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手を繋いで二人  作者: 夜光始世
出会い
2/21

2


 女というのは基本的に計算高くて甘ったるくて卑怯な生き物だ、というのが美鶴(みつる)兵伍(ひょうご)の持論だった。

弱冠小学五年生にしては随分とすれた考えだが、次から次へと女に騙され続ける頼りない自分の父親をずっと傍で見てきた兵伍がこうなるのは、自然の成り行きとも言える。

 父親、美鶴健伍は煙草やギャンブルなど金のかかる趣味もなく、片親ながら仕事も家事もそれなりにこなしている普通の勤め人なのだが、物凄く惚れっぽくてお人好しで女に甘えられると断れない性格だった。

 友達なら「馬鹿だな、お前」と笑ってすむことも、家族となるとそうはいかない。

 健伍は恋をすると真剣にその相手にのぼせあがり、望みをなんでも叶えてあげようとしてしまう。おかげで莫大な額の金を貢がされ、騙し取られ、悪事の肩棒を担がされそうになったことまであった。

 その上、以前惚れた女に対しても冷静になれない。どんなに酷い目にあわされていても、「久しぶり。元気だった? こないだはごめんね」とにっこり微笑まれれば簡単に許してしまう。

 そのため家には常に不特定多数の女性が出入りしているし、収入のわりに家計がとんでもないことになっていた。

 息子のことを大事に思っていないわけではない。ただ、恐ろしく誘惑に弱い健伍は、一度好みの美人を目の前にするとほかのことを何も考えられなくなってしまうのだ。

 足し算引き算を習ってすぐに兵伍が財布を管理すると申し出ていなければ、今頃は借金苦で大変なことになっていたかもしれない。兵伍にとって算数とは退屈な勉強ではなく、実生活において必要な知恵にほかならなかった。おかげでテストはいつも百点だ。

 学校生活はおおむね平和だった。勉強にはさして苦労しなかったし、運動神経もそれなりに良かった。男に対しては思うところがないので仲のいい男友達もいるし、先生に目をつけられるということもない。しかし一つだけ難点がある。兵伍はクラスで、いや学年で一、二を争うほどモテた。

 特に女子に優しくしたわけではない。むしろ冷たかった。可愛くても不細工でも明るくても暗くても、誰に対しても平等に淡々と接した。ところがそれが、クールで大人っぽいという評価に繋がってしまったのだ。実際はただの女嫌いなのに。

 放課後、学校からの帰り道で、いつも一緒に下校している鈴木翔斗がにやにやしながら言う。

「兵伍、きーた? ガイアさぁ、増田に告られたんだって。で、つきあうって」

 高橋ガイアは兵伍と翔斗の友達だ。いつもなんとなく三人でつるんでいる。ガイアなどという派手な名前に反していたって穏やかな性格で、誰にでも優しいのでモテている。兵伍がモテるのと正反対の理由なのに結果は同じなのだ。人の好みは千差万別である。

 兵伍は顔をしかめ、翔斗に向き直った。

「あいつ先週河原とつきあってなかったっけ」

「うん。別れてない」

「またかよ……」

 重いため息をつく。兵伍はガイアのことを友達として気に入っているが、父親と似たような駄目男臭を感じてもいた。優しさが過ぎて告白を断れないのだ。結果、二股どころか五股、六股ぐらい平気でいく。それが発覚して修羅場になると、罪のない笑顔で「みんな仲良くしよーぜ~」と言ってうやむやにするか、兵伍に泣きついてくる。最近では噂が広まって、最初から浮気覚悟で告白してくる女子もいるらしい。末恐ろしい小学生だった。

 翔斗はあっけらかんと笑って、兵伍の肩をばしばしたたく。

「んな顔すんなってー! いーじゃん、兵伍だってモテてんだから。お前らみたいな奴のこと女ったらしって言うんだってな!」

 どうやらガイアのモテっぷりを羨ましがっていると思われたようだ。兵伍は物凄く心外そうな顔で翔斗を睨んだ。

「なんだよ、女ったらしって。馬鹿じゃねぇの、俺がいつたらしたよ」

「えー、だってさー、俺聞いちゃったんだよ、二坂がいまハブられてる理由」

「二坂?」

 西洋人形のように色白で目が大きく、いつもキッズブランドの服を着ている同じ班の少女の顔を思い浮かべ、あいつハブられてたのか、と兵伍は軽く驚いた。クラスの中心グループに属していても、平穏無事というわけにはいかないらしい。

「そーいえばなんか最近暗かったな。それがなんで俺に関係あるんだ?」

「なんかさー、二坂、お前のこと好きだったんだって。で、ほかの女子から抜け駆けしすぎでムカつくとかって怒られたらしい」

「……へえ」

「え、そんだけ!? なんなんお前、もっと焦るとかさ、驚こーぜ」

「いや、俺なんとなく好かれてんの知ってたもん」

「そーなのか!? わかるのか、マジ?」

「まぁたまに感づく。とゆーか、二坂は気付かせようとしてたから。いままではなんとかうまくやれてたみたいだけど、ぶりっこの一歩手前っつーか、女子ってあーいうタイプ嫌いだろ。俺のことがなくてもいずれハブられたと思うぜ」

「えー、そっかぁ。二坂可愛いと思うけどなぁ。女子こえぇー」

 素朴にそんな感想を言う翔斗に、兵伍は苦笑した。

 そんなだから子どもっぽいとか言われんだよ、ばーか。二坂如きに騙されてるようじゃ、先は知れてる。今はまだそこまで性質の悪い女は身近にいないが、中学高校に入ったらもっと擬態の上手い女子にいいように使われて走りまわる破目になるだろう。

 兵伍はそんなのはごめんだった。自分は絶対父親のようにはならないと心に決めている。

 可愛らしくて違和感なく媚びることのできる美少女よりも、がさつで男っぽい女子や口うるさい優等生のほうがずっとましだ。ときめきはしないが、安心して接することができる

 恋心というのはまったく始末に負えない。自分の父親だけでなく、様々なドラマや漫画や小説を参考にしたあとでも、兵伍の考えは変わらなかった。あの理解しがたい病気によって、まともな人間であっても著しく判断力が落ち、理性が働かず、論理的でない行動を取ってしまう。

 麗しい綺麗事で飾っていても、所詮は騙すか騙されるかの世界だ。騙す気はないが騙されるなんて我慢ならない。恋愛事には距離を置くに限る。

 そう思って誰の告白も受け入れないでいることもまた、クールでかっこいいと騒がれる要因なのだが、兵伍には知る由もなかった。

「で、明日デートだからガイア来ねえって。三人で協力プレイしたかったのになー」

「しょうがねぇよ、来週やろーぜ」

「おぅ。レベル上げとく。じゃーなー」

 跳ねるように翔斗は自分の家があるマンションに入っていく。今日の体育の時間も散々動き回ったのに、よほど体力が有り余っているらしい。それとも早くゲームがしたいだけかもしれない。そっちのほうがありそうだな、と兵伍は思った。

 兵伍のアパートはまだ先だ。重いランドセルを背負いなおして、信号の前に立つ。クラスメイトはピンクや緑などカラフルなランドセルを使う者もいるが、兵伍が持っているのはオーソドックスな黒だった。まだランドセルは黒か赤が当たり前だった時代に使っていた知り合いのお下がりなのである。入学当時、兵伍の家には新品を買うだけの余裕がなかった。今はさすがに安いものなら買えるぐらいの金はあるが、別に必要も感じないので買っていない。どうせあと一年半しか使わない鞄だ。

 それにしてもここの信号は長い。赤く光る止まれマークを見るのも飽きてきた頃、す、と左横から少女が前に出た。近くの中学校のセーラー服を着ている。長い髪を二つに分けて三つ編みにしており、スカート丈は膝よりずっと下のふくらはぎ辺りまでと大変野暮ったい。

 少女は、ふら、と危なっかしい足取りで歩を進めた。そのまま車道に出ようとするのを兵伍はあっけにとられて見ていたが、二歩、三歩と前に出たところでさすがにはっとして少女の腕を掴み、歩道に引き戻した。

「やめろ! 何してんだお前!」

 少女は何も答えず、ぼうっとした表情で兵伍を見下ろす。掴んだ腕は折れそうに細く、その顔色はどきりとするほど白かった。

「死にたいのか? 危ねぇだろ、赤信号で行ったら」

 きつい口調で責めるように言うが、少女は兵伍の手を離そうと身を引くだけで、まるで会話にならない。なんだこいつ、と思っていると、少女は掴まれた腕を抑えてがくがく震えだした。明らかに尋常ではない様子だった。ぎょっとした兵伍は、慌てて手を離す。すると震えは収まり、少女はまたふらりと車道に向かった。

「なんなんだお前……! 飛び出すな馬鹿! いーからちょっと来い!」

 できれば関わりたくなかったが、目の前でスプラッタが繰り広げられるのを黙って見ているわけにはいかない。訳のわからない少女の行動に混乱しながらも、兵伍は再度少女の腕を掴み、ぐいぐい引っ張った。少女はされるがままにおとなしく付いてくる。やはり掴まれた腕が気になるようだが、抵抗らしい抵抗はなかった。

 近くの公園にまで引きずっていき、隅のベンチに少女を座らせる。よく見てみると、少女の目のふちは赤くなっており、頬に泣いたような跡があった。暗い顔で俯いている少女の耳を軽く引っ張り、兵伍は問いかける。

「大丈夫か」

「……」

 少女は少し顔を上げ、辺りを伺うように見る。

「ひまわり公園だよ。知ってんだろ? お前ここらへんに住んでんだよな?」

「……はい」

 やっと言葉を発した。喋れないわけじゃないんだな、とほっとして、兵伍は背を向けた。

「じゃ、あとは一人で帰れるよな。もうあんな危ないことするなよ。じゃーな」

 そのまますたすたと歩き、少女から離れる。しかしあと少しで公園から出る、というところで、兵伍は、あいつもしかしてここからずっと動かないんじゃ、と思った。思って、しまった。

 ――いやいいだろ別に。そこまで面倒みれねぇよ。車に轢かれるのは見たくなかったけど俺が見てねーとこで死のうがどうしようがあいつの勝手……いや死ぬなんて限らないじゃん、俺がいなくなったあと普通に立ちあがって家帰るかもじゃん、だいじょぶだいじょぶ、だってあいつ俺より年上だし女だし問題ないって、なんとかなるなる、早く忘れよ、今日は親父帰んの遅いから俺がメシ作んなきゃ――あいつメシ食わねぇんじゃ、くそっ、わ・す・れ・ろ・俺!

 兵伍の中で良心と理性がせめぎ合いを続け、その場に足を留めさせる。前にも行けない。戻れもしない。爽やかな木々の間で少年は苦悩した。

 振り返ってはいけない。ここで振り返ったら最後、あのどうしようもない駄目親父のように蜘蛛の巣に捉われて、酷い目にあわされる。女というのは計算高くて甘ったるくて卑怯な生き物なのだ。か弱げに見えても騙されてはいけない。同情を引いて思うままに父親を操る女をもう何人も見てきた。あの痛々しい風情の中学生だって、結局本当に死ぬ気なんかない。馬鹿な小学生をからかっただけだ。

「……くそっ」

 低い声で悪態をつき、兵伍は拳を握りしめた。頭の中を、『○○日未明、日野塚市の公園のベンチで中学生と思われる少女が衰弱死しているのが発見され――』というニュースの文面が行き過ぎる。想像するだに目覚めが悪い。

 覚悟を決めて、ゆっくりと振り返った。

 認めたくなかったが、少女は今まで兵伍が見てきたどの女とも違っていた。不安定さが度を越している。男に媚びるためというには少女はあまりに、陰気過ぎた。あれではか弱げで可愛いどころではない。今にも死にそうで怖い。

 少女は、兵伍が別れを告げた時に見たままの体勢で座っていた。焦点の定まらない目で虚空を見つめている。びゅう、と強めの風が吹くと、風に倒されるように体が横に傾いた。ごん、と鈍い音がする。頭をベンチの上にのせ、ぴくりとも動かない。

 兵伍はこめかみを抑えた。頭が痛くなりそうだ。重い足取りで少女に近づいて、声をかける。

「……ずっとそこにいたら風邪ひくぞ。早く帰れよ」

「……」

「黙ってちゃわかんねーだろ! お前、なにがしてぇんだよ。帰らねぇと家族が心配するんじゃねーの」

 少女は兵伍に目線を合わせなかったが、少しの逡巡の後、口を開いた。

「……帰るところなど……ありません」

「はぁ?」

「もう、どうなったっていいのです……。親切にしてくれてありがとう。私のことは気にしないでください」

 兵伍はため息をつき、少女の横のベンチに腰を下ろした。面倒事の予感がする。まぁいい、話聞くだけなら大丈夫だろ。話して楽になるかもしれないし。

「なんか、大変なことがあったのか?」

「……人様に、話せるようなことでは」

「どうなったっていいんだろ? なら言っちまえよ。俺はただの他人だからさ。三歩歩けば忘れるよ」

 少女はゆっくりと瞬きした。小さな口をほとんど動かさず、掠れた声を出す。

「……私は、汚い」

 独り言のように抑揚のない話し方だ。

「引き留めてもらえるような人間ではないのです……心配なんてされません。いなくなったほうが喜ばれるでしょう。あなたも関わらないほうが」

「はぁ? 汚ねぇって、どこが? 別に汚れてるようには見えねぇけど。いじめられてんの?」

 兵伍は、小三の時にクラスで流行った、「○○菌がつく~! バリア!」という遊びを思い出して、顔をしかめた。騒がしくて皆の中心になるような奴が、誰か適当な標的を決め、そいつが触れたものは菌がつくという設定にして、仲間内で『菌』を移しあいぎゃあぎゃあ喚いていた。たまたまその気の弱そうな標的の少年が使っている机に兵伍が触れた時、「あっ、お前バリアしてない! 菌がついたぞ!」と叫ばれたのに冷たい目線を返し、「うるせぇ」と切り捨てたら何故かしんと場が静まり、菌ごっこは終わった。馬鹿馬鹿しいことこの上ない遊びであった。

 この少女もそんなふうにおもちゃにされているのかと思ったが、少女は、いいえ、と静かに否定した。

「学校の皆さんは、私のような者にとても優しくしてくださいます。私が汚いと教えてくださったのはお母様です。お母様と、吉野さんが……汚いから、不幸をもたらす汚れた存在だから、誰にも触ってはいけないって。ずっとその言いつけを守ってきました」

 そこで一旦言葉を止めて、すぅ、と少女は息を吸い込んだ。そして地の底まで届くような細く長い息を吐き、ぽつりと言う。

「でも、触れたかったんです」

 初めて、その表情が色を帯びた。寂しげな、切なげな、何もかも諦めたような顔で言葉を続ける。

「本当は、誰かと触れあってみたかった、です。触れられて初めて気づきました。あれは良くないことで、求められていたのは私ではなかったけど……だから結局、いつかはこうなっていたんです。でもあの人にまで拒まれたら、もう、あとはなにも……」

 それきり少女は口を閉ざした。一際大きな風が吹き、ざわざわと頭上の木々の葉を揺らす。暖かなというにはいささか暑すぎる木漏れ日に照らされながら兵伍はベンチの上で固まり、少女の虚ろな瞳をみつめた。

 ところどころよく意味がわからない部分もあったが、予想していたより重い話だった。死のうとするぐらいだから軽い理由なはずはないのだが、もっとこう、いじめられたとか、失恋したとか、そういうありがちなことかと思っていたのだ。まさかの親が主体の菌ゲーム。しかも茶化すようなノリではなく完全に本気で行われている。

 目の前の少女は、暗い雰囲気を纏っていて友達がいそうもなかったが、顔立ち自体は整っている。親から汚物扱いされるようには見えなかった。というか普通、親ならばどんなに顔の造作が悪い子供でも汚物扱いなんてしないだろう。それ親の方に問題あんじゃねーのか、と兵伍は思った。お母様なんて言ってるところを見るにいい御家柄の出なのだろうが、だいぶ性格の悪い親だ。家に帰りたくないというのも無理はない。

 しかし汚いって、そっか、だからさっき腕掴まれるの嫌がったんだな、と思い到る。汚い自分に触れるなという意図なのだ。卑屈過ぎる。

 手を伸ばして少女の肩に触れると、びくっと体を反らし、今までの静謐な様子からは予測できない速度で跳ね起きた。怯えるように顔を歪ませて言う。

「き、汚いから、駄目です、離して……!」

「汚くねーよ、どこが汚ねーの? 俺?」

 あえて言ってみると、少女はしどろもどろになりながら首を振った。

「ち、ちが、あの、私、こんな……洗って、洗ってください、早く!」

 半泣きで後ずさる少女の姿に、呪縛の根が深いことを知る。自分より背が高い年上の女に対してこんなに可哀想だと思ったのは初めてだった。

 きりきりと胸を締め付ける痛みに戸惑いながら、兵伍は尋ねる。

「お前名前は?」

「……伊織」

 名字は名乗らなかった。言いたくないのだろうと予想はつく。

「そっか。うち来るか?」

 言ってから、自分の言葉に驚いた。初対面の相手に言うことではない。しかも女である。兵伍がこの世の何よりも関わりたくない、忌避すべき『弱々しそうな女』。

 慌てて撤回しようと口を開くが、困ったように目を泳がせる伊織を見た途端、ついイラッとして、兵伍は思わずその手を掴んでしまった。

「ひぅ……」

 青ざめて息をのむ伊織をよそに、じっと自分が繋いだ手をみつめる。。

 柔らかくて細い手。嫌な感触だ。酷い記憶を思い起こさせる。兵伍の背筋にぞわりと寒気が走る。

 ――くそ、親父のこと笑えねぇぞ。

 泥沼に片足を踏み入れかかっている。そんな予感がした。今兵伍は、少女の泣きそうな顔に放っておけなさを感じている。それこそが長年彼が警戒し続けてきたものだというのに。

 守りたい。突き放したい。助けたい。無視したい。もっと知りたい。関わりたくない。

 相反する感情に引き裂かれそうだ。兵伍の葛藤など意にも介さず陽光を振りまく夏の太陽に判断力を奪われていく。どうすればいい? ただの他人として立ち去るのが正しいか。不幸な身の上に情をかけるのが正しいか。いや、正しさなんてどこにもない。結局は自分が何をしたいかだ。

 手を握ったまま棒立ちになっていた兵伍だったが、伊織が控えめに自分の手を引き抜こうと動いたのを感じ、突如として心が決まった。

「いくぞ」

 くるりと伊織に背を向け、後ろを見もせず強引に歩き出す。兵伍にしては珍しく後先考えない行動だった。

 早足で歩く兵伍に伊織はもたつきながらもなんとかついていく。「き、汚いですから、駄目です、お母様に叱られます」と小声で何度か繰り返していたが、兵伍が反応しないので、やがて諦めておとなしくなった。

 ――なにやってんだ俺、馬鹿じゃねぇの。

 早くも後悔に悩まされながらも、兵伍は表向きは迷いのない強気な態度で歩を進める。

 ――一時的にうちに連れてって、あとは警察か保護してくれる組織みたいなとこに任せる。それでいい。親父みたいに世話はしねぇ。俺は絶対にああはならねぇ。

 死にそうな人間をとりあえず泊めるぐらいは、まだ普通の人の範囲内、のはずだ。そこからなし崩し的に同居を始めたり必要もないブランド物の装飾品を買い与えだしたら完全にアウトだが。

 兵伍は歩く速さを緩めないまま、ちらりと伊織の様子を窺う。深く俯いているため表情はわからない。綺麗に切りそろえられた前髪が幕で覆うようにその目を隠している。。

 痛々しい。苦しそう。可哀想。浮かぶのはそんな感情ばかりで、間違ってもときめきではない。だからこれは大丈夫なのだ、と兵伍は自分に言い聞かせた。恋じゃない。そんな空恐ろしいものの入る余地はない。

 自分は間違えたりしない。絶対に。

 堅い決意と共に、兵伍は少女と繋いでいない方の手をぎゅっと握りしめた。






 

 野間が垣原を連れていなくなったあと、伊織は服装を軽く整え、昇降口に向かった。気力も体力も失われていたため足取りは緩慢だったが、誰に呼び止められることもなく、靴を履き替えてそのまま外に出た。

 死のうとまでは思っていなかった。しかしこれから生きていける気もしなかった。自分の罪の重さにも拒絶された絶望にも耐えきれない。

 無意識にいつもの帰宅経路を歩いていることに気づき、強烈な眩暈に襲われる。家に帰ったらきっと叱られることだろう。母は伊織が人と接することを嫌う。性的なものならなおさらだ。外出時、街中に置かれたテレビにキスシーンなどが写ろうものなら、嫌悪感たっぷりの声音で「伊織さん、あなたはこんなふしだらな人間になってはいけませんよ、結婚するお相手以外と接触するのは堕落した破廉恥な行いです」と言われたものだった。垣原と自分がしたことについて、学校から家に連絡がいっているかもしれないと考えただけで陰鬱な気持ちになる。

 家に帰りたくない、と思ったが、そんなことを思う自分はやはり問題のある出来損ないなのだとも思った。

 頭がくらくらして周囲の光景がまったく入ってこない。平衡感覚が狂っている。歪む視界に翻弄されながら、義務のように足を前に動かす。近くで誰かの叫び声がして、腕を掴まれる感覚があった。抵抗できるほどの理性も働かず、引きずられるようについていく。気づいたときには、公園のベンチでランドセルの少年相手に恥の多い身の上話を口走っていた。少年の意志の強そうな釣り目ぎみの瞳でじっとみつめられると何もかも答えなくてはいけないような気にさせられた。

 ずっとしかめつらで不機嫌そうに見えたが、少年は優しかった。

まだ声変わり前の高めの声で紡がれる言葉はささくれた心を癒してくれたし、明らかに年上の伊織に敬語を使わず直球で事情を聞いてくる遠慮のなさも、いっそ清々しく感じられた。

 問答の末、少年はまたも伊織の手を掴み、家に来いと言って歩き出す。卒倒しそうになりながら、伊織はおとなしくついていった。

 ――どうしよう、汚いのに、駄目なのに、この子はきっとちゃんとした子で、私なんかと関わっちゃいけないのに。

 そう思いながらも強く振りほどけないのは、手のひらに感じる体温を、本当は求めているからだ。垣原の性的な意図を持った手とは違う、子供の柔らかく邪気のない手は、伊織の思考と理性を奪う。罪悪感と多幸感が飽和してどうにかなりそうだった。

 涙線が緩み、じわじわと溢れる涙が零れ落ち道路に小さな染みを作ったが、眉間にしわを寄せひたすら前進していた兵伍がそれに気付くことはなかった。




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