たった一人の嘆き
待ったシリアス始まるよーっ! はぁ‥……
どうやって離宮に戻ったかは覚えてない。
気づいたら、ベッドに沈んでいました。
アンナやベラが一生懸命声をかけてきた気がするけれど、とりあえずはマクシミリアン侯爵宛の招待状を書かなくてはいけないということで頭がいっぱいだったのです。
契約書を突き付けられていた時はなんとか奮い立たせていたけれど、今は後悔と恐怖に震えていた。
お父様があんな卑劣な者の手で傷つけられるなんて耐えられない。
死んでしまった体にさらに鞭を打つような辱めを受けさせることなんて許せない――あの男と契約を結ぶことは本意ではない。
悔しくて、怖くて、情けなくて――そして腹が立った。
わたくしが図書館に最近通い詰めていたのが漏れていた。そして、あの男はそれを嗅ぎ付けていたのでしょう。離宮にこもっているわたくしには手出しできないから、図書館の関係者を抱き込んだ可能性が高い。
こんなところにまで役人の腐敗が蔓延っているなんて、本当にこの国はおかしい。
わたくしがサンディスとラティッチェに深く関わる人間であり、ラティッチェではキシュタリアに従わない分家の存在は格好の噂だと聞いていた。
まさか、ここまで悪辣な手を使ってくるなんて……人間が腐っているにも程がある。キシュタリアを下賤だと扱き下ろすあの男の性根こそが最も卑しい。
お父様が居なくなったことにより、一層タガが外れているのかもしれません。
(……でも、お父様を助けられるのは私だけだわ。わたくしだけなのよ)
だから、あの気に食わない男と約束もある程度は飲まなくてはいけない。
少なくとも、あの男は現在ラティッチェの関係者の中ですら、王配候補になれるか際どいようなのだ。
ヴァンという青年は突出しているほど秀でているようではないらしい。結界魔法の応用の情報収集での範囲でも、憧れられるようなタイプの令息としては話を聞いたことない。というより、話題自体少ない。
……だからこそ、わたくしを嵌めてきたのでしょうけれど。
これはキシュタリアたちに対する裏切りだ、ラティッチェに害悪を与えることとなると心が叫びます。ですが、もう一方でお父様を見捨てるのかと喚きます。
どちらにせよ、大好きな人を裏切り、選ばなければならなくなる。
液体の中で浮かぶお父様。あのような辱めを受け続けされるのは許せなかった。お父様が受けるべきものではない。あの無粋な容器は、お父様は眠るべき場所ではない。
お父様が眠るべきはラティッチェの霊廟。ラティお母様とキシュタリアが用意してくれた棺の中で、安らかにあって欲しい。
震える手でペンをとる。
引きつった汚い文字が、無様に便箋をひっかく。
あんな奴の息子を離宮やラティッチェに近づけたくない。会いたくない。死んでしまえばいいのに。
呪うような拘泥たる感情が溢れてくる。真っ黒でドロドロしたものが溜まっていく。
そんな思いとは裏腹に、何度も書き直して……ついに出来てしまった手紙。こんなもの、今すぐ窓の外に捨ててしまいたい。暖炉にくべてしまいたい。
ずきずきと痛む頭を押さえながら、緩慢な動きで椅子から立ち上がった。
アンナに渡す? それともベラ? セバスやジュリアスはきっと忙しい。
誰かに相談したいし、泣き縋ってしまいたい。そんな自分の弱さが情けない。
ドアを開けると、目の前に壁があった。
………なにかしら、これ。
ぺたりと触った後、下に大きな靴があって、足が生えていることに気づいた。それをたどっていくと、壁だと思っていたのは筋骨隆々たる壮年男性の胴体だと気づいた。上には広い肩幅やぶっとい首、もしゃもしゃの髭と傷痕が目立つ厳つい顔がある。相変わらず凶悪なほど眼光が鋭い隻眼。
「………フォルトゥナ公爵、何か御用ですか」
「様子がおかしいと聞いた。何があった」
「お話できることは何もありません」
今まで人生ワーストワンに嫌いな人に輝いていた熊公爵ですが、今は別の分家の侯爵が塗り替えております。
なにも話せることはないのです。何も、話せないのです。
「……何か、できることはあるか? して欲しいことは――」
「この手紙をマクシミリアン侯爵へ」
「……これは?」
「不幸の手紙ですわ……わたくしにとっては、どんなものより、なによりもっ!!」
封筒をフォルトゥナ公爵の胸に叩きつけて、わたくしは部屋に戻る。
完全に八つ当たりだ。あの熊公爵は大嫌いだけれど悪くない。ただ、あからさまに様子がおかしくなったわたくしをメイドや護衛たちから聞いたのでしょう。
心配をしているのだ、あの男は。
嫌いだけれど、だんだんわかってきた。あの男は、わたくしに嫌われていることをわかっている。だから、あの手この手で遠回しに人を用意している。わたくしが、できるだけ自由に動けるようにしてくれている。
何も言わず、わたくしのために動いている。
部屋の前にいたのも、いつものように声は掛けられないけれど様子を見に来たのでしょう。
熊公爵がわたくしの離宮をこっそり訪ねてはひっそりと帰っていくのは知っていました。
だって、部屋にぬいぐるみや花が増えるのよ。
小さな子供が好みそうな、お人形やぬいぐるみばかり。柔らかくてふわふわの、抱き心地のよさそうなものばかりを持ってくるの。
クリフ伯父さまはお花系が多いのです。生花以外にも匂い袋やアロマオイル、そして花の形のお菓子などもありました。
この差はきっと、わたくしとの関係性の浅さ。
フォルトゥナ公爵の中でアルベルティーナという孫娘は、泣き虫で怖がり。わたくしは小さな女の子なのでしょう。
一度も会ったことがないから、彼の中でアルベルティーナは成長していないのです。
五歳の時のお茶会で、漸く会えるはずだった孫娘の偶像を引きずっているのかもしれません。
事実、わたくしは結局のところ権力の使い方もろくにわからず振り回されているだけの幼女のままだ。
お父様の亡骸の前に、冷静さを失って契約してしまった。
今思えば、突っぱねればよかったのだ――偽物だといって知らぬふりをすれば、マクシミリアン侯爵はむしろ窮地に立たされたはずだ。偽物だと証明されても、本物だと証明されてもあの男にしてみればそれが明るみに出れば致命的。
(わたくしは愚かですわ……なんで、なんで……っ)
結局、お父様の前では必要な嘘すらつけずに、相手の策に嵌った。
漏れた笑いは自嘲だった。
子供扱いされるはずだ。
ふらふらと吸い寄せられるように目に映る可愛らしいぬいぐるみに手を伸ばす。それに紛れるように顔を出したチャッピー。不思議そうにこちらを見ているチャッピーに手を伸ばし、抱き上げる。
そのまま座り込んで、声を殺して涙を流す。膝に重みを感じれば、ハニーが手をついて見上げていた。じいっとこちらを見ていた。
大きな瞳に映るわたくしの顔は、憔悴と絶望の色が濃い。負け犬の顔だ。歪んだ笑みを模る。
愚かなアルベルティーナは、このまま傀儡になるしかないのだろうか。
王太女なんて大層な肩書を持っていても、分家の侯爵風情に利用されているのだから。
読んでいただきありがとうございました。