叡智の塔1
ヴァニア卿に会いに行こう
さて、わたくしは今どこにいるでしょうか?
正解は、叡智の塔! 魔術師の塔とも呼ばれ、王宮魔術師たちが知識や研究の研鑽を積むために建てられた施設です。これも王宮の一角ですわ。
大きな石造りの塔が一本聳え立ち、その周囲に研究棟や魔導書関連の特別な書庫、研究に必要な植物などを育てる温室などの施設が立ち並んでおります。
どれも時代を感じさせる堅牢で重厚な印象を与える石造りです。綺麗に加工した煉瓦ではなくごつごつとした岩肌を思わせる壁と、飾り気のない意匠で実用面を重視しています。
ここはサンディスの機密情報と魔法の最先端です。
少し離れていますしちょっと古めかしく……正直おんぼろ感があります。ひび割れた粗削りな石壁の隙間に蔦が蔓延っていて、半分くらい緑に覆われています。日陰の部分はすっかり苔むしております。
お庭らしきものももちょっと鬱蒼としていて、なんだか怖い雰囲気ですわ。
人を寄せ付けないと言いますか、打ち捨てられた廃墟感が漂っています。
都合をつけてくださったクリフトフ伯父様とジュリアスにもついてきてもらいました。アンナも護衛騎士たちも後ろに控えてくれていますし、万端ですわ。
なんでフォルトゥナ公爵まで来ているかは謎ですが。暇人なのかしら。
「随分と年季が入っていますわね。王宮の一部ですのに、補修や改修の工事はなさらないのかしら?」
「住んでいる者たちが建物の外観に拘るような連中じゃないからな。
そうじゃないのは貴族の腰ぎんちゃくはおべっかと社交に忙しくて、ほとんどこちらの棟にはこないからな。
実践的な魔法狂いたちは研究に夢中で、引きずり出さん限り余程の用事がない限り出てこないぞ」
「姫殿下の主治医でもあるヴァニア卿も、半分は結界魔法の貴重な保持者を観察するために往診しているようなものですからね」
ヴァニア卿は若い男性ですけど、怖くないのは女性として見られている感じが薄いからでしょう。凄く納得……
ヴァンのように露骨に色欲めいた劣情交じりの視線は怖いです。
「あの、でも先触れなしで来てしまってよろしかったでしょうか?」
「先触れなんて出したら、珍獣『結界魔法持ち(上級使用可能)の王家の瞳の保持者』としてあっという間にたかられますよ。
マニアどもの執着を甘く見ない方がいいかと」
すぐ隣にいるジュリアスがにこやかに釘を刺してきました。
その手には日光より視線を遮ることに特化してそうな大きく真ん丸なパラソル。簾のようなものがついており中にいると腰のあたりまで見えない。
アンナが持つには重すぎるのですが、護衛であっても近づかれ過ぎても怖い。結果、ジュリアスが持つ形になった。
わたくしの歩調に合わせながら隣にいるジュリアスは慣れたものだ。わたくしのペースをよくわかっている。
見慣れない場所にきょろきょろしながら時折足を止めてしまうのですが、長年従僕をやっていただけあって難なく合わせてくれる。
「重いでしょう? ごめんなさいね、公子に使用人のような真似をさせて」
「いえ、お気になさらず。それより今日は少し日差しが強いですから、余り傘の外には出ないようにお気を付け下さい」
空いているジュリアスの腕が腰を引き寄せてくる。力強さは感じるが、強引さは感じない絶妙な力加減だ。
ジュリアスが細く見えて割としっかりしているのは知っている。全力で押してもびくともしないのは既に経験済み。
しかし、こんな貴公子ムーブをどこでおぼえてきたのかしら? ジュリアスは子爵でもあるけれど、ラティッチェ邸でこんなエスコートをされたことないわ。
「メギル風邪は王宮魔術師にとっても不倶戴天だからな……いいか、今回は資料だけおいて帰るぞ。
恐らく読み漁って明後日の夕方あたりが一番弱っているはずだ。飲まず食わずで睡眠もぎりぎりまで削っているはずだから、かなり判断力も落ちている。その時を狙うぞ」
「姫殿下はお留守番ですからね。恐らく貫徹二日目でそれなりに理性も千々になっているでしょうから」
ぎゅっとさらに抱き寄せてくるジュリアスにこくりと頷く。満足そうに「よろしい」と言わんばかりに微笑を深めるジュリアス。なんだかご機嫌ね。
後ろでアンナがずっと殺意の波動に目覚めている気がするのです。冷え冷えな空気を感じます。
叡智の塔には当然ながら護衛に門番がいますが、フォルトゥナ公爵とクリフトフ伯父様は顔パス。
フォルトゥナ公爵家の当主と次期当主の来訪に、かなり驚いていた様子です。
私はジュリアスと少し後ろにいましたが、門番たちが気づいた途端にびしっと固まって可哀想なほど震えながらしどろもどろになっていました。
ちょっとかわいそうな気がしました。
「ご苦労様。先触れもなく来たのはわたくし達なのだから、どうぞお構いなく」
簾越しに話しかけるとなぜか崩れ落ちました。
熱中症? わたくしが困ってしまうと、ジュリアスが見かねたのか耳打ちをしてきた。
「叡智の塔はあまり扱い良くないのです。元老会をはじめとした貴族主義が軽んじますからね。
王族に労われることなんて、滅多にないのですよ。ましてや門番ですから」
喜びに崩れ落ちたってこと? いや、ちょっとそれは自意識過剰ではないかと思うのですが。
取りあえず元気ならいいのです。そういうことにしましょう。
古びた扉を開けると、魔石のランプがぽつ、ぽつとあるだけで真っ暗です。籠った独特の匂いもします。
「現在、塔の中は研究対象の関係で一時的に明かりを下げているんです。普段はここまで暗くないのですが……」
「明かりをつけさせろ。そうでなければランタンを持ってこい」
王宮魔術師たちの魔窟はクリフトフ伯父様の一声で、薄暗いダンジョンのような姿から一転して明るくなりました。
窓は開け放たれただけで、随分と雰囲気が変わりますのね。開放的で、重苦しいような隠蔽性が無くなりました。
先ほどの閉鎖的で薄暗い雰囲気が消えうせ、無意識に緊張していた肩の力抜ける。ああ、そうでしたわ。わたくし閉所と暗所が苦手でしたわ……うう、でもちょっとカビ? 埃臭いですわ。
恐怖心が薄れると別のところが気になってくる。小姑の様かしら……
気もそぞろだったせいか、ちょっとした床の段差に足を取られそうになる。
「足元にお気を付け下さいね」
「ええ、ありがとう」
転んでもジュリアスがあっさり支えそうな気がします。
そのとき、ぴゅっと小さな黒い鼠が走って行って足を思わず滑らせる。
「きゃ?!」
「全く掃除がなっていませんね……失礼。姫殿下、念のために口元にハンカチを」
難なく支えたジュリアスが鼠の消えた方を冷たく睥睨し吐き捨てる。そして、わたくしには柔らかな声で心配そうに覗き込んでくる。支えられたまま、そっと立ちやすいように体勢を戻されて、ハンカチを受け取った。
「え、ええ……ごめんなさい、気を付けてはいたのですが」
「いえ、あのようなものが出ては殿下が驚くのも当然かと。気分が悪くなったら仰ってください。しっかり私につかまって」
なんかジュリアスが甘いでござる。
ですが寄生虫根性が染みついたポンコツは言われた通りに腕を取らせてもらう。
ジュリアスはにこにこしている。機嫌が良さそう。解せぬ。
ちょっとずつ違和感を覚えていましたが、ようやく気付きました。今のジュリアスは使用人ではなく貴族であり公爵令息としている。
堂々とわたくしをエスコートしても大丈夫ですし、わたくしもジュリアスも世間一般的には婚約者も伴侶もいないのでそっちの方面は気にせずにいいし。
今まではその役目をキシュタリアがやってくれていたのよね……
「おい、ジュリアス。近くない――」
クリフトフ伯父様が苦々し気に何か言いかけた時、廊下の奥から蝙蝠が飛んできました。
何故か一直線にわたくしに来て、思わず立ちすくんでいたところをジュリアスが片手で払い除ける。叩かれた蝙蝠はびっくりして狂ったようにべちべちと壁に当たりながら窓の外に出て行った。
ジュリアスは手袋を変えてから、わたくしのさして乱れていない髪を直します。
「ジュリアス、手は痛くない?」
「問題ありません。少し当たっただけですし、小型の蝙蝠でしたから。お怪我はありませんね?」
「ええ、ありがとう」
「どういたしまして。ところで、義兄上。何か言いかけていたようですが?」
何だがクリフ伯父様のお顔が非常に複雑そうに歪んでいる。
ですが、ややあって感情を飲み下した伯父様は恨みがまし気な目でジュリアスをちょっとねめつけたもののそれ以上はしなかった。
「……姫殿下を頼んだぞ。次は何が来るか分からん」
「ええ、勿論」
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