284.ワイバーン討伐と黒の一号
浅い谷底には川とも呼べぬわずかな水流があり、大小の岩が点在している。
雨が多くならないかぎり水位は上がらぬのだろう。丈の短い草が風にそよいでいた。
ヴォルフは岩を足場に、大きく跳ねるようにゆっくり谷を上る。
空にいるであろうワイバーンに、できるかぎり気づいてもらうためだ。
谷底はそれほど広くない。大きく曲がっており目視はできぬが、この先の山側の切れ間に、弓騎士、そしてグラート隊長が待機している。
できるかぎりその近くまで引き付けるのが自分の役目だ。
少し進むと、周囲の血の臭いが一気に濃くなった。
風魔法を使える魔導師達が、空に向けて臭いを拡散させているのだろう。
他の魔物までも呼びそうなその濃さの中、次の少し遠い足場めがけて跳ねた。滑りかかった足元を、ミスリルの爪ががちりと止める。
不意に、鳥の声に似た笛の音が響いた。
遠見のできる魔法を持つ者が、ワイバーンを空に確認した合図だ。
ヴォルフは振り返らず、緊張を散らす息を吐いて、上る速度をさらに落とす。背負う塊肉が、ちょっとだけ重く感じられた。
予測よりだいぶ早いお出ましだが、むしろありがたい。
うまくいけば、ダリヤの元へ早く帰れる。
ワイバーンには、なんとかここで自分を餌とまちがえてもらい、付いてきてもらいたいものだ――そう願ったとき、鳥の声に似た笛の音が、一段高く二度響いた。
どうやら、自分は餌として捕捉されたらしい。
そして、血の臭いはやはり他の魔物か動物を呼んだようだ。ギャッギャッという叫びが、辺りにこだまする。そちらは他の隊員達が対応してくれるだろう。
少し笛の音は聞き取りづらくなったが、もう関係なさそうだ。
ヴォルフの横、谷底に大きな影がくっきり映った。
「そういえば、ワイバーンもクラーケンも、丸ごと使えるんだっけ」
ふと、以前、ダリヤと話したことを思い出す。
素材によし、食べてよし、薬によし――
ワイバーンもクラーケンも、その体で捨てるところはほとんどないのだという。
王城の魔導具制作部がワイバーンを丸ごと希望しているが、ダリヤにも希望の部位を手にしてもらいたいところだ。
彼女なら、案外ワイバーンもおいしく料理してくれるかもしれない――
そう思ったら、こんなときなのに口角が上がった。
自分はこの春、ワイバーンに連れ去られ、餌になりかかった。
なのに冬の今、餌として追われているのに、餌にすることを考えている。
まったく、とんでもない変わり様だ。
上空、風の音がざらりと重くなる。
背中から降りかかる殺気に、ヴォルフは身体強化を一気に引き上げた。
「釣れた……!」
足元の影が急激に大きくなる間合いを計り、天狼の腕輪に体内魔力を限界まで流す。
まるで風に乗るかのごとき感覚に身を預け、人とは思えぬ速度で岩々を駆け抜ける。
あとは囮としてただただ走るだけ。
少しでも弓騎士、そして隊長の近くへ――
魔物討伐部隊員対ワイバーン、命懸けの鬼ごっこが始まった。
・・・・・・・
「グラート隊長、よくお似合いです」
「着心地は悪くないぞ。兜を下げると少々視界が悪いが」
グラートは谷の隙間から、雲の点在する空を眺める。
身に着けているのは、ブラックワイバーンの革で作られた、兜、全身鎧、戦闘靴、手袋の一式。
王城魔導具制作部渾身の装備である。
しかし、ワイバーンを少々不格好に小型化したようなこれは、鎧と呼んでいいものなのか。
頭から背中にかけては背びれのようなものが生やされ、小さいながら羽根までついている。おまけに鞭になりそうな尻尾まである。
『ワイバーンに近づけてみました!』と担当者に笑顔で説明されたが、新種の魔物に見えて仕方がなかった。
忙しいと理由をつけて着るのをためらっていたところ、ベルニージに『若ければ儂が着たかった』とうらやましげに告げられた。
ジルドには『開発予算分は活かせ』といい笑顔で言われた。
覚悟を決めて着てみたが、鏡を見て、鎧と呼んでいいのかさらに疑問がわいた。
だが、着心地は悪くない――というか、納得いかないのだが、ひどくいい。
まず大変に軽い。
その上、革の強度差と丁寧な作りのおかげだろう、部位によっての動きがぴたりと合う。
普段身に着けている鎧より格段に動きやすかった。
それでいて、防御力は高い。
魔法防御力は普段の鎧の三倍以上。
裏にはイエロースライムによるクッション材を貼り、衝撃も刃も牙も通しづらい。
さらに、攻撃力も上がっている。
手袋と戦闘靴はワイバーンの爪を使って魔法を付与したそうで、一定の腕力がある者は岩が砕けた。
身体強化魔法を強くかけられる者なら、魔物相手に素手で殴る蹴るができそうである。
できることならば、隊員全員にほしい装備だ。
これを全員で着て並んだところを想像すると――少しばかりどうかとも思うが。
ちなみに、試着した鎧の調整は簡単だったが、その命名で思いの外、時間がかかった。
最初は、『黒の鎧』『ワイバーン鎧』というわかりやすいものから始まった。
だが、それでは浪漫がないとひねりを入れようとした者達が、『漆黒の罠』だの『竜に死を告げる者』だの、訳のわからない名を提案してきた。
『鎧かどうかわかりづらい』そう答えたところ、神殿から来ていた神官が、『漆黒をまといし鎧』と提案してきた。
一部の者が目をきらきらさせていたが、全力で却下した。
まとまりがつかず、『これが一作目で、まだまだ改良します!』という担当魔導具師にかこつけ、『黒の一号』にした。
だいぶ不満が出たが、隊長権限で押しきった。
そして、『黒の一号』を身に着けた自分が、魔剣片手に待ち構えているのが今である。
「――来たか」
上空の濃緑の影がみるみる大きくなり、ワイバーンだとはっきり目視できた。
笛の二度の連続音が二度響く。谷の両壁で構える弓騎士達、その準備も済んだらしい。
谷底では、ようやく駆け上がってくるヴォルフが見えてきた。
勾配のある川底、滑るはずの岩をこともなげに足場とし、速度を調節しながら上がってきている。
グラートは噛みしめていた奥歯を少しだけゆるめた。
ここまで来れば、万が一ヴォルフが転倒しても、弓騎士による援護が可能だ。
ヴォルフの一駆けで釣れるとは、我々にはとても運がよく――
あの緑のワイバーンには、ひどく運がない。
グラートは左手に持つ剣の柄に指をかける。
魔剣、灰手は、出番が待ちきれぬというように、小さく魔力を揺らした。
・・・・・・・
人間対ワイバーン――
本来であれば絶望的な鬼ごっこは、一方の最高潮のいらつきと共に続いていた。
クオゥ!と怒りをこめて鳴いたのは緑のワイバーン。
目の前、捕まりそうで捕まらずに走るのは、背中の肉をむき出しにした獲物である。
浅いとはいえ谷底、一度降りれば再度飛ぶために翼を広げる場が必要で、時間もかかる。だから、捕まえきれぬ獲物の深追いは危険――
若いワイバーンは群れをはぐれたため、そういったことの学びが足りなかった。
爪が獲物の背の肉をかすり、血肉がわずかにはねる。
その甘い匂いに、ワイバーンは誘われた。
あと少し、もう少し。
翼をたたみ気味に空を滑り降り、最高速で獲物に爪を立て――その固まり肉が、ずるりと落ちた。
理解不能のことに動きを止め、危険を感じて空へ戻ろうとする。
だがそのとき、緑のワイバーンは見た。
谷の大岩にいつの間にかいた、とても小さなワイバーン。
色は黒、見慣れぬ姿ではあるが、まちがいなく同種の匂いだ。
ワイバーンは同種でも上下関係が厳しい。
雄雌関係なく、会えば一度は序列闘争をする習性がある。
ただし、例外は恋の相手――これほどはかなげで美しい同種を、このワイバーンは見たことがなかった。
黒く細めの身体は、餌が足りぬからだろうか。
ちょっと下げた頭は、もしや弱っているのだろうか。
背の翼は小さすぎ、飛ぶのも心配になりそうだ。
それなのに、その皮はひどく艶やかで、とても澄んだ熱い魔力をまとっていた。
ここで威嚇するか、それとも近寄るか――
迷いに心を大きく揺らすと、左右から細い突風が吹いた。
ギャン、と思わず叫びを上げ、翼と腹に刺さる熱さに驚く。
周囲を確認し、小さな生き物が群れを成しているのに気がついた。
あれは自分に餌をくれたこともある生き物。そして、自分を追い立てる生き物――ワイバーンは、この『ニンゲン』というものの理解ができなかった。
小さく弱い生き物なのに、群れの年嵩は絶対に戦うなと言う。それを今になって思い出した。
飛んでくる痛い風を咄嗟に防御すると、自慢の翼が半分、斜めに落ちる。
風の吹いてきた方へ魔力を込めて吠えると、崖の上からいくつかの影が落ちた。
地面に転がる矮小な者達、それをつぶそうと進むと、赤い体躯で平たい物を持つ、ただ一匹が前へ出た。
お前は動けるのだから、逃げればよかろうに――そう思ったとき、ぞくりとする殺気が刺さる。
小さき者の赤茶の目は燃えるように輝き、身体に合わぬ咆吼を上げて向かってきた。
負けぬはずの小さき相手、駆けてくる足も速くはない。
それなのに、その背後の者達、そして周囲の警戒も忘れ、ワイバーンはその小さき者を鈎爪ではじき、岩壁へ二度叩きつけた。
その間にも、自分の背や尾には次々と痛いものが刺さった。
いつのまにか、皮と肉は切れ、地面に赤いものがこぼれていく。
この翼では、この身体では、空へ帰ることはもうできぬ。
小さき者に怯え負けるなど、あってはならぬこと。
せめて、目の前の美しき黒いワイバーンに、最期の序列戦を――
緑のワイバーンはそちらに向き直ると、傷だらけの身体を無視して進み始めた。
・・・・・・・
グラートは、はやる気持ちを抑え、大岩の上に立っていた。
ワイバーンの風魔法で崖から叩き落とされた隊員。そして、彼らをかばって前に出、飛ばされたランドルフにあせったが、神官が片手を上げたのに安堵する。
あれは全員治療可能、命に別状はないの合図だ。
すでに緑のワイバーンは、ランドルフや谷底の隊員達に興味を失っている。
見つめているのは、この自分だ。
龍種は最期まで戦うことが多い。
人間達を率いるのが自分だと判断したか、それともこのワイバーンの鎧を同種だと思い、序列闘争を望んでいるのか――
片翼を失い、多数の弓に射られてなお、立ち止まることなく、闘志を崩さぬワイバーン。
できることならば、罠にかけることなく、一対一、剣一本で戦いたかった。
それが傲慢な夢にすぎぬのは、よくわかっているが。
ワイバーンの美しい深緑の目を見つめ、グラートは口の中だけで呟く。
「すまぬ……」
その想いは通じたか――ワイバーンはクワン!と最後の咆吼を上げ、剃刀のごとき風を走らせる。
グラートは、それを避けない。
魔法防御に優れた黒の鎧はそれを受けてなお傷一つ付かず――
ただ、己の右目の下が、皮一枚切れた。
わずかに滲む赤、それが合図のように駆け出す姿は、まるで黒き魔物。
背にある飛べぬ羽根は揺れ、血の通わぬ尾が跳ねる。
遠目で見る者達がそれを目で追う中、ぶわりと大きな魔力が揺れる。
ワイバーンの首と交差する黒い影、二つの咆吼が重なり――赤光が一閃、宙を裂いた。
「灰手!」
主に呼ばれた魔剣は、リリリ!と高く鳴き応えた。
「クァァ……」
ワイバーンの鳴き声は、上がりきれずに途絶える。
どさりと崩れ落ちる身体、その首に深く刺さる魔剣から、真白い煙がたなびき始めた。
「手空きの者は解体を! 血の臭いで他の魔物や獣が来るかもしれん、警戒を怠るな!」
魔剣を引き抜いてワイバーンから降りると、グラートは声高く告げる。
多くの歓声と共に、応!と隊員達の声が返ってきた。
「隊長、頬が切れておられますので、今、ポーションを」
「必要ない。薄皮一枚だ」
グラートは壮年の騎士の申し出を断った。
もう血も出ていない。数日で跡すらも残さず治るだろう。
少々蒸れる兜を外すと、ワイバーンに振り返る。
早くも解体は始まっており、矢を抜こうと苦労している者、部位を切るもの、肉を樽に入れる者と様々だ。
谷底を見ると、ランドルフが神官から治療を受けていた。
その背の出血が気になったが、すでに立てるほどには回復しているらしい。
仲間に笑われながら蜂蜜の小瓶の蓋を開けているあたり、深く心配する必要はなさそうだ。
王都に戻ったら、今回の報償として王家御用達の一級蜂蜜を差し入れることにする。
少し離れた場所では、ヴォルフがタオルで汗を拭っていた。
無理な動きを重ねたせいで、汗がひかないのだろう。まだ顔は赤く、その身から湯気が出そうである。
「ヴォルフ、ご苦労だった」
「隊長、凄かったです! 俺もいつかその鎧が着たいです!」
「……そうか」
命懸けで囮役を務めた部下をねぎらうはずが、まぶしいほどに目を輝かせた笑顔で返された。
魔剣好きの部下は、この鎧、黒の一号も気に入ったらしい。
「そういえば、ベルニージ様達もそちらを着たがっておられましたね」
「隊員の中にも着てみたいと言っている者は多いです。格好いいですから!」
「神官の方にも、防御服として申請が通らないかとご相談頂きました。厳しいでしょうとお答えはしたのですが……」
壮年の騎士の苦笑に納得する。
その神官は『漆黒をまといし鎧』と名付けようとした者に違いない。
己の防御服として手にしたならば、さぞ大層な名前をつけることだろう。
振り返ると、ちょうどワイバーンの片翼と尾が運ばれていくところだった。
若いワイバーンとはいえ、あの大きさだ。新しい鎧を作るのには充分間に合うだろう。
問題は――誰が着るかだけである。
「『緑の一号』は、争奪戦になりそうだな」
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