348.兄上と名乗り
ヴォルフはダリヤを王城の馬場まで送ってから、魔物討伐部隊棟に戻った。
ダリヤはこれから商業ギルドへ行き、イヴァーノと打ち合わせがあるという。
自分もまだ鍛錬の時間が残っていたので、あとは迎えの馬車のメーナに任せることとなった。
少しばかり考えたが、話は早い方がいい。
魔導部隊にいるグイード宛てで、『相談があるので、時間をとってほしい』、そう書いた手紙を王城内の配達人に頼んだ。
鍛錬が終わった夕方、『夜、別邸にて、少し遅くなるかもしれないが、必ず行く』、そう返事が来た。
そうして今、スカルファロット家の別邸の一室、温熱座卓に兄と向かい合っている。
自分の左横では、ヨナスがコーヒーを天板の上に並べていた。
ヨナスにも同席を求めたので、コーヒーも三人分である。
ミルクを入れられたそれはちょうどよい温かさで、緊張した喉を開けてくれる気がした。
「兄上、相談というか、お願いしたいことがあるのです」
「なんだね? ヴォルフの願いならできる限り叶えるよ」
本来であれば、一貴族として、ここでヨナスを養子にすることによる家の利益云々を説くべきなのだろう。
だが、願う相手は兄、そして、その護衛騎士で自分の先生。
回りくどいことはせず、まっすぐに願おうと決めた。
「ヨナス先生に、俺と同じ、『スカルファロット』を名乗らせて頂けませんか?」
「ぶはっ!」
ヨナスが派手にコーヒーを吐いた。
「ヨナス先生!」
「……ヴォ……な……を……」
よほど驚かせてしまったらしい。
げほげほと深い咳をしつつ、何か告げようとして言葉にならない。
あと、横のナフキンでコーヒーを拭いているが、到底足りそうにない。
ヴォルフは自分のナフキンも彼に渡した後、グイードに向き直る。
兄は身動きどころか瞬きもせず、その青い目で自分をじっと見つめていた。
「その……だめでしょうか。兄上……?」
やはり家や立場的に難しいのだろうか? 不安になって問うと、兄がようやく解凍した。
「いや、互いにそうなら祝福するというか、その方法もなくはないが……ヨナス、ないとは思うが……」
「げほ……いい加減にしろ……兄弟でからかうな!」
「からかってなどおりません! 俺は本気です! ヨナス先生であれば、スカルファロットを名乗るにふさわしいと心から思っております!」
「ヴォルフ、悪い冗談を引き延ばすな!」
むせ終えたヨナスに思いきり怒鳴られてしまった。
そんなにだめなことだろうか? ヨナスは子爵家出身、スカルファロット家は伯爵家、今ならば爵位は一つ違いだ。
母がイシュラナの庶民だからなんだというのだ?
ヨナスの剣の腕は高く、長く兄の護衛騎士をしていて、その心根もわかっている。
兄が最も信頼する友でもある。
「本当に冗談のつもりはありません。俺は、ヨナス先生なら、『兄』と呼んでよい方だと思っております」
「そういうことか……うん、そうだね、ヴォルフとしては、素直にまっすぐそう考えてのことだね……」
グイードがこくこくとうなずきつつ、コーヒーに追加のミルクをだばりと入れた。
表面があふれそうなそれを勢いよく喉に流し込んだ兄に、やはり了承は得られないのかと残念になる。
そして左のヨナスを見れば、彼は蛇のように温度のない目で自分を見ていた。
「ヴォルフ、さっきのお前の言葉を、俺が正しく解説してやろう……」
みしり、右肩を骨が鳴きそうなほどに強くつかまれた。
にじり寄られる形になり、近くなった錆色の目が怖い。
「お前はさっき、俺について、自分と同じ、『スカルファロットを名乗らせて頂けませんか?』、と言ったな?」
「はい、ヨナス先生に、スカルファロット姓を名乗って頂きたいと……」
「他家の者に自分と同じ家名を名乗らせて頂けませんか、と当主か上の者に願うのは、一般的に、『自分の嫁か婿として家にもらいたいから、話を進めてください』、という意味だ」
「えっ?」
「例えば、お前がダリヤ先生を嫁にもらいたいときは、『ダリヤ・ロセッティ嬢に、スカルファロットを名乗らせて頂けませんか?』と、お父上であるレナート様に願う。そうすれば、レナート様が婚姻の許しを出し、『ダリヤ・スカルファロット』とするべく、家へ迎え入れるために動いてくださるだろう」
「ええぇっ?!」
ヴォルフは大混乱でコーヒーカップを倒しかける。
だが、グイードがわかっていたかのように腕を伸ばして止めた。
ダリヤ・スカルファロット――以前より耳に馴染んで聞こえる気がする……
いや、待て、俺、そうじゃない。
同じ姓を名乗らせてほしいというのに、そんな意味合いは知らなかった。
貴族の礼儀作法の本にもなかった。アルテアにも聞いていない。
一体いつからそんなことになったのだ?
まだ混乱している自分に、兄が少し困った表情で言う。
「ヴォルフ、これに関してはもう少し頭に入れておいた方がいいね。貴族でなくとも、一族の姓を名乗らせるということは、一族に加えるということじゃないか。独身のお前がそれを言うと、養子より婚姻ととられるのが当たり前だろう? でなければ最初から『養子』という言葉を入れないと」
肩をつかんでいたヨナスが、ようやく席へ戻った。
「俺はお前の婿に所望される可能性は髪の毛の一本どころか、その億分の一もないことはわかっている。だが、お前は間もなく侯爵家の一員だ。こういったことで下手に言質を取られたらどうする? あと、爵位を持たぬ者が侯爵家に言われた場合、老若男女なく、逃げ道が果てしなく細いぐらいは覚えておけ」
「申し訳ありませんでしたーっ!!」
反射的に後ろに下がり、テーブルの天板より頭を低くして詫びた。
知識も考えもなしに誤解を招くことを言ってしまった。
「それで、ヴォルフは、ヨナスにスカルファロットの姓を名乗ってもらうのに、どういう流れを考えていたのかな?」
「兄上に頼んで、ヨナス先生を父上の養子に迎えて頂ければ、『ヨナス兄上』になると思ったのです……」
「ヴォルフが父上に先に願わなくて、本当によかったよ……しかし、『ヨナス兄上』、か……」
兄弟の会話に、ヨナスが飲みかけていたコーヒーを再度ふきかける。
さきほどとは違い、こぼれたのはほんのわずかだが、口元をごしごしと袖でぬぐっていた。
グイードはちらりとそれを眺めると、浅からぬため息をついた。
「残念だよ、ヴォルフ……」
「兄上、いえ! グイード兄様をグイード兄様として大事に思う気持ちに変わりはございません!」
けたり、悲しげだった兄がいきなり悪戯っぽく笑った。
「ありがとう、そう言ってもらえてうれしいよ。ただ、とてもいい提案だと思うが、ヨナスにはもう断られているんだ。弟になるのも、息子になるのも嫌だとね」
「面倒な養子先に入るぐらいなら、金銭を支払って適当な庶民の家から名借りする方法がある。その上で男爵となってから一人家でその名を名乗る。それで済むことだ。しかし、ヴォルフはなぜいきなりこんなことを?」
「その、本日、王城でウロス様とお会いして――」
ヴォルフは本日魔導具製作部長のウロスと会ったこと、そこで『ヨナス・スカルファロット』はどうかという話になったことを告げた。
「ウロス様にからかわれたわけか。侯爵に上がる前に、魔導具製作部長殿と親交を深めるため、お茶にでもお誘いしようかな」
「ぜひそうしてくれ、ゆっくりと」
「その、俺としては真面目な話で……」
グイードは内ポケットから六つにたたまれた紙を取り出した。
ちらりと見えた黒い文字は、魔導ランタンの灯りで赤く光ったように見えた。
「ヨナスの兄上――ハディス殿もヨナスの養子先を探している。希望は伯爵家以上、金貨五十に希望の武具をできるかぎり付けるそうだ。この条件は、私も今日知ったよ」
「家と縁を切ることはすでに伝えているが……」
ヨナスも初めて知ったらしい。眉間に深く皺を寄せた。
「ハディス殿は、ヨナスを私の相談役にさせたいのかもしれないね」
「格のある貴族家で、魔付きを受け入れる家はまずない。それに、どこぞに養子に入れたとして、実家に便宜を図るつもりはない。兄とてそれはわかっているはずだ」
「それでもこうやって動いているということは、誰かに『利』があるのだろう。我々が見えないだけでね」
誰かがどこかで糸は引いている。
けれど、ヨナスにも兄にもまだ見えないらしい。
そんな糸をヴォルフがわかるわけもなく、ただ己の浅さを残念に思う。
「この際だ。ヨナス、真面目にスカルファロット家の一員になることを考えないかい? 当主継承権は出せないが、父に願えばおそらく通る」
「お断りだ。俺はお前の護衛であって、守られる弟になどならん」
実際に兄に守られ、教えられてばかりのヴォルフには、少しばかり耳に痛い。
「私はともかく、ヴォルフに『ヨナス兄上』と呼ばれるんだよ。なかなかいいじゃないか」
「ほう……『グイード兄上!』――、『父上!』――これもよい響きだと?」
情感をこめきったヨナスの二度の呼びかけに、グイードが片眉を上げる。
だが、流石、兄である。その優雅な笑みを崩さなかった。
「……うん、悪くはないんじゃないかな」
ヴォルフは奥歯を噛みしめ、掛け毛布の下、太股の肉を指で捻って耐える。
しかし、笑い声は殺せても、肩の震えが止めきれぬ。
「ヨナスなら、かわいい弟として迎えるよ。父に断られたら私の子としてもいい」
「ヴォルフ、場合によっては、お前は『ヴォルフ叔父上』になるわけだが?」
ようやく耐えていたところへ、いきなり話が飛んできた。
ヨナスに『ヴォルフ叔父上』と呼ばれるのは、とても違和感が強い。おかげで肩の震えも止まった。
そして真面目に考える。
ヨナスが兄の養子となった場合、グローリアとは年の離れた兄妹という形になる。
「そうなったときは、俺ではなくグローリアから、『ヨナスお兄様』と呼ばれるわけですね。グローリアは、いい兄ができたと大喜びしそうです」
笑顔で言うと、なぜか二人共に沈黙された。
その後、先に口を開いたのはヨナスだった。
「――なるほど。そうなると俺は血のつながりなしに、『グローリア』と呼び捨てにできる、最初の男になるわけか」
ヨナスのイントネーションが大変におかしい。
「……ヨナス、やはり父上の養子になってはどうだろう? 私はかわいい弟の正しい教育に尽力するよ」
グイードがその青の目を一線にして笑み、テーブルの上の両手をきっちり組んだ。
きらきらと周囲が光り出したように見えるのは、きっと目の錯覚だ。
「お断りだ。お前の養子なら万分の一は考えてもいいぞ」
ヨナスの赤い口元はきれいなV字に、右目の瞳孔は見事に縦となった。
温熱座卓の中にまとわりつくように感じるのはこぼれた魔力か、いや、きっと足の痺れだ。
部屋が急激に冷えてきたのは、今が冬の夜だからにちがいない。
しかし、兄も先生も、いろいろとまずそうなことだけはわかる。
とりあえず、この部屋にこのままいるのは――そう考えてヴォルフは思い付く。
身体を動かして気分転換をすれば、関係改善につながるかもしれない。
「あ、兄上、ヨナス先生! せっかくですので鍛錬を、鍛錬をしに屋敷の裏へ行きましょう!」
「……そうだね」
「……そうだな」
この夜、スカルファロット家別邸裏では、過去最高の高さの火柱が上がった。
(※本邸では奥様が玄関ホールで待機中)