271.ブルースライムの逆襲
緑の塔、ダリヤは機嫌のよい笑みを浮かべ、作業机の上を見ていた。
本日、王城の魔導具制作部のカルミネ副部長から大型粉砕機の仕様書が届いた。
改良点は大きさ、材質、刃の構造と形、魔石を五つにしての魔導回路――どれも完璧であった。
試作ができあがり次第、ダリヤも見学と改良に加わる予定だ。
だが、おそらく自分の出番はないだろう。
そしてもう一つ、『防水革』を目指し、革を小さくカットしたものに、防水布と同じくブルースライムの粉を付与する実験、その報告書があった。
そのままでは耐久性が今一つであったらしい。
このため、革にくわしい部員と共に、イエロースライムの粉や魔樹の樹脂、その他の薬品を混ぜてみたところ形が崩れなくなったことが、本来、秘匿するはずの配合率と一緒に書かれていた。
短期間で仕様書を書ききり、ここまで実験結果を出すのだから、カルミネは付与の腕だけではなく開発面もすばらしい。
何らかの形にできたら見せてくれるとのことなので、楽しみだ。
しかし、わずか数日でこの仕様書に実験、おそらくはウロスの代理で予算書の確認まで――カルミネの身体は大丈夫なのか。それが少々心配である。
そして、今机の上にあるのは、先日の御礼にと送られた細長い魔封箱。
中は高級な菓子箱のように均一に区切られていた。
並ぶ素材は五色。白、赤、青、黄、緑の半透明、完全な半円のウロコがガラスケースに入れられている。
きらきらと輝いていて、どれも美しい。
南の島の浅瀬にいる魔魚のウロコを加工したものとのことで、魔力は少ないが、色合いに濁りがない。
魔導ランプのガラスの色付けにも、魔導具の水晶ガラスに混ぜ込んでも使える素材である。
魔封箱を見たとき、いきなり高い素材だったらどうしようと思ったが、手の届く範囲のものであり、量もそれほど多くない。それに安心した。
何に使おうかと考えると、心が躍ってならなかった。
ふと気がつけば、窓の外が青暗く日差しを落としていた。
今日はヴォルフが来る予定なので、そろそろスープを温め、酒と肴の準備をしたいところだ。
仕様書と魔封箱を棚に片付けると、床のブルースライムの瓶をテーブルに、本日のご飯である栄養水を与えようとする。
先日はヨナスに開けてもらったが、またも蓋が動かない。蓋を引っ張ると容器まで持ち上がる。
広口のガラス瓶は蓋に小さな穴があり、スライムが逃げられぬ程度、空気が少しだけ通るようになっている。
だが、口部分のクラーケンテープの巻きが多すぎるのか、ぴったり閉まりすぎるのだ。
ダリヤは仕方なく腕まくりをし、左手で瓶を押さえ、右手で思いきり蓋を引っ張る。
必死になった十秒後、きゅぽん!と高く音がした。
同時に、視界を右斜め上にブルースライムが飛んで行った。
「ちょっと待って?!」
慌てて腕を伸ばしたところ、横に置いていた栄養水の瓶に当たり、腰から下に派手にかぶった。
が、今は着替えどころではない。
すぐスライムを捕まえなければ――即座に作業用手袋をつけ、左手にガラスの大瓶を持つ。
隔離し、狭い場所で育成しているブルースライムは、比較的動きが遅いことが多い。
万が一攻撃されても重い火傷はまずしないし、核を叩けば仕留められる。
作業場には父も使っていた銀の杖が置いてある。視界の隅でそれを確認すると、ブルースライムに向き直った。
じりじり動くブルースライムを、壁際に追い込みつつ間合いをつめる。
そして、勢いよく手袋でつかんだ。
「OK!」
一回で捕まえられたことに、思わず前世の言葉で喜びの声を上げてしまった。
すぐスライムを大瓶に入れ、机の上にある蓋を手早く閉める。
以前逃げられたときは、捕まえるのに何度も失敗した。
転んで両膝を擦りむいたこともあれば、父が仕留めてくれたこともある。
ヴォルフが来る前に捕まえられて、本当によかった。
でないとまた彼に心配をかけてしまう。
ダリヤは安堵して手袋を外すと、作業服を椅子の背にかけ、伸びをした。
反射神経がないのは自覚しているが、今回に関しては自分を褒めたい。
そのとき、ちょうどドアのベルが鳴った。
規則正しいこの鳴らし方は、きっとヴォルフである。
「こんばんは、ダリヤ」
いつものごとく差し入れと酒を持参して来た彼は、部屋に入るなり、黄金の目をじっと細めた。
「ダリヤ、後ろのそれは――?」
「あ!」
振り返ると、這い出していたスライムが、ダリヤの後ろを付いてきていた。
スカートから滴った栄養水を追ってきたのかもしれない。
慌てていたので、蓋が斜めだったのか――まずは捕獲が先だ。
作業用手袋を着けようとテーブルに向かうと、ブルースライムがぴよんと跳ね、ダリヤの赤茶のフレアースカートにぺたりとくっつく。
すぐ、布地から白い煙が上がった。
お腹がすいていたのか、いきなり溶解液を出し始めたのだ。
「何で?!」
お前のご飯は液体なのだから飲むだけでいいではないか、なぜスカートを溶かそうとするのだ?
この秋に買ったばかり、厚地の冬物で、まだ二度しか身に着けていない。
ヴォルフが来るから少しはお洒落をと思ったのに――予想外すぎることに、頭は混乱するばかりだ。
しかし、ここで動いたらスカートが足に貼り付き、火傷する可能性がある。
自分一人であれば、スカートを脱ぎ、文句を言いながらスライムを捕獲するところだが、目の前にはヴォルフがいる。
スカートの裾を足にぶつからぬように少し持ち上げ、ただただ悩む。
「ダリヤ、そのスライム、殲滅していい?」
「いえ、あの、これは観察対象なので!」
突然のヴォルフの提案に、納得するが了承できない。
確かに核を潰せば外れるだろうが、もとはといえば蓋をきちんと閉めなかった自分のミスである。
毎日、重量測定も行っているので、できれば観察を続けたい。
「ええと、そこの棚にヴォルフ用の作業用手袋がありますので、それで捕まえて、あちらの瓶に入れてもらえればと。その後に着替えてきます」
「わかった」
ヴォルフはすぐに手袋をつけ、ブルースライムを引き剥がそうとする。
ブルースライムは力もそれほどなく、溶解力も弱めなので、油断した。
「きゃっ!」
ブルースライムは、スカートの布をしっかり円形に剥ぎ取っていった。
その上、溶解液が薄く煙を立ててスカートをつたう。
「ダリヤ!」
スカートの切れた部分が危うく膝に貼り付くかと思えたとき、ヴォルフがブルースライムを投げ捨て、溶解液付きの部分が当たらぬよう、裾を持ち上げてくれた。
ダリヤは急いで後ろのリボンを引っ張り、スカートを床に脱ぎ落とした。
「大丈夫? 火傷はしてない?!」
「大丈夫です」
ほっとして答えた後――状況を把握して固まった。
作業着を取りに行くか、礼を言わなければと思うが、どうにも動けない。とりあえず上のセーターの裾を必死に下に引っ張る。
慌てまくる自分に対し、ヴォルフはすぐ背を向け、後ろ向きのまま上着を脱いでよこした。
「……風邪をひかないよう、着替えてきて。俺はその間に奴をまちがいなく捕獲しておくから」
「す、すみません! お願いします……」
ヴォルフの上着を腰に巻いて手で押さえ、ダリヤは急いで階段を駆け上る。
足がもつれて二度ほど転びそうになった。
幸い、本日のセーターは腰をぎりぎり隠すほどには長く、冬用の長い靴下も膝上まである。それほど肌色の度合いは高くない。
彼に見られたとしても一瞬だ、記憶になど残らないだろう。
自分の顔の赤さについても、気づかれていないことを祈りたい。
それにしても、すぐ後ろを向いて上着を渡して来るあたり、ヴォルフは本当に紳士である。
一切動じないのは、やはり自分が恋愛対象に入っていないと共に、女性として見られていないからだろう。
あのブルースライムに関しては、ヴォルフがいるうちに他の大瓶に移してもらおう――ダリヤはそう思いつつ、三階の自分の部屋に駆けて行った。
ヴォルフはダリヤの足音が三階へ遠ざかったのを聞き、ようやく固めていた姿勢を解いた。
辺りを見渡すと、作業机の陰、床で大人しく食事をしていたブルースライムをつぶれんばかりにつかみ、大瓶に入れる。
そして、上蓋をみりみりと音がするほどにきっちり閉めた。
ブルースライムは大瓶の底から斜めに伸び、赤茶の布を戦利品のように広げている。
「おのれ、ブルースライム……いや、それよりも俺だ……」
出しかけた威圧が、立ち消えた。
まったく、魔物討伐部隊、赤鎧の自分が、目の前でスライムごときにダリヤの服を溶かさせるとは何事か。
彼女の後ろにいるブルースライムを見た瞬間、素手で捕まえて、この大瓶に叩き込めばよかったのだ。
いや、どさくさに紛れて核を潰してもよかったかもしれない。
ダリヤが火傷をしなかったからよかったものの、何かあれば全力で核を踏み潰していたところだ。
あのきれいな白い足に、わずかな傷でもつけていたら――
ぴたりと動きを止めたヴォルフは、両手で顔を覆い隠し、低くつぶやきを落とす。
「……早く、記憶を殲滅しないと……」
大瓶の中、スライムはいまだダリヤのスカート、その端切れを溶かし続けていた。