1
冒頭、少しだけ性的なシーンがあります。
たいしたものではありませんがお気をつけください。
締め切った窓の向こうから蝉の声が聞こえる。短い生でも子孫を残そうと足掻く力強いまでの喧しさ。ジージージージージージー、ジージージージージージー……。途切れなく続く騒音は少しずつ精神を追い詰める。狭い室内には微風すら吹き込まず、机に押し付けられた後頭部からじわりと熱が広がって脳を侵食していく。脱げかけたシャツは汗でぴたりと肌に張り付き、濡れたような色に変わる。
うだるような暑さだった。
近年は児童の健康に配慮し、公立中学校であっても教室にクーラーが導入されつつあるが、その恩恵は普段使われない倉庫代わりの社会科準備室にまでは及んでいない。
伊織は朦朧とした頭を傾け、正面の壁に貼られた画用紙をみつめた。『今週は挨拶週間です』。青いゴシック体が古ぼけた紙に印字されている。その文字の意味すら理解できないほど呆けていた。今の伊織には、ただの青い染みにしか見えない。
首元に湿った感触を感じる。ぬめ、と蠢いて鎖骨まで下りた。火傷しそうだと思う。熱が籠った体は燃えるような温度だ。触れられるところ全て焼け爛れていくような錯覚に陥る。いっそそうなればいいのに。頭上の忙しない息を聞きながら伊織は目を閉じる。そうしたら、痕を見るたびに思いだせる。確かに私に触れた人がいたってことを。
骨ばった手がシャツの合間から潜り込み、胸をわしづかんだ。もう片方の手で伊織の頭を抑え、口に舌を割り入れてくる。互いの熱が隙間なくくっつき絡まって溶ける。目の裏に赤と橙の色が散る。このまま熱さにやられて死んでしまうかもしれない。それでもいい、と伊織は思った。できればこの幸せな気分のまま。
しばらく口内を蹂躙したのち、男は口を離した。溢れた唾液が伊織の頬を伝って落ちる。息継ぎをし、ついでに瞼を開けると、目をぎらつかせた男が下卑た顔つきで笑った。
「気持ちいいだろ、なぁ?」
そんなことは伊織にはわからなかった。
気持ち良さなど求めたことはない。そもそもこの行為は男が無理やり始めたものだ。何度も行為を重ねて慣れてきた今となっては、他人に触れられた時の言い表しがたい怖気や緊張は薄くなったが、それでもそれが快いかと言うと、けしてそんなことはなかった。
何も言わない伊織に舌打ちし、男は更に体重をかけて圧し掛かる。
抵抗せず人形のように体を横たえたまま、伊織はぼんやりとした思考をゆるやかに巡らせた。今何時だろう。五時間目には遅れたくない。今から始めて間に合うかな。先生は授業がないからいいけど私はちゃんと出なくちゃ――
霞んだ視界の中、汗ばんだ男の顔が大きく映る。クラスメイトの女子が、かっこいーかも、と言うのを聞いたことがある。確かに、普段の男は爽やかと言って差し支えない風貌だった。だが伊織の肌に触れる時、その顔はにやりといやらしく歪む。
今もその笑みを浮かべ、体を揺らし出す。その拍子に男の額から汗が滴り落ち、伊織の右眉を濡らした。男が動くに合わせて淀んだ空気が動き、むわりと熱気が広がる。熱い、と伊織が反射的に何回目かの感想を抱いたとき、がらりと、勢いよく戸が開く音がした。
「……え」
間の抜けた少年の声。咄嗟にそちらに振り向いた男の顔を見て、詰襟学ランを着た少年は口をぽかりと開けた。
「かっ、垣原、せんせ――」
その途端男――垣原秀介は顔を引き攣らせ、何の躊躇もなく伊織を突き飛ばした。机から転がり落ちた伊織の背は壁に当たり、ばんっ、と大きな打撃音が響く。
「や、やめろ、違うんだ、俺は、こいつから、こいつから誘ってきて……! お、俺はなにもしてない!」
ズボンをずりあげながら、必死に弁明する。
しかし当然その姿に説得力などあるはずもなく、ドアを開けた生徒は固まった表情で疑うように垣原と伊織を交互に見比べた。突き飛ばされた伊織は、俯いたままピクリとも動かない。めくりあげられていたスカートは突き飛ばされたはずみで下がったが、セーラー服の襟元からホックがはずされたブラの端がのぞいている。
垣原はますます焦り、髪を整えながら伊織に近づいた。
「ま、まったく、最近の中学生は! おとなしくていい子だと思っていたのにこんなことになるなんて……なぁ空坊、お前、なにかあったのか? ヤケになってたんだろ? こんなことしないでも先生ちゃんと相談に乗るぞ、言ってみろ」
しらじらしく無理のある言葉を吐き続ける。
伊織は垂れた前髪の隙間から垣原の顔を覗き見た。緊張感をまとい強張った顔の中で、黒目だけが忙しなく動いている。縋るようでもあり脅すようでもあるその目は、ここで話を合わせなければお前も面倒なことになるんだぞ、と言っていた。
今なら間に合う。合わせろ。適当に悩みをでっちあげろ。お前から誘ったってことにしろ。そうしなければあの写真を――。
垣原が言うことなどいつも同じだった。初めて伊織をこの部屋に連れ込み、刃物をちらつかせて服を脱がせたときからずっと。脅して侮辱してお前も同意したのだと押し付けて。伊織が豹変した教師に動揺しているうちに手早くことを済ませ、言い訳のように囁いた。
「愛してるんだ、だからお前に触れたかった」
その言葉は、男が思う以上に伊織を縛った。
伊織はおとなしく、相談相手もろくにいないような孤独な少女だったが、性的なことへの忌避感は人一倍強かった。だからその言葉さえなければ、ずっと垣原の言いなりになっていたかはわからない。
伊織の目に垣原は、混乱と恐怖をもたらす得体のしれない化け物のように映ったが、それでもその手は人間だった。人間が愛していると言って伊織に触れた。気持ち悪さを上回る喜びが全身を満たした。求められた、受け入れられたという安心は、ほかのどんな嫌なことを無視してでも手に入れたい感情だった。それから三か月近く、伊織は垣原に呼び出されるがまま人気のない校舎の一室に赴いた。
だがそれも、今日で終わりだ。
伊織はゆっくりと顔を上げる。静かにその頬をつたう涙に、垣原と男子生徒はぎょっと目を見開いた。
叫んでも喚いてもいない。ただ座って、肩を落としているだけだ。それなのに、少女はこの上なく哀しげに見えた。
「……わたし」
か細い声が囁くように言う。
「垣原先生に、ずっとこういうこと、されてました」
「なっ……!」
垣原が血相を変えて詰めよる。伊織はまた俯いた。「あ……あ、ぁ」戸惑うように頭を動かした男子生徒は、次の瞬間弾かれたように駆けだした。どこに行ったかはわからない。いや、きっと誰かに知らせにいったのだろう。垣原は確信し、自らの身の破滅を悟った。
――いや、最後まで諦めるな。今からだってなんとかなる。どうにでもなる! 幸い今日はまだなにもしていない。せいぜいちょっと触って舐めたぐらいだ。
この程度のことで職を失うつもりは毛頭なかった。教師になるまでに費やした時間、支払った学費、振りまいた愛想を思い、垣原は舌打ちした。幸い現場を見られたのは生徒一人だ。伊織が証言を翻せばいいのだ。なに、簡単なこと、今までだってこのおとなしい少女は言うなりになってきた。ちょっと脅して宥めすかせば……。
血走った目で伊織の胸倉を掴む。
「どういうつもりだ」
できるだけ恐ろしげな低い声を出した。しかしそれは、思ったよりせっぱつまった響きを帯びる。
「どうすればいいかわかってるだろう。なぁ、バレればお前だって無事じゃ済まない。人に後ろ指されるようになる。噂されるんだぞ、教師とそういう関係だって。今だったらあのさっきの奴と……あとはあいつの友達とか、まぁそこら辺で治まる。言えよ、誤解だって。騒がせてすみませんって。さもないと今度こそ……」
ポケットからバタフライナイフを取り出す。最初のときのように、伊織の首元につきつけた。がちがちと意図せず震える手のせいで、すうと糸のように細い傷がつく。それでも伊織の表情は変わらなかった。限りなく無表情に近い顔で涙を流している。その瞳は、目の前にいる垣原を映してはいるものの、認識していないかのように遠くを見ていた。
口を開いて、何かを言った。しかし声は発せられなかったので、垣原は伊織が何を言ったのかわからなかった。顔をしかめて耳を近づける。微かな吐息だけが耳にかかった。
その時、ばたばたと高速で近づく足音が聞こえた。
息を切らした先程の男子生徒と、初老の数学教師である野間が、開け放った戸口から険しい表情で垣原を睨みつける。
垣原にとっては最悪のタイミングだった。女子生徒の胸倉をつかみ上げて刃物を突き付けている体勢は、どう見ても普通ではない。もう言い逃れはできない。野間が駆け寄って垣原を叱りつける。
「なんだこれは……! はやくどきなさい、何やってるんですか垣原先生!」
「ちが……お、おれは」
「違くないだろ! 空坊さん脅して酷いことしてたんじゃねーか!」
叫ぶ少年の正義感と非難に満ちた眼に言葉を詰まらせ、垣原はそっぽを向いた。
「……くそっ! 自分から誘ったくせに被害者面してんじゃねぇよ! この売女!」
暴言を吐きながら伊織を押しのけるように立ち上がり、眉をひそめる野間の前に立つ。
「なんすか、吊し上げでもしますか。言っとくけど俺は無実を主張しますよ。こういうことがあるとすぐに女が被害者だって決めつけるのは間違ってる。これは合意の上だったんだ」
「……とにかく、一緒に来てください。空坊さんは……あぁ、木暮くん、悪いけど保健の先生呼んで来てくれるかな。こういうのは女の人の方がいいだろうから」
「は、はいっ」
ちら、と伊織を心配そうに一瞥だけして、少年はまた駆けだした。野間はいつもなら廊下は走るなとうるさいのだが、今回ばかりは何も言わなかった。そんなことを気にしていられる余裕はない。
「空坊さん、……えぇと、大丈夫かな? ……すまない、気の利いたことは何も言えないが……もうすぐ林先生が来るから。そしたらちゃんと話を聞いてもらえるから。ね、辛かったろうけど、人生、まだ長いから」
言えば言うほど見当はずれになっていく気がして、野間は言葉をとぎらせた。大人の女性でも性的なことを強要されるなんて物凄くショックなことだ。まして彼女は少女で、相手は教師だ。勢いで自殺してしまってもおかしくない。
けれど、と自棄になったようにせせら笑う垣原を見つめ、野間は思う。
この男を一人にするわけにはいかない。野放しになどしたらきっと大変なことになる。そして加害者と被害者を同じ部屋にいさせるなんてあまりにも酷だ。
やはり自分が垣原を連れて部屋を出るのが一番いい。野間は垣原からナイフを取り上げ、その腕を掴んだ。本当は触りたくもなかったが、逃げられては元も子もない。平和な学校生活の最後にまさかこんなことが起こるとは思わなかった。定年間際の野間は、憂鬱な気持ちでため息をつく。だるそうにそっぽを向いている垣原を引っ張り、戸の取っ手に手をかける。がらがら、と開けられたときとは対照的に静かに戸が閉まった。
静かになった教室には、糸の切れた人形のように身体を投げ出し力なく床に座ったままの少女が一人残される。虚ろな瞳から零れる涙は、けして勢いよくではなかったが尽きることなく流れ続け、体中の水分が出てしまうのではないかというほどに止まる気配を見せなかった。
『私がどうして言うことを聞いてたか、知らなかったでしょう、先生』
空気にのらなかった言葉をもう一度頭の中で呟いて、伊織は瞼を閉じた。
そう、垣原は知らない。
知らないからこそ伊織に触れた。触れてかきまわして繋がった。それは彼にとってはどうということもない行為だった。欲望と衝動と打算の結果だ。しかし伊織にとっては違う。
彼女は初めて認められたのだ。存在していることを。確かにここにいて、求められていることを。
例えそれが下劣な下心からくるものであっても許せるほど、伊織は限りない孤独を抱えていた。
ずっと一人。ずっと一人。ずっと一人。
焦がれるような想いに蓋をして、諦めの殻を纏い淡々と生きていく。
垣原は初めてその殻を破った。
形は違うけれど、伊織が求めるものをくれた。
それは愛ではない。でも愛に似ていた。
これは違うと、伊織は薄々わかっていたが、偽物でもないよりはずっとましだった。それすらも垣原は壊した。
――あの時。
突き飛ばされたとき、触れるのを拒まれたとき、関係ないと示されたとき、伊織の心は砕けたのだ。
偽物は所詮偽物だった。夢は消えた。幸せな気分なんて嘘だ。あとには空虚さと捨てられた体だけが残る。
垣原に対する憎しみとか恨み言とか、そんなことすらまったく思い浮かばない。
もう、どうでもよかった。
どうなろうと――構わなかった。