325.廊下の副会長
イヴァーノはミトナと共に廊下に出た。
扉を閉めると、部屋の中の音は聞こえない。
ハルダードがダリヤにどうこうという心配はないだろうが、人払いは予想外で気にかかる。
「メルカダンテ様、ご心配なく。会長は、ご子息であるヨナス様のことをお話しなさっておられます」
「そうでしたか。当商会は、ヨナス先生に大変お世話になっております」
「ヨナス様はスカルファロット家武具工房長としても、魔物討伐部隊相談役としても、ロセッティ商会様とは縁が深くなったようで――いずれは商いの道へ進まれるのでしょうか?」
意外な問いかけをされたが、それはないと言いきれる。
「縁が深いのはありがたいことですが、ヨナス様の一番のお仕事は、グイード・スカルファロット様の護衛騎士だと思いますので」
「一番が『護衛騎士』ですか。そのような危険なことをせずとも、イシュラナでハルダード家の一員となれば、何不自由ない暮らしをして頂けるのですが……」
残念を通り越し、無念そうに言うミトナに、イヴァーノは営業用の表情を固定する。
ヨナスの母はイシュラナの踊り子。
ヨナスの父に『献上』され、第二夫人となったが、オルディネに馴染めず、心身を壊して国に帰った。
そして、貴族の血をひくヨナスは子爵家に残された――それが貴族に通った情報だ。
だが、成人してから魔付きとなったヨナスは、離縁当時はまだ初等学院生のはず。
当時、彼の魔力はそれほど高くなかったらしい。母の実家の後ろ盾もなく、貴族として生きるにはなかなか厳しい。
母と共にイシュラナに行ってもおかしくなかったはずだ。
グイードがいたからか、それとも別の理由があるのか――
ジルドあたりに尋ねれば、その詳細から魔付きになった経緯までがくわしく知れるだろう。
だが、イヴァーノはそれを確かめようとは思わなかった。
ヨナスはグイードの信頼厚き騎士であり、スカルファロット武具工房長。
ロセッティ商会と開発協力をする関係、そして、王城で遠征夜着に共に笑いを耐えた仕事仲間。
互いに問題のない今、それでいいではないか。
「ヨナス様はとてもお強く、有能な方です。仕事仲間の誰も、イシュラナに行かれることを望みません」
「それだけ重き地位を築かれておられるのですね。父として会長が誇るのもわかります」
営業用の笑みで告げると、ミトナも口角を上げて答える。
だが、その黒い目にぬくみはない。
窓の外、庭を眺めるように視線をずらすと、その唇がわずかに動いた。
「『彼は、オルディネ王国人』」
イシュラナ語でつぶやかれたそれを、イヴァーノの耳が拾った。
商業ギルドに勤めているときに学んだおかげで、意味も通じる。
ヨナスをイシュラナに連れ帰れないことは、ミトナもわかっているのだろう。
ハルダードもわかっていると思うのだが――ダリヤへの願いは、息子が何かあったときの助力かもしれない。
「ここのお庭はきれいですよね。春でないのが惜しいです。あそこ一帯はアジサイで、とても見事に色変わりする花が咲くのだと、お屋敷の方に伺いました」
「――はい、緑が美しいので、つい見とれておりました」
営業用の笑みが自分に向いた。
だが、その目は半々、言葉が聞き取れるかどうかの確認と、イヴァーノを確かめる色を帯びている。
できるなら友好的関係を作りたいが、しばらくは腹の探り合いが続きそうだ。
「ミトナ様は甘い物がお好きだそうですが、ケーキやクッキー、飴など、お好みはありますか?」
「砂糖が入っているものは、すべて幸せです」
虫歯を心配したくなりそうな言葉が返って来た。
だが、これで宿への届け物は悩むことがなさそうだ。
イヴァーノは手帳を取り出し、ミトナに笑顔を返す。
「王都で評判のいい菓子店をご紹介します。よろしければお試しください」
・・・・・・・
ヨナスはロセッティ商会の使う客間へと向かっていた。
『ハルダード会長が人払いをして、ダリヤ会長とお話を――』
そう、屋敷の者から自分に知らせがあり、グイードを本宅に置いてこちらへ来た。
すでにハルダードの馬車がないところを見ると、次の商売相手か宿へ移動したのだろうが、一体ダリヤに何を話したのか。
つい足早になりつつ、客間をノックする。
了承を得て入ると、中にいたのは芥子色の髪の男だけだった。
「ヨナス先生、会長かヴォルフ様にご用でしたか? 今ちょうど、お二人で出られたところで」
「いえ、特にございません、イヴァーノ殿。ハルダード会長との顔合わせで、何か気になるところがあればと思っただけですので」
ヴォルフ達は塔に向かったか、一緒の夕食に出たかだろう。それならば一切問題ない。
人払いをしたとのことだが、イヴァーノの様子を見る限り、まずいことはなさそうだ。
「おかげさまで、ハルダード会長から、色ガラスを使った小型魔導ランタンを百ほどご相談頂きました。それと、王蛇の魔核を十二も頂いて、小型魔導コンロ四台では釣り合いがとれないと、うちの会長が」
「向こうが売り込む側です。もらっておいても問題はないでしょう」
どうしても天秤を傾けたくはないらしい。
庶民だからか、それともダリヤだからか、なんとも律儀なことだ。
「いえ、うちの会長はそういうところを気にする方なので――こちらをハルダード会長にお願いできませんか?」
イヴァーノが、テーブルの上、黒い布包みをほどいた。
出てきたのは酒の瓶――赤いラベルには、金文字で『オルディネの夜明け』とある。
赤みのある琥珀の蒸留酒は、先日、ドリノが来たときにスカルファロット家の別邸で飲んだものだ。なかなかにいい値段の酒である。
「ハルダード商会長は蒸留酒がお好きだとか。こちら、うちの会長のお父様――カルロ・ロセッティ様が好きだった銘柄です。よろしければ会食の際、ご一緒にどうぞ」
「ダリヤ先生の父君ですか……わかりました。ありがたく頂きます」
「こちらこそ本当に丁寧にご挨拶を頂きまして、ありがとうございます。よいお取引ができそうです」
商人の笑顔を浮かべるイヴァーノから、ヨナスは包みを受け取った。
最初に会ったときの構えは消え、気がつけば、昔から取引があったかのように馴染んでいる。
グイードと茶を飲み始めたときはその緊張に同情しかかったが、今は魔物討伐部隊長のグラートに、王城財務部長のジルドと酒を酌み交わす仲であると聞く。
自分も話していてそれなりに楽しくはあるのだが、それが商人としてか、イヴァーノ個人としてかが判断できず――少々怖い。
「その紅い剣は、ヨナス先生にとてもよくお似合いですね」
「ありがとうございます。その際はダリヤ先生にもお世話になりました」
今日のヨナスは、魔剣闇夜斬りを帯剣している。
お気に入りの剣を褒められるのは悪くない。
案外、紺の烏はこうやって、距離をつめてくるのかもしれない。
「銘は、『暁』でしたか。なかなか市場に出回らないほどの剣だとか」
「はい、私にはもったいないほどの品です」
イヴァーノは武具にあまりくわしくないと思っていたが、商業ギルド長のレオーネにでも尋ねたか。
いいや、この男のことだ。
短期間に山ほど学んで血肉にしようとしているのだろう。
この剣については、グイードが調べてくれたが辿れなかった。
イシュラナの名工は、決まった家の予約品しか作らないという話もある。
案外、何らかの事情で手放された剣なのかもしれない。
もっとも、今の持ち主は自分だ。
元が誰のために作られた剣でも気にはならぬ。
「お話しさせて頂きましたが、ハルダード商会長はすばらしい方ですね」
「そうですね。一代で大きな商会を築き上げた方ですから――では、私はそろそろ本邸へ戻ります」
自分にそれを言ってどうするのか、そう思いつつ、話を切り上げる。
「わざわざありがとうございました。そのうちにグイード様へもご挨拶に伺います」
「主に伝えます。では」
型通りの挨拶を交わすと、ヨナスはドアを開き、廊下に出る。
イヴァーノがその後ろ、廊下へ見送りに出て来た。
「ヨナス先生」
踏み出そうとした瞬間に呼び止められ、つい振り返る。
紺藍の目を細めたやわらかな笑みに、ひどく違和感を覚えた。
まるで、子供を見る大人のようで――
「よい『お父様』ですね」
「いえ、あの方は」
自分の母の夫であって、自分の父ではない。
紺藍の目の主に、そううまくくるんで言おうとして、舌先を少し噛んでしまった。
ヨナスは言葉を続けられぬまま、会釈をしたイヴァーノの前から、足早に遠ざかる。
舌に残る鈍い痛みは、やけに長く続いた。