千五百七十五年 十二月中旬
恐る恐る静子が背後を振り返ると、艶然とした笑みを浮かべる濃姫がいた。
彼女は静子と目線が合うと、やけにわざとらしく顔を伏せ、さも哀しそうに言葉を紡ぐ。
「日ノ本で一番という誉れは、殿にこそ相応しい。しかし、殿は天下の大事にて尾張を空けておられ都合がつかぬ。そこで克明な絵姿が得られるという『かめら』で妾を写し、お忙しい殿にせめて妾の似姿を持っていて頂きたいという、いじましい女心を静子は解さぬと見える。妾は静子を我が子以上に可愛がってきたというのに、ほんに嘆かわしいこと……」
濃姫が明らかな嘘泣きを決め込むと、背後に控えていた侍女も「ああ、なんとおいたわしい」と慰める仕草を見せる。
唐突に始まった茶番と、自分に向けられる非難がましい視線に静子はたまらず弁解を始めた。
「決して濃姫様を軽んじていた訳ではありません。虎太郎も希望者が居なければ自分がと申しておりましたし、みつおさん一家は順番に拘られないと思います。ですが、本当に宜しいのですか?」
「ほほほ、そなたがくれた姿見と毎日向かい合っている妾にそれを聞くのかえ? あれほどはっきりと映る鏡を使うようになって随分と経つが、妾が臥せったことなど一度としてない。つまりは迷信の類よの」
ころころとさもおかし気に笑う濃姫を見て、静子はじっとりとした視線を浴びせる。
「さきの小芝居はもう宜しいのですか? 随分と息の合ったご様子でしたが……」
「よいよい。何せ日ノ本一番を快く譲ってくれるのじゃろう? ならば、妾も懐の深いところを示さねばなるまい? それでは参ろうか、既に支度は済ませておるゆえ、どうせなら美しい絵姿を殿に届けねばの」
上機嫌で滑るように歩む濃姫の背を見送り、静子はこっそり溜め息を吐いた。
現場に居合わせたみつおも静子と目が合うと苦笑し、一つ頷いて順番を譲ってくれることとなった。
虎太郎にも事情を話すと、元より希望者が居なければ自分がと申し出たのであり、日ノ本一を逃したとは言え異人で一番でさえあれば良いと了承してくれた。
こうして執り行われた世界初の人物撮影は、遠景に雪山を望み、近景に薄紅に色付く山茶花に手を添えてほほ笑む濃姫の姿という構図が選ばれた。
急遽撮影班に抜擢されたみつおが即席のレフ板を掲げ、陰影にまで気を配った写真が撮られ、信長に贈るに相応しい一枚に仕上がった。
すぐに現像が行われると、美しくプリント出来たものに絵師が色を付け、疑似的にカラー写真に仕立てたものを額縁に収め、濃姫の宣言通り安土におわす信長の許へと届けられることとなった。
続いて敢えて和装で挑んだ虎太郎が撮影され、最後に仲睦まじい様子のみつお一家が写真に収まった。
「ところで濃姫様、写真の元となる乾板はどうされますか? これがあれば同じ写真が何枚も作れるのですが、上様以外の手に渡るのは些か都合が悪いかと……」
「ならば静子の手で保管しておくれ。妾の許には殿に送ったものと対となる一枚があれば充分。静子のことゆえ、それも資料として残したいのであろう?」
「お気遣い痛み入ります。決して外部に流出しないよう、厳重に保管致します」
これら一連の撮影に用いられた乾板は、世界初の人物撮影に使用された機材として、後の世に存在のみが伝えられることとなる。
尾張での騒動から半月ほどが過ぎ、信長の御座所たる安土では写真に端を発した別の問題が発生していた。
「お濃めが日ノ本一を掻っ攫うのはまだ許せる。しかし、わしの虎次郎(信長の愛猫)を差し置いて、野良猫が先に写真になるなど我慢がならぬ! 静子をここに呼べ! わしと虎次郎が共に収まった写真を是が非でも撮らねばならぬ!」
「お言葉ですが上様の写真が出回れば、御身を危険に曝すことになりましょう。私が蛍雪(光秀の愛猫)と共に上様の代わりをお務め仕る!」
「何を仰いますか! 明智殿とて丹波攻めの御大将、万が一があってはなりませぬ、ここは某が令月(細川の愛猫)と……」
「いやいや、各々方はいくさ場に立たれる身。似姿が残れば障りがありましょう、帝も写真には並々ならぬ興味を寄せられておられるご様子。まずは私が開耶(前久の愛猫)と写りましょうぞ」
安土にある信長の仮御殿では、いつになく激した様子の信長が声を張り上げていた。
それを諫めるように明智光秀が進言し、更に居合わせた細川藤孝が我こそはと名乗りを上げる。
とどめとばかりに近衛前久が自薦し、状況は混沌とした様相をみせつつあった。
信長以外の誰もが建前を述べているが、全員の心は一致していた。安全が担保されるのなら、自分こそが一番になりたいと願うのは野心家の性であった。
議論に決着がつかないまま、兎にも角にも静子と写真技術者を呼び戻すことだけが決まり、尾張へと早馬が仕立てられた。
決死の形相を浮かべた使者より文を受け取った静子は、余りにも余りな用件に死んだ魚のように虚ろな目で遠くを見やり、猫の写真なんか送るんじゃなかったと後悔していた。
結論として、それぞれが撮影された乾板を各自で保管し、転写された写真も全て各自が管理することで決着した。
遠路はるばる出向いてきた静子達は、休息も取れぬまま撮影に連れまわされた。
信長は『愛猫と共に写った日ノ本初の国人』となり、前久は『愛猫と共に写った日ノ本初の関白』、光秀は『同じく武将』となり、藤孝は『同文化人』となった。
皆がそれぞれにほくほくとした表情で写真をしまい込む姿を見た静子は、男は幾つになっても一番が好きなんだなあと少し微笑ましく思っていた。
その頃、堺を目前に控えた街道筋では長可が陣を張っていた。
ここまで出向く道中も相変わらずの振る舞いは続き、昼日中から酒を呑んだ挙句に刀を抜いて暴れる酔漢を半殺しにし、不運にも長可の嗅覚に察知された夜盗集団を壊滅させ、違法な関所を焼き払いつつの道行であった。
自らの存在を一切隠そうとしていないため、彼ら一行の接近は早い段階から堺の商人たちの知るところとなり、長可の目的となった豪商は既に生きた心地がしない日々が続いていた。
「さて、お前たち商人風の旅人を片っ端から連れてこい。堺に出入りする全ての商人に、俺の目当ての人物と目的を教えてやれ」
長可の命令を受けた配下達は、彼の指令を忠実にこなした。即ち商人だけを足止めする簡易関所が出来上がった。
その日のうちに、信長に反抗した豪商の許へ苦情が殺到し、彼は長可の狼藉を止めるべく使者を遣わした。
豪商の無法をやめるようにとの要請に対して、長可の返答は「上様の命に従え、従うまではここに留まる」であった。
豪商の使者はあれこれと交渉を試みたが、長可から一切の譲歩を引き出せず、すごすごと堺へと戻っていった。
既に第一の目標を達した長可達は、商人たちに対する検問をやめていた。
堺に出入りする多くの人間に対して、自分達の目的と標的とする人物の周知が出来たため、これ以上は必要ないとの判断からであった。
豪商からすれば返答をするまでの猶予としか思えず、いつ再開されて再び苦情が殺到するか気が気ではなかった。
期せずして我慢比べとなった長可と豪商だが、先に焦れたのはやはりと言うか長可の方であった。
流石は信長に反抗しうる商人だけあり、針の筵に座りながらも耐えている。長可は動かない状況に見切りをつけ、次の策を練り始めた。
周囲の無関係の人々からお前のせいで迷惑していると責められれば早々に音を上げるかと踏んでいたが、そう上手くはいかなかったようだ。
堺の街中に潜り込ませている間者からの報告では他の大商人たちも明日は我が身と結託し、長可の標的である豪商を擁護するよう動いているとのこと。
しかし、それも事態が長期化するに連れ意見が分かれてきており、一枚岩とは言い難い状況になりつつあった。
そうなればしめたもので、後は消極派の背中を押してやれば亀裂は容易に広がると長可は判断した。
長可が最初に使者へ用件を伝えてから八日が経過した頃。長可の陣を訪ねてくる一行が現れた。
それはすっかり変わり果てた件の豪商であった。本人をはじめ、長可への使者を務めた番頭らしき男も髪を剃り落とし、禿頭を晒した僧侶のような恰好になっていた。
「ようこそ我が陣へ、そちらから出向いて頂けるとは色よい返事を期待できそうだ。我ら武辺者の寄り合いゆえ、大したもてなしもできぬが、それはご勘弁願いたい。さて、どのような用向きかな?」
対する長可の様子は朗らかですらあった。声をかけられた豪商はその場に跪き、禿頭を地面にこすりつけるようにして声を絞り出した。
「この度の不始末、伏してお詫び申し上げまする。全て上様の仰る通りに致します。欲に目が眩んだ私が愚かでした。この上は身代を息子に譲り、私はこの通り隠居致しますゆえ、森様より上様へご寛恕賜りますよう、お口添えを戴きたく参りました」
まるで瘧のように全身を震わせながら、豪商は必死に言葉を紡いだ。主人に倣うように皆が這いつくばるようにして長可に頭を下げていた。
「まずは面を上げられよ。我らとて鬼ではない、土地の取引が無かったことになりさえすれば某が上様へ執り成しをしようではないか。して、返答や如何に?」
土下座の姿勢から長可を見上げる豪商の顔色は死人のような土気色に染まった。孫ほどにも年の離れたこの男は、豪商たちの態度を一顧だにせず、ただ結果のみを求めていた。
進退窮まった豪商は、震える手で懐より証文を取り出すと、長可の方へと差し出した。そこには信長が問題視していた土地の取引内容が記されていた。
「このように取引相手より証文を取り戻して参りました。これ以上はどうか……どうかご勘弁を……」
長可は豪商が差し出した証文を受け取り、内容を一通り検めると鷹揚に頷いた。
「そなたの願い、しかと承った。これを見れば上様もお喜びになられよう。我らも早々に陣を畳み、上様へご報告に向かうゆえ、これにて失礼致そう。そうそう身代を譲ると申されたが、上様もそれは望んでおられぬ。これからも変わらず商いに勤しまれよ」
長可の応えを聞いた豪商は雷に打たれたかのように震え、その場にうずくまってしまった。彼は豪商に対して、言外に逃げを禁じたのだ。
信長に屈して取引を反故にし、信用を潰した豪商にとって、引退をも許されず、商売を続けさせられるのは己の恥を公言して回ることに等しかった。
豪商はこの期に及んでも尚、所詮は力自慢の乱暴者に過ぎないと長可を侮っていたのだ。彼は愚かさの代償を、屈辱に塗れた日々を送ることで贖ってゆく羽目になってしまった。
僅か一刻にも満たない会見ですっかりやつれ果てた主人を支えるようにして堺へと戻っていく一行を、長可は満足げに見送っていた。
「森様。あ奴はどうして急に態度を変えたのでしょうか? 取引を一方的に破棄する以上、少なくない損害が出るでしょうに」
「ん? ああ、確かに俺が直接動いた訳じゃないから判らんか。よし、今日は気分が良いから一つ教えてやるとしよう!」
いつになく上機嫌な長可は、嬉々として己の策の仔細を部下に語って聞かせた。
それは事情を知るものが聞けば身の毛もよだつ非情な内容であった。長可は堺に潜む間者に命じて、豪商たちの会合を探らせた。
そこで信長への反抗を支持している顔ぶれを調べ上げた。その上で長可は反抗派の商人たちの家族に目を付け、間者たちに命じて彼らの動向を探らせた。
次に長可は反抗派の商人たちへ文をしたため、彼らが信長に反抗的であることを把握し、また彼らの家族の動向をも掴んでいることを匂わせた。
会合の内容が筒抜けになっているばかりか自分の家族にまで手が及んでいるとあっては、所詮他人事である豪商に味方し続けることなど出来なかった。
彼らは互いに裏切り者を探し合い、疑心暗鬼に陥った挙句、櫛の歯が欠けるように一人、また一人と反抗派が恭順派へと転んでいった。
長可の手口は本丸である豪商本人へは一切の手出しをせず、周囲の味方をごっそりと削り取り、豪商を丸裸にすると言うものであった。
豪商は味方が次々に脅迫に屈し意見を翻すなか、己のみが無事で強情を張っているという状況に追い込まれた。
「なんというか……壮絶ですな。あ奴は針の筵など生ぬるいと思えるような生き地獄を味わったでしょう」
「まあ、こういう駆け引きみたいなことはまだるっこしくて苦手なんだがな。我慢した甲斐もあったってもんだ。迷惑料と称してかなりの金子を頂戴したことだし、尾張に戻ったらぱーっと街へ繰り出そうぜ!」
長可は豪商が迷惑料の名目で残していった木箱に腰掛け、豪快に笑って見せた。陰惨な手口とは裏腹に闊達な様子の長可を見て、部下は自分達の主人の恐ろしさを改めて思い知っていた。
堺での交渉を上首尾に終えた長可一行は、往路と同様に振る舞いながら京へと辿り着いた。
「やっと京かよ。まったく悪党ってのは何処にでも涌いて出やがるから始末が悪い」
長可は自分の事を棚上げした愚痴をこぼしながら、愛槍となった人間無骨を懐紙で拭っていた。
長可が放り捨てた懐紙には、べっとりと血脂が付着しており、誰かが槍にかかった事を如実に示していた。
「日ノ本各地から人が集まりますから、道中の護衛として雇われた牢人どもが職にあぶれて馬鹿をやらかすんでしょうな」
京は都の語源となった宮処が示すように帝の御座所であり、日ノ本の首都として国内のみならず、海外の宣教師たちにも広く認識されていた。
応仁の乱以降は著しく寂れていたが、信長の上洛以来活気を取り戻し、今や誰もが京こそが政の中心だと認知する程の賑わいをみせている。
治安が保たれ多くの人々が集まれば、必然的に商売の機会が発生する。そうなれば地方の者も一山当てようと京を目指すことになり、財産を商品に替え護衛を引き連れてやってくる。
ここまでの流れは問題ないのだが、治安の良い京に辿り着いてしまえば腕っぷしだけが自慢の護衛はお役御免となった。
自分の売り込みに長けた如才のない牢人は京から地方へと向かう商人の護衛に雇われもするが、皆がそのようにできるはずもない。
職にあぶれ手持ちの金を食いつぶした彼らは、取り締まりの厳しい京を出て、近隣の街や村々で揉め事を起こすことになる。
揉め事と言っても、酔って暴れる程度ならば可愛げもある。しかし、元より素行の悪い山賊まがいの牢人のこと。
腕っぷしを恃みに強盗へと早変わりしたり、徒党を組んで野盗に身をやつしたりしていた。
勢いづいた彼らは各地で無法を働き、老若男女を問わず無辜の人々をその手にかけていた。
「しかし、あそこまで殴らずとも……首を刎ねるだけで良かったのでは?」
「馬鹿には口で言っても判らぬからな。誰の目にも一目で判るように戒めねばならん」
長可の槍にかかったのも前述の無法者たちであった。長可が手ずから晒し首に仕上げた野盗の頭目の姿は、長可の喧嘩を見慣れている部下をして心胆寒からしめるものがあった。
何しろ騎乗したままの勢いに任せ、頭目の肩を手にした槍で貫いて地面に縫い留めると、馬から飛び降りて圧し掛かり、馬代わりに跨ると顔面を何度も殴りつけた。
長可の篭手には鋼が仕込まれており、そんな物で顔面を殴打されようものなら即座に頬骨が砕け、口から目鼻から血泡を吹いて二目とみられない面相に変貌する。
頭目が辛うじて生きているのを確認すると、長可は惨状に震え上がった残党にも襲い掛かった。頭目から槍を引き抜いて振るい、逃げ惑う残党どもの足を切り払っては殴りつけ、瞬く間に辺りは血の海へと変じた。
噂を聞きつけて京より駆けつけた治安維持警ら隊が到着する頃には、元の倍ほどにも腫れあがり、目鼻が何処にあるかすら定かではない生首が一つと、首から上が肉を捏ねて作った団子のようになった死体が数体転がっているだけであった。
勿論、彼らは対処に困った。辺りは戦場もかくやという酸鼻をきわめる有様であり、どちらが無法者か判らない状態だった。
とは言え、相手は信長のお気に入りである長可だ。下手な事を言って不興を買えば、自分達も悲惨な死体の仲間入りをするかもしれない。
治安維持の職務を果たすよう厳命されている彼らだが、ろくに長可を取り調べもせずに解散させると、現場の収拾に取り掛かるのが関の山であった。
それでも長可に対して、京に着いたら警ら隊の詰め所に出頭するよう伝えたのは見事と褒められるべきであろう。
「まあ、済んだことは良いだろう。それよりも折角の京だ、旅籠に荷物を置いたら遊びに繰り出すぞ!」
「は、はあ……」
気炎を上げる長可をしり目に、部下の一人が大丈夫かなと気を揉んでいると、彼の心配は現実のものとなった。
「勝蔵君、ちょっとそこに正座しなさい」
そこには前久に京へと招かれ、近衛邸に滞在していたところへ、長可の行状を知らされた静子の姿があった。
「お、おおう……あ、足が痺れて動かぬ」
静子に捕まり、静子の京屋敷へと連行された長可は、土間に正座させられた状態で数時間こってりと絞られた。
静子の耳に長可の所業が入ったのは、長可の自業自得であった。
素直に警ら隊の詰め所に出頭すれば大事にならずに済んだものを、横着をしたばかりに困り果てた警ら隊が静子へと相談することとなり、現在に至っている。
「勝蔵、足の痺れを気にせずとも良くなる妙薬があるぞ?」
「いや待ってくれ! 確かに首を落とせば足の痺れなぞ気にならんだろうが、それでは本末転倒だろう!」
「静子様の言いつけを理解せぬ飾りの頭なぞ、首の上に載せておかずとも良かろう?」
真顔で長可の首に槍を添える才蔵に、長可は慌てて思いとどまるよう頼みこむ。元より冗談を言わない才蔵だけに、本気で殺されるのではと長可は肝を冷やしていた。
「全く! 静子様が方々に頭を下げて回られたからこそ、貴様の沙汰はその程度で済んでおるのだ。情け深い主を得たことに感謝するのだな」
「わ、判っておる。いえ、海より深く反省致します」
反射的に抗弁しようとした長可だが、底冷えするような才蔵の視線に気づくと即座に態度を改めた。下手な事を口にしようものなら、本当に切り捨てられる可能性があった。
「反省は口ではなく、行動で示せ」
「……努力する。ところで静子の姿が見えぬが、出かけたのか?」
「身支度をしておられる。これより長谷川某とお会いなさるそうだ」
「ああ、例の」
ここで言う長谷川とは信春、後に等伯と号する男であり、静子が所蔵する舶来の美術品に触れる資格があるか否かの試験を課されていた。
今回、その結果を見せたいとの申し出があり、会見を行う運びとなっていた。
静子は課題を言い渡して日も浅く、随分と早い報告だと認識しているのだが、信春としては年内に結果を出さねばならぬと焦っていた。
いつまでと期限を切られていないとは言え、気ばかりが急いて行き詰り、これ以上時間をかけたところで今の作品より良いものが出来るとは思えなかった。
静子の支度が整うと、才蔵は馬廻衆として傍に控える。存在自体が芸事向きではなく、また叱られたばかりの長可は、これ幸いと逐電することにした。
「本日は私の為にお時間を割いて頂き、心より御礼申し上げまする」
静子は己の京屋敷にある客間に長谷川を通し、彼と向かい合って座っていた。そもそもの用件がご機嫌伺いではないため、静子の方から本題を促す。
「さて、早速私が出した課題に対する成果を見せて頂けると伺ったのですが、相違ありませんか?」
「はっ。静子様が所蔵される名品には遠く及ばずとも、私の掛け値なしの全力を振るったものをお持ち致しました。お目汚しかと存じますが、どうぞご覧下さい」
信春は一礼すると振り返り、立ち上がって己の背後に置いてあった屏風に歩み寄った。信春は屏風の背後に回り込むと、目隠しとして掛けてあった白布を取り払った。
静子の目に飛び込んできたのは花札で言うところの『松に鶴』によく似た意匠で描かれた二扇の屏風であった。尤も松は盆栽でよく見るような姿で描かれており、花札の松とは似ても似つかない。
静子が良く知る花札の図柄が定着したのは江戸時代以降とされており、偶然に似てしまったのだろうと考える。鶴にせよ松にせよ、いずれも繁栄を示す縁起物であり、それほど珍しいものではない。
「ふむ」
しかし、配色が突飛に過ぎた。屏風絵には彩色が施され、極彩色を見せる作品もあるが、信春のそれは原色が煩い程に自己主張をしており、調和を崩してしまっていた。
屏風の素地が生成り色なのに対して、鶴の白、松の黒、日の丸の赤と屏風から浮き上がって見えるほどであり、まるでモダンアート作品かのように錯覚する。
(どうしたものかな……)
静子は内心で唸っていた。余りにも奇を衒いすぎており、目新しくはあるが信春の今までの作風から大きく逸脱してしまっていた。
己が営々と作り上げてきた作風を捨て去り、全くの新天地を切り拓くというのは相当の覚悟が必要だったのだとは察するが、これでは屏風絵の良さをも殺してしまう。
ここまで踏み切るならば、いっそ屏風絵からも飛び出してキャンバスにでも描けば一幅の絵画として成立しただろう。
(やる気が妙な方向に空回りしたのかな?)
眉根を寄せて難しい顔をしたまま、ぶつぶつと何事か呟いている静子の様子を目にした信春は、気が気ではなかった。
己自身が迷走している自覚があり、行き詰まった末に苦悶しながら描き上げた作品だ。およそ静子の期待する作品には程遠いことが窺い知れた。
女だてらに刀剣を蒐集し、奇妙かつ奇天烈な代物を次々と世に出す女傑であるという静子の人物評から、少しでも彼女の気を惹こうとして明後日の方向へと駆け抜けてしまったと信春は悟り、瞑目した。
「悪くはないが、最早これは屏風絵の域を飛び出している。私は貴方が今まで脈々と描き続けてこられた延長上にある作品が見たかった」
「はっ……それでは……」
信春は己の作品が静子のお眼鏡に適わなかったと消沈する。
「私も出題の仕方が悪かったのでしょう。これのみを以て長谷川殿の実力をはかることは致しますまい。改めて課題を出し直しましょう。それに先駆けてある程度の閲覧許可を出します。それらから学び、刺激を受けた上で、長谷川殿らしい作品を期待します」
静子が放った思わぬ言葉に、信春は暫しの間反応できずにいた。
しかし、彼女の言葉の意味が理解できると、信春はその場に身を投げ出すようにして彼女へ平伏した。
「これ程の失態を見せて尚、機会を頂けるとは望外の喜び! 非才の身ではございますが、一命を賭してでも必ずやご期待にそえる品をお届け致します」
静子は我がことながら甘い事を言っているという自覚があった。しかし、自分が変に刺激をしてしまったがために、後世にまで名を残す芸術家の未来を閉ざしてしまうのは惜しいと考えた。
信春は繰り返し礼を述べ、客間から退出していった。それを見送った静子は一つ嘆息すると、自分が意気込んで色気を出した時はろくなことがないなと苦笑した。
「よし、彼も根を詰め過ぎた様子だし、少し援助をしておくかな」
静子は手を叩いて小姓を呼ぶと、信春と彼の家族に作品への対価として金子を渡すよう命じた。
静子が京屋敷に滞在しているとの噂を聞きつけた来客が連日押しかけるなか、信春との会見を終えた静子は来訪の申し込みを丁重に断り、長らく留守にしてしまった尾張へと戻ることにした。
西国方面はきな臭さが漂っているものの、静子が京に居たところで出来ることはない。恐らく年明けを前にして事態は動き、秀吉も撤退することになるだろうと予測する。
そうなれば播磨や摂津は反織田勢力に取り込まれることとなり、信長は西国征伐の足掛かりを失うこととなる。
「うーん、播磨は織田家の勢力下に置きたかったなあ。なんと言っても瀬戸内海の豊富な海産物は魅力だし、海運を牛耳るまたとない機会だったんだけどね」
悲観的な言葉とは裏腹に、静子の表情は比較的晴れやかであった。既に時代は織田へと傾き、多少天秤の傾きが戻ったところで、大きな流れは変わらない。
「しかし、羽柴様は此度の戦費が嵩んだのかな? おね様を通じて、ガラス工芸に続く新たな産物についての相談が寄せられていたし……ま、羽柴様に限った話でもないんだけど……」
秀吉と言えば目端の利く戦国武将の筆頭であるのだが、新たに産業を興すとなると勝手が違うのか、奥向きの伝手まで動員するというなりふり構わなさが見える。
近頃いくさ続きであった織田家の重鎮たちは、いずれも新たに得た領地の運営に苦心していた。
加賀を支配下に収めた柴田には、現代でも有名な山代温泉に、山中温泉、片山津温泉の存在をそれとなく伝えている。
中でも山代温泉と山中温泉は千年以上の歴史を誇る古湯であり、比較的歴史の浅い片山津温泉ですらも数百年の歴史を持つ。
既存の産業として、静子も欲した陶石が産出するほか、漆器や金箔、工芸品の数々など潜在的な地力は高い。他にも日本海側の領地特有の海産物が豊富であり、静子も漁業関連の技術者を派遣して共同開発を推し進めている。
また丹波平定の任についている明智光秀からも、産業振興についての相談が寄せられていた。
丹波と言えば、丹波栗をはじめとした山の幸に恵まれた土地であり、丹波黒豆の名で知られる黒大豆や大納言小豆など、有望な商材が目白押しだった。
光秀には土地に根付いた農産物こそが宝であり、それらを特産品として喧伝していくだけでも十分に利益が見込める事を伝えていた。
「相談料と称してかなりのお礼を貰ったけれど、私のところでお金がだぶついていても仕方がないんだよね。懐事情が苦しい羽柴様のところへ回せるようなネタは何かないかなあ?」
新たな領地に赴き、着々と地場固めを始めている柴田や、着実に支配地域を広げている光秀とは異なり、秀吉の御座所である今浜はいまひとつ振るわない。
「ガラス工芸は高級品だから即座に大きな利益が上がるわけじゃないし、難しいところだけど堺から京、越前、越後へと結ぶ街道の通過点に位置するから、いずれ資金は貯まるはずなんだけどねえ」
既に敗色濃厚であり、費やした戦費に対して得られる領地すら失うとなれば、秀吉の織田家に於ける影響力は著しく落ち込んでしまうだろう。
「あー、気が滅入るなあ。あちらを立てればこちらが立たず、これからどんどん政治が絡んだ話が舞い込んできそうだよ。自分の行く末だけを心配していられた頃の方が楽だったのかなあ?」
静子は歴史の必然として、これからいくさは終息に向かうと理解していた。種子島の登場で加速した変革は、他ならぬ静子達が生み出した新式銃や大砲の存在によって加速している。
大火力を生み出す大砲を前にしては、堅固な城とてそれほどの優位を保てなくなってしまう。今後の織田家は局地的な敗北こそすれど、大局的には天下統一に向けてひた進むことになるだろう。
(泰平の世になれば武に代わって金が物を言うようになる。金を生み出す仕組みには利権が関わり、権力があるところには必ず政治が絡んでくる)
戦乱が終息に向かうなか、時代の覇者となる織田家内では権力闘争の火種が燻っている。
いかに時代が移り変わろうとも、人は互いに争う定めなのかと嘆きたくなるが、静子が望まずとも否が応でも巻き込まれる運命が待っている。
出世を望まぬとは言え、既に静子は織田家の重鎮であり、金のなる木は静子のところに集中している以上、誰もが静子を己の陣営に引き入れようと手ぐすねを引いている状況だ。
(いっそ俗世を捨てて出家して、お寺で自給自足の生活を送る方が良いのでは?)
そんな弱音にも似た思いが頭を過るが、既にそれが許されるような立場でもない。
悩んだところで一息に解決できる魔法のような一手があるわけもなく、静子は尾張の方角で自己主張する山々の連なりを見上げて、重いため息を吐いた。