第90話 こうして、彼らは失恋した - Part1
――嫌な、夢を見た。
ここはどこだろう。
月明かりが、ぼんやりを辺りを照らしている。
ぬらぬらと。
てらてらと。
かすかな光を、まるで拒むように返している。
ここはどこだろう。
記憶を掘り返す。
お父さんと、お母さんに、おやすみを言って、それから床に入って。
ああ――そうだ。
わたしは、眠っているんだ。
だからこれは、ただ嫌なだけの、夢――
ずぶ。
と、手に嫌な感触がした。
ずぶ、ずぶ。
ぶち、ぶち。
ごり、ごり。
何の音だろう?
まるで何か、柔らかくて、筋張っていて、硬いものに刃を入れているよう。
はあ、はあ。
ふう、ふう。
ひい、ひい。
どうしてわたしは、こんなに疲れてるんだろう?
まるで何か、大変な力仕事でもしているみたい。
……どうして、といえば。
どうしてだろう?
見覚えのある顔が見える。
てらてらと、ぬらぬらと、光る地面の上に――
――今日、わたしを平民だとからかった、学校の同級生の顔が見える。
どうして彼は、わたしの顔を見ないんだろう?
どうして彼は、こんなところで寝転がっているんだろう?
どうして彼は――瞬きをしないんだろう?
――嫌な、夢を見た。
そう。どうせ夢のこと。
だからわたしは、朝日と共に忘れてゆく。
月の下に、今見たことを置いてゆく。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「陛下、奏上します」
後宮のリビングルームにて、俺はラケルと共に、ベニーの報告を聞く。
「『科学者』たちの分析によれば、遥か上空に出現した大蜘蛛――邪神バアルの降下速度は、極めて緩やかなものです。これから先、変わらないとも限りませんが、仮にこのままだとするなら、地上に落着するまで一ヶ月はかかるだろうという試算になりました」
「一ヶ月……」
ラケルが訝しげに呟く。
その理由は、俺にもわかっていた。何せ【三矢の文殊】によって、俺も彼女の膨大なループの記憶を共有したのだから。
「以前、バアルが出現した世界では、地上に到達するのにはそれほどかからなかったはずだな」
「うん。せいぜい数日だったと思う」
ラケルが体験したバアルによって滅亡する世界線では、アゼレア(と記憶を失くした俺)と別れたときにその存在に気付き、慌ててラエス王国やロウ王国に取って返したときには、雲に影が映るくらい地上に迫っていた。
ラケルの速度ならば、その間はせいぜい数日――一ヶ月もの長期間ではない。
「やっぱりこれは、沙羅ちゃんにとっても苦渋の選択なんだ」
ラケルが確信を持って言った。
「アスモデウスの力を使えば、邪神バアルの封印を強引に解くことができる――だけど、その降下速度は大幅に下がる!」
「ああ……下準備の手間を考えても、出現から落下まで間がないほうが絶対にいい。だから今までは正攻法で封印を解いていた……。それを今回は、俺たちが妨害した。
俺たちは猶予を得たんだ。あの邪神を対策するための猶予を……!」
二度目はない。
ラケルはもはや過去には戻れない。
ここで――この世界線で、この時間軸で、決するしかないのだ。
世界が滅ぶか。
沙羅が滅ぶか。
「……畏れながら、陛下。本当なのですか……?」
ベニーが当惑の調子でそう言った。
「私も、城の望遠モニターで姿を見ました。あの、巨大な……島よりも巨大な、あの大蜘蛛が……四勇者の伝説に謳われる、あの邪神だ、と……?」
「事実だ。あの大蜘蛛は必ず地上に落下し、そうなれば、もはや人類に生存の余地はない」
ベニーは固く唇を引き結ぶ。
もう長い仲だ。俺の口調から重要度を感じてくれたようだが、まだ実感は追いつくまい。
【三矢の文殊】で記憶を共有できれば手っ取り早いんだが、ラケルのそれは、一部の記憶だけを対象とできるほど便利じゃないみたいだからな……。
「それではやはり、私たちに軍部への遅延工作を命じたのは、これを見越して?」
「いや……本来は、その元凶を押さえるための時間が欲しかっただけなんだがな。だが幸か不幸か、空にあんなものが現れたことによって、休戦の口実ができた。何せ――飛んでるからな、この国は」
世界のどの国よりも先に、このダイムクルドが、あの大蜘蛛と対峙することになる。
空に浮かんでいる分、物理的な距離が近いからだ。アレがなんなのかわからない連中にも、とにかく早急に対策の必要アリ、と説き伏せることはできるだろう。
問題は、
「――どうやって倒す?」
かつて、四人の勇者によって封印されたという邪神バアル。
これからたった一ヶ月程度で対策できる相手なのか――
「情報をまとめましょう」
師匠時代を彷彿とさせる冷静な口調で、ラケルが言う。
「カラムさんとマデリンさんから聞いたでしょう? 邪神を調伏する方法――」
「――精霊王の降霊、だな」
母さんの一族――そして四勇者家の一角であるフィアーマ族は、かつての同胞を封印の眠りから救うため、唯一、邪神バアルを制御できる存在――精霊王の魂を求めた。
【迷魂の人形】による降霊には、生前の名前が必要……。それを知るために、精霊王が生きていた時代の魂に当たるまで、無理な降霊を繰り返していたらしいが……。
「サミジーナは邪神に取り込まれた。今、【迷魂の人形】を使えるのはラケル、お前だけだ――お前にそんな無茶をさせるわけにはいかない」
「でも、方法はそれしかない。有効だっていうことは、サラ・フィアーマが証明してる」
「じゃあ単刀直入に訊くが、できるのか?」
ラケルは少し口籠った。
……やっぱりな。
「【神意の接収】の弱点の一つ――力は模倣できるが、技術は模倣できない、だったよな」
「……うん」
ラケルは今まで、その弱点をエルフの長大な寿命を利用した鍛錬によって克服してきた。
だが、【迷魂の人形】を模倣したのはつい最近のはずだ。
そのためだけの教育を受けてきたサミジーナほどの熟練度が、ラケルにあるとは思えない。
「この時点で作戦は一つだ。『サミジーナを取り返す』。これは必須条件になる」
精霊王の降霊ができるとしたら、サミジーナしかいない。
邪神に――あの妹に取り込まれたサミジーナを、取り返す。
もう二度と、あの妹に、誰も奪わせはしない。
「でも、ジャック――降霊には精霊王の名前が必要じゃないの? それに関してはどうするの?」
「……それに関しては、実は俺に一つ、心当たりがある」
「え?」
「陛下――精霊王様の名前を、ご存知なのですか?」
知っているわけではない。
これは推理、……いや、想像だ。
ただ、サラ・フィアーマが――結城沙羅が降霊できた。
その事実から考えれば、思い当たる節は、ある……。
――そうだろ?
「ひとまず、そっちは後回しにしよう。今、早急に考えなければいけないのは、邪神の能力の対策だ」
「邪神の能力、と言うと……?」
「邪神バアルは、精霊術を無効化するの」
ラケルが答えると、ベニーが顔を顰めた。
「それでは、ほとんどの攻撃が通らないではありませんか……!」
「純粋な科学で作った銃火器くらいしか、今のところ対抗策はない。だが、現状のダイムクルドに、あれほどの大きさの蜘蛛を吹き飛ばす兵器はない……」
大体、銃だの大砲だのが通じる相手なのか、あれは。
表皮が人智を超えた硬さを持っていた場合……対抗策はゼロだ。
「だから、まずは武器を揃える必要がある」
「武器――そっか。『四種の神器』?」
「そうだ」
伝説によると。
四人の勇者は、異界からもたらされた神器を一つずつ携えて、邪神を封印した。
すなわち――
――勇者ラエスの『天の剣』。
――勇者ロウの『地の盾』。
――勇者フィアーマの『陽の杖』。
――勇者センリの『陰の弓』。
「四種の神器は異界からもたらされた力。精霊術じゃない。だからバアルにも通用する――そういう理屈だろう」
『天の剣』――その真名を、エルヴィスは『天剣エクスカリバー』と言ったらしい。
エクスカリバーといえば、神話・伝承に詳しくなくとも、地球の人間なら多くが知っている、アーサー王の聖剣だ。
そして、ティーナ・クリーズが語っていた因果の話を合わせて考えれば、その出所は――
――そう。俺やラケル、沙羅だけが特別だと考えるのは、辻褄が合わない。
「邪神に対抗するには、四種の神器の力が絶対に必要だ」
「でも、四つ全部を揃えるのは一筋縄じゃ行かない」
「ああ――『天の剣』はエルヴィスが、『地の盾』はロウ王国が国宝として保有している。『陰の弓』も、政変こそあったが、変わらずセンリ共和国が持っているだろう。『陽の杖』は、フィアーマ族が持っていたんだろうが……」
「確か、フィアーマ族は……」
俺はうなずいた。
フィアーマ族は、俺が調査した限り、どこにも存在していない。
おそらくは沙羅が自分に繋がる情報を隠滅するために滅ぼしたのだろう。
となると、『陽の杖』は今どこにあるのか――沙羅の手に落ちたと考えても、そうそう破壊できるものとは思えないが……。
「――とにかく、捜索を進めよう。その間に、他の三つの神器を集める」
「どうやって? 三国から奪い取るの?」
「いいや――父さんたちが言ってただろ? 戦争は邪神を刺激する。降下が早まらないとも限らない。平和的にご提供いただくさ」
ラケルは少しほっとしたように微笑んだ。
悪いな、ラケル。『戦争なんて恐ろしいことはもうしない』って、はっきり言ってやれなくて。
俺はまだ、魔王をやめるわけにはいかないんだ。
「……神器は大陸列強三国の国宝です。王位の証明でもあります」
ベニーが厳しい声で言う。
「自業自得ではありますが、我が国は全世界を敵に回した状況にあります。神器の貸与を受けることはおろか、和平交渉さえ成り立つとは思えません。第一、歴史上、神器を兵器として運用した例など――」
「――一度だけある、だろ?」
瞬間、ベニーは目を見張った。
「そうか……! それなら!」
「世界に危機迫ったとき、国々はその益を問わず、互いに協力し合わなければならない」
そう。
神器が兵器として運用された、ただ一つの例――
「――『救世合意』を結び直す。魔王ではなく、邪神を危機として」




