終わった世界の生き残り方2
「…どうしたんですか?」
「ふふっ、意外に冷静なんだね。ちょっと残念」
杏子は口元に笑みを浮かべ、這うように手を伸ばす。
その指先が僕の太ももをなぞるようにさすり始めた。
「……ねぇ、谷々君はさ、こういうの初めて?」
彼女の手はするりとベルトに伸び、カチャカチャと慣れた手つきで金具を外しにかかる。
「……やめてください」
その手を押さえ、外れかかったベルトを直した。
「あはっ、もしかして緊張してる? 大丈夫だよ、お姉さんに任せてくれたら──」
杏子はさらに距離を詰め、僕の耳元で囁く。
かすかに乱れた息遣いが耳たぶをかすめた。
「いえ、そういうことではなくて」
「かわいい……。いいから、そのままじっとしてて……」
杏子は僕の膝の上に腰を下ろす。
目の前に深い谷間が広がった。
「こんな世界なんだから、楽しめる時に楽しまないと損だよ?」
妖しく、艶めかしい声が耳元に響く。
だが、僕の意識はそれとは別のことに集中していた。
──髪は整い、肌は健康的なツヤを保ち、服は汚れひとつない。
この世界ではありえないほど、彼女は「清潔」だった。
「……別に杏子さんに言ってるわけじゃありません。やめてください、というのは」
そこで一度言葉を区切り、意識を《背後の人物》へ向ける。
「木刀を振りかぶってるあなたに対してですよ」
「「!!??」」
二人分の驚愕、そして──
「っ! いいからそのままやりな!!」
「わ、わかってるわよ!」
慌てた声が背後から聞こえた。
それとほぼ同時に振り下ろされた木刀を、僕は杏子を突き飛ばしながら回避した。
「ちっ!!」
床に倒れた杏子が、弾かれたように飛び退く。
「……はぁー、マジめんどくさっ。黙って殴られとけよ」
それは、さっきまでの妖艶な態度とはまるで違う、低く気だるげな声だった。
「なに? なんでわかったの?」
暗澹たる目で睨みつけながら、杏子はじりっとベッドの枕側へと後退する。
「ベランダで抱きつかれた時、杏子さんからはいい匂いがしました」
「……それが?」
「食べ物や水に困っている人が、体臭に気を使う余裕があるなんて不自然じゃないですか」
「……はっ、童貞くさいガキかと思ったら、案外鋭いじゃない」
そう言うと、杏子は枕の下に手を差し込み、刃渡りの長いサバイバルナイフを取り出した。
「できれば先に腕の一本でもへし折っておきたかったけど……しょうがないか」
ナイフの切っ先を向けながら、杏子は薄く笑う。
「ねぇチェリー君、大人しくそのバックの中身と隠れ家の食料をくれない? 痛い思い、したくないでしょ?」
「……ずいぶん強欲ですね」
「はっ、こんな世界なのよ? 当たり前でしょ!?」
背後で、美香がクスクスと笑う声がした。
「ねぇねぇ、杏子、そいつ本当に童貞なの? かわいくて食べちゃいたいなぁ」
「さあね。でも、どうせ殺すんだからどうでもいいでしょ」
杏子の声は冷たく、感情が抜け落ちていた。
一方、美香はニタニタと口元を歪ませる。
「……さっさとリュック漁って」
「はぁい♫」
美香はリュックを拾い上げ、中を探る。
「……ちょっと、どういうことよ」
次の瞬間、美香の顔が歪んだ。
「なんでなんも入ってないんだよ!? 水は!? 食べ物は!? からっぽじゃねぇか!」
パァン、と軽い音を立ててリュックが床にたたきつけられる。
「……これはどういうこと?」
冷ややかな目線を向ける杏子。
「どういうこと、とはどういうことでしょう?」
僕はリュックのくたっとした姿を眺めながら、淡々と答える。
「馬鹿にしてんじゃないわよ!? どこに隠したのよ!!」
苛立ちを隠さずに声を荒げる杏子。
その手に握られたナイフが、薄暗い部屋の中で怪しく光った。
「……中身なら、入っていますよ」
「嘘ついてんじゃねぇよ! さっさと答えないと、その指片っ端から切り落とすぞ!!」
ザンッ、という音とともに目の前の床にナイフが突き立てられる。
「……だから、この中ですよ」
おもむろに身体を起こし、リュックの中を漁る。
「ビスケットのカケラでも出して『入ってます』とか言うつもり? ふざけんな!!」
苛立ちを隠さない杏子。
「……そういえば、一つ訂正があります」
言いながら、リュックの容量からは明らかにおかしい長さのボウガンをずるりと取り出した。
「誰が童貞だって言いました?」