グレグルミーの砦3
幼き日の幸福
グレイルと交わした約束が、喉の小骨のように引っかかる。
アルベルティーナを振り向かせること、そしてグレイルから一本取ること。
両方果たせたとは言えないが、必要とされた。戦友という意味のパートナーに近い申し出で、夫にと求められた。
幼い日に誓った。グレイル亡き今、その約束は傍から見ればあってないものだろう。
だが、ミカエリスは諦めていない。グレイルは魔法使いとしても剣士としても、サンディス最強であった。
サンディスにこの人ありといわれた一角の人物。いるだけで周囲の国に牽制できる。
ならばミカエリスはグレイルと同じように国の盾にして鉾となり、並ぶほどの存在になりたい。将来を考えるのであれば、自分の権力や影響力がそのままアルベルティーナを守る力となる。
ミカエリスだってただ従順に出兵命令に従っているわけではない。
一部の貴族は、グレイルが消えたのをいいことに好き放題をし始めている。そこで割を食っているところに恩を売り、人脈と貸しを作って回っている。
勿論、グレグルミー伯爵家もその一つに過ぎない。
だが、メリルは諦めない。
執務室で書類と向き合えば差し入れと称して茶菓子や軽食を持ってくる。
あとで食べると言って追い出して、そのまま部下や身の回りの世話をしてくれる侍従に横流ししている。
「本当にいいんですか?」
「ああ、温かいうちに食べた方がいいだろうしな」
この前は焼き立てのパイを持ってきた。
甘いものなどなかなか食べられない下働きの少年はそばかすの浮いた顔に喜びを隠しきれない。大きな目をキラキラさせている。
ミカエリスは信用していない異性からの贈り物は恐怖心や不信感がある。受け付けないのだ。
かといって捨てるのはやや良心にひっかかるところがある。
嬉しそうに食べてくれる処分先があるのなら、胸も痛まない。
「良かったなぁ、ビーン」
「うん!」
部下の騎士がビーンの手に持った暖かいパイを見て、声をかける。
そばかすの散った顔を綻ばせて、大きく頭をぺこりと下げて退室するビーン。たたた、と嬉しそうに足音も軽やかである。
「……ご令嬢は帰ったか?」
「ええ、大分ごねましたが。軍議だっていってるんですがね」
ミカエリスは窓枠に突っ伏したくなった。
ここは砦であって婚活の場ではない。
グレグルミー辺境伯の本宅はこことは別にあるのだが、メリルは使用人たちと貴賓室の一角を占拠している。
グレグルミー辺境伯家用には家族で泊まれるほどの広さがあるが、貴賓室の方が豪奢な調度品だからだろう。
まだ高貴な来賓がないからいいものの、いつまでも居られたら困る。
態度にはなるべく出さず、つっけんどんにはならないようにはしているが執務室には機密事項もあることもあり来てほしくない。
最初は生暖かい視線で見守っていた者たちもいたが、こちらの事情も考えずあちこちフラフラ現れるメリルに苛立つ兵も出てきた。
「いやぁ、メルル嬢しつこいですねぇ。色男はつらいってやつですか」
「メリル嬢だ。最近は厨房を占拠して荒らしている報告も出ている」
「……えー、じゃああのパイって」
「兵糧の小麦とバターと砂糖。保存食の果物の甘露煮か干し肉にする予定だった肉を使ったんだろう」
僅かな冷やかしムードが一変して沈んだ。
戦場において甘味類は非常に貴重品だ。カッチカチの干し肉はともかく、鮮度の高い肉類も在庫を厳しく見極めて使っている。
まだそれなりに兵糧には余裕があるが、無計画に勝手に横から使われたらたまらない。
折角分配を考えて消費しているのに意味がなくなってしまう。
長期保存ができるからローズ商会からきたスミレや薔薇の砂糖漬けは、女性陣がたまの贅沢と少しずつ惜しみながら使っている。
ちなみにチョコレートクッキーは開けたその日に瞬殺された。試食として開けた一箱だったが、五臓六腑に染みわたると言わんばかりに噛み締める姿はちょっと異様なほどだった今後、熾烈な争奪戦が行われることは確定したといえる。
ミカエリスがいった遠征先には必ずラティッチェからの応援物資が来る。
アルベルティーナからの手紙には、戦場でも質の良い食事を摂れるようにと携帯食を作っているとあった。まだ完成していないから、その代わりにと保存が長くできる食糧が送られてくる。
ちなみに数ある物資の中でも甘露煮の類は御馳走ランキングのトップだ。
美食の女王アルベルティーナ監修の品だから不味いわけがない。
恐らくあのパイも美味しいだろう。少なくとも中身は。
だからといって食べる気になるかはまた別の話。
ミカエリスは小食でも偏食でもない。体格も良いし好き嫌いも少ない方のつもりである。甘いものも嫌いではない。でも、一番好きなパイはラティッチェ公爵邸でだされたものだ。
定番のアップルパイもそうだが、ミートパイの方が好きだ。
ラティッチェ特製ミートパイはやや粗い挽肉に微塵切りの玉ねぎとマッシュルーム。味付けは塩と胡椒とローズマリーにナツメグ。隠し味にケチャップを一匙。
アップルパイはゴロゴロとした果肉の触感が残るカスタード入りのアップルパイと、林檎ジャムをたっぷり詰めた二種類がある。
生食には向かない酸っぱい赤林檎を惜しみなく使い、白い果肉が鮮やかな黄金色になるまで煮る。
芳醇で爽やかな香りが届くと、幼い頃は皆で覗きに行ったものだ。
おやつ時にはジュリアスの淹れた薫り高い紅茶の香りと共に、サクサクなパイ生地とシャキシャキな食感と蕩ける舌触りに舌鼓を打っていた。
生で食べるときつい林檎の酸味も火を通すと和らいで爽やかなほど良い酸味となった。
妹のジブリールも大好物で、淑女のマナーを忘れてかぶり付いていた。
口にパイの欠片を付けたジブリールの口を、ハンカチでそっと拭うアルベルティーナ。
きょとんとするジブリールに、笑みを漏らしながら少し羨ましそうなキシュタリア。
幸福な時間だった。
「……会いたい」
小さい溜息に掻き消されそうな小さな声は、誰にも聞き咎められることはなかった。
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