第105話 あたしを失敗させてみろ
「あっ……ジャック!」
ディーデリヒを担いで前庭に降りてきた俺に、アゼレアが屋敷から小走りに駆け寄ってきた。
俺は気を失っているディーデリヒを宙に浮かせながら、アゼレアの顔を見て微笑む。
「よかった。思い出してくれたんだな?」
「本当に……本当にごめんなさい! 私、どうしてあなたのこと……。ついさっき、突然思い出して……」
アゼレアは当惑の色を濃く表情に浮かべていた。
彼女としてもわけがわからないのだろう。どうしていきなり、俺のことを忘れたり思い出したりしたのか。
丁寧に説明してやりたいところだが、まずは確認すべきことがある。
「アゼレア。俺以外に帰ってきてる奴は?」
「それなら――」
「――ジャックっ!」
声と共に、玄関扉から青い影が飛び出してきた。
ラケルが息せききって、俺の身体に抱きついてくる。
俺はそれを受け止めると、子供のように胸に顔をうずめてくるラケルの身体を、優しく抱き返した。
「よかった……。いる……。ちゃんといる……」
「……ラケル」
「怖かった……。わたしの中から、あなたが消えて……気付くことさえできなくて……」
俺は震えるラケルの顎を不意に掴み、可愛らしい顔を持ち上げた。
「へっ? ちょっ、ジャック――んんっ!?」
噛みつくように唇を交わす。
そして、まるでベッドの上でそうするように、ラケルの奥深くまで舌を伸ばした。
俺の存在を、その身に刻むために。
「ひやっ……! ひえゃ~~っ!?」
横で見ていたアゼレアが、謎の奇声をあげていた。
びくびくと震えていたラケルの身体は、やがて観念するように脱力して、俺の愛撫を受け入れる。
それから、ようやく唇を離すと、赤らんだラケルの顔を間近から見つめて、俺は言った。
「大丈夫だよ。俺は、消えない」
「……うん……」
ラケルは濡れた唇でかすかに微笑んで、きゅっと俺の服を握った。
何も用がなければ、このまま寝室に連れていきたいくらいだけど、残念ながらそこまでの余裕はない。
俺はラケルの青い髪を撫でながら、顔を真っ赤にしているアゼレアに尋ねた。
「他の奴らは――ガウェインやルビーは帰ってきてないんだな?」
「えっ? ……う、うん。それどころか――」
「ジャック。……わたしたち、さっきまでガウェインやルビーのことも忘れてたの」
「……やっぱり、逃げられてなかったか……」
ダイムクルドが〈アンドレアルフス〉の暴走に巻き込まれ、因果から浮遊するあの瞬間――俺とラケルはエルヴィスに逃がしてもらえたが、ガウェインとルビーは、別の場所で対精霊術装備の怪人たちと戦っていたはずだ。逃げ出す暇などなかったはず……。
「まずは、中に入ろう。ディーデリヒのメンタルチェックも必要だ――ビニー! ビニーはいるか!?」
玄関からエントランスに入ると、白い髪で片目を隠した少女――ビニーがすぐに姿を現した。
「お呼びでしょうか、陛下」
ただし、なぜかメイド服姿で。
「……お前、なんだその格好」
「それが……陛下のことを忘れている間、なぜか後宮のメイドをやっている設定になっていまして」
「記憶の辻褄合わせか……? 〈モラクス〉を奪われたってことは、後宮の使用人も機能を停止したはずだからな……」
「とはいえ、こうして陛下のお出迎えができることを、ビニーはとても光栄に思います!」
そう言ってビニーは、アネリの頃から変わらないデザインのスカートを、ちょこんと持ち上げて頭を下げた。楽しそうだな。
ともあれ、俺はディーデリヒをエントランスの壁際に下ろすと、ビニーに【三矢の文殊】を使って彼の精神をチェックするよう命じた。
エヴェリーナに何らかの暗示を受けている可能性もないとは言えないからな。ビニーのスキルなら、ディーデリヒ側からの精神的影響をブロックしながら暗示を解除するくらいのことはできるだろう。
「アゼレア。側室たちは無事か?」
「ええ。さっき、あなたのことも思い出して――でも、不思議なのよね」
「不思議?」
「彼女たち、あなたのことは思い出したんだけど……ダイムクルドのことは、まだ忘れたままなの」
「何? ……そうか」
俺は少し考えて、
「『縁』の深さ――『科学者』風に言えば、『情報距離』の違いだろうな。あいつらは俺と関わることはあれど、ダイムクルドとの関わりはほとんど絶たれていた……。それに、ダイムクルドはまだ『着地』できてない」
「ねえ、ジャック。そろそろ教えてよ。何が起こってるの? これもエヴェリーナ・アンツァネッロが仕組んだことなの?」
「ああ、そうだな。話しておこう。記憶に食い違いがあるかもしれないし――」
そのときだった。
陶器が割れるけたたましい音が、サロンのほうから響き渡った。
「なんだ……!?」
俺たちはすぐに廊下を駆け抜け、サロンの扉を開く。
すると、毛の長い絨毯のそこここに、少女たちが倒れていた。
「はっ……あ……!」
「うっ……ううっ……!」
6人の側室たちが、一様に絨毯にうずくまり、胸を抑えて呻いているのだ。
アゼレアは慌てて彼女たちに駆け寄り、「どうしたの!?」と声をかける。彼女たちは脂汗を滲ませながら、かろうじてこう呟いた。
「……なか、から……!」
「あふれて……やぶれてっ……!」
その呟きから、俺はすぐに察した。
俺自身も経験したこと。
そして彼女たちは、一人の例外もなく全員が、俺と同じルーストなのだ。
「始めやがったな――エヴェリーナ!!」
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「……ふふ……」
すべてが静止した世界で、彼女だけが生き生きと笑っていた。
魔王城、屋上庭園。
虚無の漆黒に裏返った全天の下で、16柱の異形が燦然と輝いている。
それらを指揮するのは、たった一人の魔女。
背後に炎のヒトガタ――〈笑い去る理想のアミー〉を従えて、エヴェリーナ・アンツァネッロは生を謳歌するかのような笑みを湛えていた。
「さすがは世界そのものたる精霊だ――こんな状況にあってさえ、因果との経路は切れていなかった。ハッハ! ……まったく、頭に来るねえ――また今度も、うまくいっちまうようだよ」
何もかもが都合がいい。
因果から浮遊し、通常の時間の流れを失った環境においてさえ、行動を縛られなかったのがまず一つ。
〈アミー〉が何かを騙したのか。それとも精霊励起システムと接続していたのが作用したのか。まあ理屈なんてどうでもいい。
そして、〈アンドレアルフス〉の暴走によって、【舌裏の偽詞】を利用すれば精霊を暴走させることができる、とわかったのがもう一つ。
精霊はすべてが繋がっている。72柱しかいない本霊も、無数に存在する分霊も、元を正せばたった一つの存在だ。
ならば。
この場にいる16柱の本霊、このすべてを、【舌裏の偽詞】で暴走させれば……?
ああ、まるで誂えたようだ。
すべての条件がここに整い、そして元凶たるこのあたしは、因果次元を漂流していて誰も手出しできないとくる!
「……ははは……」
笑うしかない。
本当に、どこのどいつだ?
こんなご都合主義の筋書きを書いたのは――
「ははははははははっははははははッハハハハハハハハハハァハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ――――!!」
「……戯れは終わりにしよう」
足音が、エヴェリーナの背後から響いた。
魔女は哄笑を止め、首だけで後ろを振り返る。
そこには、すべてが静止した世界にあって、なおも剣を握る少年がいた。
エルヴィス=クンツ・ウィンザー。
黄金の輝きを放つ天剣を携えた『勇者』が、魔女を戦意の眼差しで射貫いていた。
「……なるほどねえ。『王眼』か。自分自身を視続けていれば、あんたも置き去りにされずに済むってことかい」
「傍迷惑な暇潰しはやめにするんだ、エヴェリーナ・アンツァネッロ」
エヴェリーナの言葉には取り合わず、エルヴィスは硬質な声で告げる。
「世界中の精霊を暴走させて、それで世界を崩壊させて、あなたの何が救われる? その八つ当たりの先に何がある?」
「知らないねえ。だから知りたいのさ」
16柱の精霊が、ゆっくりと黒天から降りてくる。
精霊たちは円を作ると、まるで天使の――否、堕天使の輪のように、エヴェリーナの頭上を旋回し始めた。
「どうせ全部うまくいく。だが、そいつはどこまでなんだ? あたし自身が破滅しちまうようなことですら、あたしが願えば都合よく叶っちまうのか? ……ああ、ああ、わかってるよ言いたいことは。妄想だっていうんだろ? そうさ、もはや結城沙羅はいない――あたしを成功に導く悪魔は、お空の上で待機中だ。それでもね」
何もない空に、それでも響き渡るように、魔女は朗々と叫ぶ。
「実感が欲しいんだよッ!! あたしは生きているのか! 生かされているのか! 情報でも理屈でもない、あたしはその実感が欲しいッ!!
――そら、止めてみろよ勇者。正義の味方さん。
ここに、世紀の大悪人がいるぞ?」
エルヴィスは歯噛みし、『天の剣』を掲げた。
百本の松明よりもなお明るく輝くその剣は、……しかし、16柱もの精霊の前では、一本のマッチ棒にも等しい。
それでも挑むのが勇者で。
それを求めているのが魔女だった。
「――さあ世界ッ!!」
すべてに成功し、ゆえに喜びを失った女が、一世一代の懇願を世界に叩きつける。
「滅びたくなければ、あたしを失敗させてみろ―――ッ!!」




