってしまうため、何としてでも和睦を妨げようとする可能性が高い。

そうした状況で旗頭となるのは、強硬派の首魁(しゅかい)でもある教如だろう。


事実、史実に於いても顕如が石山本願寺を放棄した際、彼は顕如の退去命令を無視して本願寺を占拠した。

その後、本願寺は時の為政者である秀吉や家康に利用され続け、最終的に家康が東西本願寺体制を確立させるまで動乱の時を過ごす。


(東西本願寺体制が出来上がる際に、彼らが自分の正当性を喧伝するために色々と話を盛った結果、まるで上様が悪行を為したように広めてそれが定着したんだよね。これだけは避けないといけないから、顕如の後継者はこちらで指定しないと……)


武装勢力としての本願寺が潰えるのであれば、信長も静子もそれほど介入する気が無かった。

現時点ですら何かと悪評が絶えない信長に、やってもない悪行を押し付けられては堪らない。


「教如から見れば、主権を簒奪した頼廉の言葉なんかには従わないでしょうね。実の父である顕如の言葉にすら従わなかったんだから。何とかして実権を握り返し、本願寺に籠城しての徹底抗戦を唱えるでしょう。最早動かせる兵も、彼らを食わせる銭も米も無いのに……」


「抵抗するならば、本願寺と運命を共にさせれば良い。しないのならば放置で良かろう。正直、最早本願寺に抵抗するような余力はないだろう」


長可の言うことにも一理ある。近頃の信長はいくさを仕掛けていないように見えるが、実際はそうではない。

武力衝突という判り易いいくさをしていないだけであり、本願寺に対して経済戦争と言う名のいくさをずっと仕掛け続けていたのだ。

武力衝突を待たずして、経済的に抑え込まれて民に充分飯を食わせられなくなった本願寺に勝ち目は無かった。

頼廉はその現実を理解したからこそ、まだ恰好が付く間に和睦という形で降伏することを信長に申し出た。


「余力がある無いは別にして、今の教如は破れかぶれになっている。こういう手合いは一番厄介だよ。高すぎる自尊心を捨てられないがために、現状を正常に認識できず、絶対に勝てない相手にも噛みつく可能性がある。『窮鼠(きゅうそ)猫を噛む』の言葉があるように、小物は追い詰めすぎると危ないよ」


「誰を噛むつもりか知らないが、こっちに向かってくるなら叩き潰すだけさ」


「……まあ、それしかないかな。誰彼構わず噛みつく危険分子なんて、誰にとっても不利益しか生まないからね。でも、頼廉としては嫡子である教如を生かしたいだろうね。これは落としどころが難しいかもしれない」


「まあ、その辺りは織田の殿様が決める事だ。ここで静っちが悩んだところでしょうがない」


考えを巡らせているところへ慶次が横から口を挟んできた。

実際のところ、彼の言うように講和条件などの一切合切について決定権を持っているのは信長である。静子が進言しても、信長が否と言えばお終いだ。


「……そうだね。これ以上は私が気を揉んでも仕方ない。他に話がないなら、これで軍議を解散します」


参加者全員を見やりながら静子が声をかけた。それに対して誰もが沈黙を以て応えたため、軍議はそれで終わりとなった。

それぞれに部隊を抱える慶次や長可は部屋を後にしたが、静子の護衛である才蔵だけは付き従っている。


(頼廉と上様が裏で繋がっているとすると、上様以外で本願寺に働きかけている勢力が見えてくる。今は確たる証拠もないけれど、十中八九武田や北条の背後に彼がいる。やっぱり史実通り、大人しくするつもりはないようだね)


武田が北条と同盟を組むのは、今の東国状況を考えれば当然の選択肢である。一方の北条は、落ち目であり弱っている武田と同盟を結ぶ意味合いが薄い。

しかし、現実には北条と武田は手を結び、織田家の東国征伐に対して牙を剥いた。不可解なのは北条だけではない。

越後の上杉家に巣食う親北条派が、織田家の東国征伐に合わせて動く素振りを見せた。

今まではそれぞれが勝手に動いていたのに、明らかに誰かが旗を振って歩調を合わせている様子が窺える。


ここまで見えれば話は早い。

上杉に織田との同盟を破棄させるよう画策し、敗走した武田と利害が衝突する北条とを同盟で結び、渋る毛利を本願寺の援助に駆り出した。

第三次織田包囲網を作り上げようと血道を上げる人物。


(足利義昭、まだ将軍の座を諦めきれないのか)


ことがここに至っても己が野心を諦めきれず、残された政治力を駆使して信長に牙を立てんとする人物の名を、静子は心の中で呟いていた。







軍議が大した進展もなく終わった後、足満は静子邸の中庭にある四阿(あずまや)に立ち、春の訪れを予感させる池周辺を眺めていた。

さも風景を楽しんでいるように装っているが、彼の内心は怒りで煮えたぎっていた。


(八つ裂きにしたとて、まだ足らぬわ!)


無意識に指先が白くなる程に握りしめていた拳を開き、足満は静かに呼気を吐き出した。

彼がここまで怒りをあらわにする原因は言うまでもない。何者かが静子を害そうとしたという情報を掴んだからだ。

ことは昨年にまで遡る。ある日、京にほど近い場所に店を構える旅籠(はたご)の主人から足満の許へと一報が齎された。

主人の旅籠はそれなりの宿泊料を取っているにも関わらず、連泊を申し込んできた宿泊客の身なりや人相が悪く、それとなく様子を窺うように店の者に指示していた。

料理を運んでいた下女が、廊下で『静子』という名を男達が何度となく口にする様子を聞きつけ、主人に報告したという経緯だ。

主要な街道筋で宿を営む経営者には、全て足満が鼻薬を嗅がせているため、その情報は程なく足満の許へと届けられることになった。

疑わしいというだけで足満には十分であり、即座に手下を動員して問題の宿泊客の全員を(さら)った。

足満は一切の躊躇(ちゅうちょ)なく拷問を行い、首謀者に洗いざらいを話させた。

彼らの口から飛び出してきたのは、あろうことか静子の暗殺計画であり、他にもならず者同士で連絡を取り合い同時多発的に仕掛ける計画だった。

我が身可愛さにここまで語った首謀者が、その後どういう運命を辿ったかは敢えて語るまい。


計画を知った足満は、烈火の如き勢いで企てに加担した連中を抹殺していった。同時にならず者共に情報や金を提供し、静子の暗殺を試みた黒幕を調べ上げた。

何人もの人を経由させ、真の黒幕が誰なのか掴ませないようにしていた様子だが、足満はその全てを芋づる式に締め上げて黒幕に辿り着いた。


(義昭め! 織田に敵意を持ち織田包囲網を作らんとするのは構わぬ。しかし静子を直接狙うとなれば話は別だ。その身を八つ裂きにして、(からす)に食わせても尚飽き足らぬ)


義昭からすれば、己が最も頼みとしていた武田信玄の西上作戦を阻み、苦労して包囲網を作り上げて織田を締め付けても、織田家はやせ細るどころか小動(こゆるぎ)もしない体制を作り上げた静子の存在は、邪魔どころか怨敵と呼ぶに相応しい。

義昭自身が毛利家の預かりとなって以降も、事あるごとに織田の勢いを(くじ)く策を練っては実行していた。

しかし、そのどれもが不発もしくは、仕掛けたのだが何ら痛痒(つうよう)を与える事が出来ないでいた。

義昭からすれば『将を射んとする者はまず馬を射よ』の馬が静子であった。

しかし、信長自身が静子の重要性を知悉しているだけに彼女の守りは堅固であった。

まず彼女の領地自体が、何重にも周囲を守られた織田勢力の中心部に位置しており、外部の勢力がおいそれと近づくことすら難しい。

更に静子本人が『君子危うきに近寄らず』を徹底しており、余程の事が無い限りは守りの内側から出てこない。

そんな中で、唯一静子の警備が薄くなるチャンスが訪れる。正月の挨拶回りで、遅れて安土へ移動するとの情報を掴んだのだ。

義昭からすれば千載一遇のチャンスであった。


しかし問題が持ち上がる。静子襲撃の実行犯の選定が上手くいかなかった。

義昭としては静子を襲撃するのは、彼女の統治に不満を持つ静子領内の破落戸(ごろつき)などが望ましい。

だが静子の統治下にある民は、静子に対して不満を抱いておらず、また不満や要望を上申するための経路が整備されていた。

従って静子領内では、所謂『ならず者』が殆ど存在しない。

全員が不満を持たない統治などはあり得ないし、静子に反骨心を抱く者は当然発生するのだが、それぞれを受け入れる枠組みが用意されていた。

乱暴者や素行の悪い者は、兵隊の適性有りと言う事で予備役兵に組み込まれ、彼らにとって判り易い力の(ことわり)が支配する軍隊という秩序に組み込まれる。

そもそも人間というものは衣食住が満たされ、毎日やることがあり、それに向かって努力して報われていれば案外悪さ等しないものである。

勿論、中には札付きの悪や、どうしようもない程の屑という者も存在する。それらはどうなるのか? 共同体から排除される。

排除された彼らがどうなったのかを知るものは、汚れ仕事を担う者しか知らない。


義昭が考えた静子暗殺計画は良く練られてはいたが、詰めが甘かったため潰された。

それを知った義昭は怒り心頭になり、周囲に当たり散らしていたのだが、彼は虎の尾を踏んだことに気付いていなかった。


「軽い意趣返しをしてやったが、一向に腹の虫が治まらぬ」


足満は義昭に対して挨拶代わりの贈り物をしていた。それは彼の朝餉に静子襲撃計画に加担した者の体の一部を供することであった。

更には彼の枕元に、暗殺計画を企てたことを把握しており、必ずや自分の行いを後悔させてやるという熱意溢れる文が届いていた。

毛利側も義昭が害されては外聞が悪いため警護を厳重にするのだが、それを嘲笑うかのように連日義昭への熱烈な贈り物が途絶えることはなかった。


「自分が何をしでかしたか理解せぬまま殺しては意味がない。自分がしでかした事の重さを理解するまで突き付け、殺してくれと哀願するまで追い詰めねばな」


元より兄弟であるという身内意識は希薄だったが、静子に害を為そうとした時点でどんな手を使ってでも葬るべき敵となった。

一度スイッチが入ってしまえば静子以外に彼を止められる人物はいない。たとえ信長が掣肘(せいちゅう)しようとしたとて己の命を懸けて押し通す。それが足満という男であった。


「ふっ、奴の事はひとまず後だ。今は静子の命を果たさねばならん」


砲の準備には時間がかかる。一発の砲弾を発射するのに要する火薬の量だけを見ても、新式銃などとは比べ物にならない。

しかし、それほどの資源を費やしてでも砲を使用する理由があった。それは判り易い力の象徴だからだ。

敵単体を攻撃するだけの銃と異なり、曲射弾道で撃ち込まれ周囲一帯を無差別に攻撃する砲では被害の出かたに雲泥の差がある。

どれ程堅牢な城壁に守られた要塞に籠もろうとも、天より落ちてくる破壊の雨には対抗する術すらないという事実は、確実に敵の心を挫くだろう。

降伏して生を拾うか、無意味に牙を剥いた挙句に死体すら残らぬ殺戮を受けるかと聞かれて、後者を選択する狂人はそうはいない。


「恐らく次の東国征伐では静子に『余裕を見せつけろ』と織田が命じるだろう」


信玄との三方ヶ原の戦いでは、自軍の総力を挙げて防衛戦(・・・)に勝利した。

世間では違った評価が為されているようだが、静子の中では相手を自分のホームグランドに誘い込み、事前に調査した地の利を生かした防衛を成功させたと理解している。

しかし、今回はその逆となりこちらが攻め手となるのだ。戦場は選べずとも、攻め時も攻め方も自分達が思うようにできるというのは大きい。

更に以前と比較しても、長足の工業化を成し遂げており、軍備の増強は計り知れない。

直近のいくさで敗北を喫しているだけに、次回の征伐では圧倒的な戦果を世に見せつける必要があった。


静子が何を成し遂げるか、今から楽しみだと足満は思った。


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― 新着の感想 ―
[良い点] はじめまして。 コミカライズの方で作品を知り、先日より1話から原作のこちらを読ませて頂いているものです。 毎話とても面白く拝読しております。 特に動物達の出て来るエピソードが毎回好きで、…
[一言] 必殺仕事人、闇落ち元公方のあっににあれだけ脅されてもまだお手紙将軍諦めないとはある意味兄弟w図太すぎるw史実生き延びて太閤に使えて京に戻ったんだから十分化け物
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