229.蟹味噌と赤銅の熊
「もうちょっとで煮上がりそうだね」
魔導師達が火魔法でほどよく調整した大鍋は、くつくつといい香りを漂わせ始めた。
それをヴォルフ達と遠目で見ていると、バケツを持った騎士達がやってきた。
周囲の者達が迷いなく遠征用コンロの浅鍋を出し、そこに蟹が置かれる。
鎧蟹なので、蟹足にしては一つ一つがとても太く大きい。
殻が半分しかついていないので、鍋か皿の上で焼くしかないのだろう――そう考えていると、続いてやってきた魔導師が銀の箱からバターを取り出した。
色よいそれを大さじで山とすくい、蟹の上に載せる。
「鎧蟹をバターで炒めるんですか?」
「いや、上に置くだけ。鎧蟹は殻でカバーされないから、焼くとぱさつくことが多いんだ。それに遠征では腹持ちのためにバターとかチーズを載せることがある」
「まあ、蟹なんて滅多に食べられないけどな。腹が減った時は、黒パンにバター増しで食べられればいい方で」
「ああ。調理用のオリーブオイルを黒パンにしみこませたりもしたね。空腹で眠れなくなるから」
「やったやった。干し肉にオリーブオイルをかけても今イチだったっけ」
「……大変だったんですね」
遠征時、カロリーアップのための涙ぐましい努力があったようだ。味を想像するとなんとも辛い。
「やはり遠征には蜂蜜が必須だな」
「ランドルフ、お前は最近蜂蜜食いすぎ。そのうち熊になるぞ」
「問題ない。疲労回復だ」
遠征の話がランドルフの甘党話になった頃合いで、魔導師が地面に並べた鍋に炎を飛ばし始めた。
小さな火球によって焼かれる蟹は初めて見る。
蟹とバターのよい匂い、そしてこんがりとつく焦げ目。なんともおいしそうだ。
「ロセッティ会長、ヨナス殿、ヌヴォラーリ殿、どうぞ」
「ありがとうございます……」
魔導師は防水布の上に深鍋をひっくり返すと、その上に浅鍋を置いてくれた。深鍋がちょうどよく台になった形だ。
慣れた手つきを見ると、普段からそうしているのだろう。
周囲の者達もそれに続くと、皆であぶり蟹のバターがけを頬張った。
バターのせいか思っていたよりも熱い。はふりと息をつきつつ味わうあぶり蟹は、ダリヤが毎年食べる蟹よりも甘かった。そこに塩の利いたバターが、いいソースとなってちょうどよく馴染む。
焼き蟹の味と香ばしさ、そして金のソースの絶妙なハーモニーをしっかり味わい、ようやく飲み込んだ。
「やっぱ、鎧蟹はあぶりバターだよな!」
「これ、いつもの蟹より絶対うまい……」
ドリノやマルチェラが蟹を称賛する中、ヨナスがするりと視線を動かした。
「あの馬車は――お客様のようですね」
川原に到着した濃緑の箱馬車に、周囲の者達も目を向け始める。
金の紋章の入った箱馬車は、おそらくはそれなりの上位貴族だろう。
「いらしてくださったか。私が新人の頃の『副隊長』殿だ。鎧蟹がお好きだったので、もし気が向けばとお呼びしたのだ。私がお相手するから、皆はそのまま続けてくれ」
笑顔のグラートが、年長の騎士を連れて馬車に向かう。
隊員達はその背を見送り、食事に戻った。
「蟹味噌焼きと蟹スープ、仕上がったぞー!」
大鍋から各自の小型魔導コンロの鍋に蟹汁を入れ、希望者には深皿に、煮た蟹味噌、焼いた蟹味噌を配る。
「こちらの東酒もどうぞ。グイード・スカルファロット様からの差し入れだそうです」
大きな樽の横、大きめの木の柄杓が何十本も置かれていた。どうやらこれで飲めということらしい。
ヴォルフからは、グイードもしっかり東酒に、はまったと聞いている。
ヨナスが慣れた手つきで酒をすくい、渡してきたのに納得した。
「ダリヤさん、蟹スープは各自で味付けだから、ミーソ、じゃなかった……味噌、でいいんだっけ? これを試してみないか? 東ノ国の豆でできた調味料なんだって」
「味噌! ぜひ!」
ドリノの提案に思いきりうなずく。
自分の探し求めていたものがあるではないか! ということは醤油もあるに違いない!
「ドリノさん、この味噌はどこからのものですか? 仕入れ先ってわかります?」
「いつもと同じ食料係。長期兵糧のテスト品だとか言っていた。仕入れ先は、城に戻らないとわからない」
「じゃあ、後で教えてください」
何が何でも後で仕入れ先を聞かねばならぬ――ダリヤがそう誓っていると、目の前のドリノがいきなり火力を最大にし、スプーンで味噌をどぼりと投入した。
「ドリノさん、火力を上げたら駄目です!」
思わず声を大きくしてしまった。
「え? 味噌を溶かすには、火を強めないといけないだろ?」
「いえ、味噌を入れる前に火を止めた方がいいです。あと、一度にではなく溶きながら入れて……」
いつの間にか味噌汁調理講座になりつつあるが、ドリノの他、調理をしていた魔導師達も真剣に聞いている。
「流石、甘ダレとミックススパイスのロセッティ会長、味噌もお詳しいとは」
「ロセッティ殿は、東ノ国の調味料について、どこで学ばれたのだろう?」
「ダリヤは本屋で、東ノ国の料理の本を買っていましたから。使い方を勉強したのだと思います」
「なるほど、研究熱心なのは魔導具だけではなかったのですね」
ぼそぼそと背後で会話がかわされているが、ダリヤはそれどころではない。
味噌を煮立たせると味と香りが飛ぶという説明を懸命にしていた。
「ランドルフ、味はどうだ?」
「うまいが、やはり蟹だけの味だな……」
スプーンで味見をしたランドルフが、立ち上がって川を見る。
秋は終わりに近いが、それでも日差しの当たる川面はきらきらとまぶしかった。
「この時期ならまだいるだろう。流れも問題ない。グリゼルダ副隊長、川に入るご許可を」
「ええ、いいですとも」
「ヴォルフ、『手取り』をするから手伝ってくれ」
「わかった。ドリノ、ランドルフが『手取り』をするからシメを頼む!」
「了解、すぐ行く!」
大きく聞こえた『手取り』の語句に、ダリヤは前世の給与計算を思い出してしまった。
ドリノが立ち上がり、三人は当たり前のように川に向かう。ランドルフは川の手前で赤い鎧を外し、続いて上のシャツまでも脱ぎ始めた。
「あの、何をなさるんでしょうか?」
「会長、ご覧になっても大丈夫です、ランドルフ様が脱いだのは上だけですから。下は穿いていらっしゃいます」
「ランドルフ殿お得意の『手取り』です。とてもお上手ですよ」
目をそらし、慌てて尋ねたダリヤに、マルチェラがフォローしてくる。そういう問題ではない。
あと、騎士の説明はまったく答えになっていない。
そうこうしているうちに、上半身裸のランドルフは川にざばざば入り、中央へ進んだ。
流されないかと心配になったが、彼は顔と手を水中に突っ込み、動かなくなった。
秋の川は冷たい、流れもそれなりに強めだ。
本当に大丈夫なのかと思ったそのとき、大きな水しぶきが上がる。
ランドルフの手から金の太い線が光り、川原へと長く伸びた。
その先、待機していたヴォルフが、宙を舞う金の塊をつかみ取る。
まな板の上に置かれたそれをドリノが、即座に短剣で刺した。
そして、他の騎士が受け取ったのは、なかなかの大きさの『宝魚』――ダリヤからみると金色の鮭っぽい魚だ。
春から秋までは黒っぽく、秋から冬にかけて金色になる川魚である。
春から秋までは『川黒魚』、秋から冬は『宝魚』と呼び名が変わる。金色の間は脂がのって特においしいと言われている。
『宝魚は川の上流にしかおらず、獲るのが難しい』――父と行った食堂で、確かそう聞いたことがあった。
時折、川を移動し、一定の時間で宝魚を手で跳ね上げるランドルフ。
引き続き跳んで来た宝魚を受け取るヴォルフ。
まな板の上、宝魚を一撃でシメるドリノ。
見事な連携ではあるが、川の中のランドルフに、どうしても思うことがあった。
「……熊……?」
「……そう、ですね」
「マルチェラ、ヨナス先生……」
二人のつぶやきへの同意を必死に抑え込み、なんとかその名を呼ぶ。
「ええ、合っています。ランドルフの通り名は『赤銅の熊』ですので」
「すみません! つい……」
いつの間にか近くに来ていた副隊長のグリゼルダに、マルチェラが慌てて謝罪し、ヨナスが目礼する。同じことを思っていたダリヤも身を小さくした。
失礼だと反省しつつも、『赤銅の熊』は今のランドルフに本当に合う気がする。
「隣国では川魚を捕る姿を『熊』と称されるのは、とてもよい褒め言葉だそうです。ランドルフ本人が言っていました」
そういえば、ランドルフは隣国の留学経験が長いと言っていた。
隣国は牧畜や養殖で有名である。もしかしたら、学校で魚を捕る授業などがあるのかもしれない。
「ランドルフは他にも、山や森で食べられる果実や蜂蜜をみつけるのがうまいので、『森の熊さん』とも呼ばれています。こちらは隊の内輪話ですので、どうぞご内密に――」
人差し指を立て、悪戯っぽく笑ったグリゼルダに、ダリヤ達はこらえきれず吹き出してしまった。
なお、赤銅の熊は七匹の宝魚を跳ね上げると、ようやく川から上がった。
その後は蟹汁に味噌や蟹味噌を入れて飲む者、宝魚を入れて煮る者、続けて蟹刺しやあぶり蟹を楽しむ者と、酒を飲みながらの宴となった。
ヴォルフが宝魚の切り身をもってきたので、一部を薄く切る。
ヨナスがあぶり蟹も蟹鍋も一切手をつけていなかったので、宝魚の刺身でもと思ったのだ。
ちなみに、生の宝魚は蟹刺しと同じく、隊での人気はあまりなかった。
幸い、ヨナスは蟹刺しと同じく、こちらも気に入ったらしい。
が、口角を上げて、つるりつるりと身を飲まれると、どうしても気になる。
よく噛んだ方が身体にいいと言おうとして、トカゲや蛇は咀嚼しないと考え、龍はどうなのか、いや、ヨナスは魔付きの人間だと悩む。
が、その葛藤はヨナスに筒抜けたらしい。
彼は自分と目が合うと、涼しい顔でもぐもぐと噛み始めた。
ちなみに、宝魚の切り身は、脂がのりきった鮭の味に、川魚独特の爽やかさが混じる味だ。心底、醤油とワサビが欲しくなった。
川風が一段冷たくなったが、背中に携帯温風器があるので寒くはない。
何より、青空の下、屋外で食べる料理は格別だ。
鎧蟹の濃い味の出た味噌汁に、軽く煮た宝魚。二つの味はとてもよく合う。
グラートも来客だという白髪の老人と、なごやかに話をしているようだ。
いつも一緒にいる年配の騎士も、追加の東酒を笑顔で運んでいた。
周囲の隊員達は蟹料理に舌鼓を打ちつつ、いろいろな話で盛り上がっている。
「この国では、六、七年前までは蟹の中は食べなかった。それが、東ノ国から来た料理人が教えて、半分はハマり、半分は食えないとあきらめたと聞いている」
壮年の騎士が、焼き蟹味噌と蟹の身を混ぜながら話し始めた。
どうやら、蟹味噌を食べる文化は東ノ国から持ち込まれたらしい。
「食事は国ごとでかなり違いますからね」
「オルディネはどこの国の料理も取り入れるので、他国からは『悪食』と言われることがあるからな。俺はいろんなうまいものが食えてありがたいとしか思わんが」
「まったくです」
いろいろな料理が食べられるのは幸せだが、他国で当たり前ではないらしい。
ダリヤは味噌汁を飲みつつ、転生先がオルディネ王国であったことに、こっそり感謝した。
「カークも、蟹味噌はどうだ?」
「いえ、俺はいいです。何度か挑戦しましたけど、後味が苦いじゃないですか」
「そこがいいんだろ」
「蟹味噌はきっと、蟹の天敵専用の食べ物なんです」
「蟹の天敵って、俺達じゃない?」
ヴォルフが言うと冗談に聞こえない。
グラート、いいや、ここで蟹を食べている隊員、誰が言っても同じだろうが。
「まあ、蟹味噌は、通な大人の食べ物だからな」
「それなら俺は、ずっと子供でいいですー」
口を尖らせて言い返すカークに、壮年の騎士が苦笑する。
「まぁ、そのあたりは徐々に覚えてくもんだ。とっつきやすさならあれだろうな……」
言いながら、傍らにあった小麦粉を水で溶いて練り、丸く薄くしたものを作ると、遠征用コンロの上、浅鍋で焼く。
パリパリになってからひっくり返すと、そこに、蟹味噌と東酒、味噌を合わせたものを薄く塗り、軽い焦げ目がつくほどにカリリと焼いた。
「食料が小麦粉しかないときに作ってたが、合うから試してみろ、カーク」
「……ありがとうございます」
「ロセッティ会長、護衛の方も、もしお嫌でないのならお話の種に煎餅をどうですか?」
「ありがとうございます」
カークは疑いを濃厚に込めたまなざしで、蟹味噌煎餅を見つめている。
少し焦げた小麦焼きの上、深緑の混じった味噌、ほんのわずかに載った赤唐辛子。ちょっと見た目は独特だ。
だが、ダリヤには蟹味噌も味噌も問題ない。
遠慮なく焼き立てをぱりんといった。
横ではマルチェラがパリパリと音を立てて囓っている。
口の中に広がる焼き蟹味噌と味噌のしっかりした味わい。塩みは少々きついが、旨みは濃い。
咀嚼し始めると、遅れて素朴な小麦の味がやってくる。赤唐辛子はなかなかいいアクセントだ。
飲み込んだ後、味噌の風味がふわりと残った。
続けて飲んだ中辛の東酒、その味がはっきりと舌の上で立ち上がる。
組み合わせ的にとても合う。
「ロセッティ会長、本当においしそうに食べますね……」
「おいしいですよ、とても」
カークはダリヤの言葉に、ようやく試す気になったらしい。
手に持っていた蟹味噌煎餅を小さく囓ると、柄杓の東酒をちょっぴり口に含んだ。
「あれ? おいしい……」
残りの煎餅を少し多めに囓ったカークが、東酒の残りをつうと喉に流した。
「ああ、これならいけます!」
カークがいきなり声を大きくしたのに、ヴォルフが耐えきれずに吹き出す。
「これでカークもこちら側だね」
「おー、カークもついに『大人の階段』を上ったか」
「ドリノ先輩、そこは『酒飲みの階段』と言ってくださいよ!」
「どっちにしろ深みか転落への一歩だ、おめでとう」
カークの肩を数度叩くと、ドリノは壮年の騎士に向き直る。
「先輩! 俺も一枚欲しいです!」
「私も、できれば頂きたく……」
「わかったわかった。皮は作ってやるから各自焼け。俺の酒が進まん!」
壮年の騎士はそう言ったものの、この後、ひたすら小麦粉で皮を作ることになった。
面倒になった彼が、皮の作り方講座に切り替えたのは当然だろう。
煎餅にギョウザにジャム包み――何かと重宝な皮作りが隊員達のスキルとなっていくのは、間もなくのことである。