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終わった世界の生き残り方

「……助けてくださいっ!!」


ふいに、どこからか声が聞こえた。


ギシギシと揺れる電線の上で足を止める。


声のした方を向くと、マンション3階のベランダから身を乗り出した女性が、こちらに向かって叫んでいた。


「お願いしますっ! もう水も食べ物もほとんどなくて……!! このままじゃ……うぅ……」


女性はそう言うと、力尽きたようにベランダの鉄柵に寄りかかった。その姿は、単に疲れたというより、絶望に打ちひしがれているように見えた。


遠巻きに彼女の様子を観察する。ぴっちりとした黒のタンクトップにデニムのショートパンツ。少し赤みがかったロングの髪。年齢は20代前半くらいか。


……久しぶりに、生きている人間に会った。


胸ポケットからフリスクのケースを取り出し、一粒を口に放り込む。スッとした清涼感が喉を駆け抜けた。


上方の電線に引っ掛けていたカラビナを外し、ベランダまでの距離を測る。


……3メートルくらいか。《《使わなくても》》問題なさそうだ。


両腕で電線にぶら下がり、鉄棒の要領で反動をつけ、ベランダへと飛ぶ。


一瞬の浮遊感。次の瞬間、鉄柵を乗り越え、「トッ」と軽い音を立てて着地した。


その音に気づいたのか、女性がガバッと顔を上げる。


「えっ……!? あ、ありがとうございます!」


驚きに目を見開きつつも、すぐに明るいブラウンの瞳を潤ませ、僕の足にすがりついてきた。


「あの! 何か食べ物か飲み物を分けてもらえないでしょうか!?」


「落ち着いてください。水も食料も多少余裕があるので、お分けしますよ」


僕は膝を折って目線の高さを合わせる。這いつくばる彼女に対し、穏やかな声で言った。


「あ、ありがとうございます!!」


言葉を聞くや否や、女性は勢いよく抱きついてきた。


タンクトップ越しに伝わる柔らかな感触。ふわりと漂う、甘い香り。


「あっ、ごめんなさい。あたしったら、嬉しくてつい……」


固まっていた僕に気づいたのか、彼女は恥じらいながら少し距離を取った。


「……大丈夫ですよ。それより、怪我はありませんか? いくつか医薬品もあるので、必要ならお分けしますが」


「い、医薬品!? そんな貴重なもの、一体どこで……!?」


驚愕の表情を浮かべ、まじまじと僕を見つめる女性。その視線が、徐々に僕の背負っているリュックへと移動する。


「たまたまです。あれが始まった頃、病院にいましたから」


「病院っ!? どこも地獄だったって聞いたけど……」


「病院」というワードに何かを察したのか、女性の表情が曇る。


「っと、ごめんなさい! こんなところで立ち話なんかさせちゃって! とりあえず中へ!」


そう言うと、彼女はカラカラと窓を開け、室内へと招き入れた。カーテンが閉め切られているのか、部屋の中は薄暗い。


本当は部屋に入るつもりはなかったが、彼女は僕の反応を待たず、すでに中へと入ってしまっていた。


「さっ! 狭いですが、どうぞ!」


部屋の中央に置かれた座椅子に腰掛け、テーブルを挟んだ対面の席を手のひらで示す彼女。


……仕方ない。


強引に促されるまま、中へ足を踏み入れようとすると——


「あっ、すみません!」


慌てたような声が飛んできた。


「こんな状況なのに、何言ってんだって感じなんですけど……靴、脱いでもらってもいいですか……?」


申し訳なさそうに、胸の前で両手を合わせる彼女。よく見れば、彼女自身も裸足だった。


「あぁ、すみません。最近、土足が当たり前になってしまって……」


謝りながら、靴を脱ぎ、窓枠のそばに揃えて置く。


「いやいや! 神経質なこと言ってごめんなさい!」


軽く頭を下げた拍子に、タンクトップの胸元が大きく揺れる。思わず視線が吸い寄せられた。


「さ、どうぞ座ってください。お茶も何も出せないけど……」


自嘲気味に笑う彼女に促され、対面の座椅子へ腰を降ろす。


8畳ほどのワンルームはきれいに整頓され、最低限の家具のみが置かれている。目を凝らして部屋の奥を見やると、細い廊下の先に緑色の玄関ドアが見えた。


「……それにしても驚きました。外を見ていたら、電線の上を歩いている人がいるんですもん」


「地上はゾンビで歩けたものではないですからね。でも、まさかまだ個人で生き残っている人がいるとは思いませんでした」


「シェルターにいた時もあったんだけど、そこでも《感染》が広がりました。女一人で生き残るのは大変だったけど、なんでもする覚悟はありましたから」


女性は物憂げな表情で、自分の二の腕を掴んだ。初夏の蒸し暑さで、小麦色の肌に汗がにじんでいる。


「……すみません。嫌なことを思い出させましたね。とりあえずこれ、水と食料です」


リュックからペットボトルの水とカンパンを取り出し、机の上に置く。一週間分もあれば十分だろう。


「こんなにいいの!? ありがとう! その……食料のお礼なんだけど……」


女性は顔を輝かせ、手を太ももに置いてもじもじと動かす。


……『なんでも』というのは、そういう意味も含まれていたのか。


「お礼は必要ありません。余裕はまだありますから」


女性が何か言いかける前に、リュックの中に残っている水と食料を見せておく。


一瞬、女性の目が暗く光ったように見えた。


「そんな! 何も無しなんて……」


女性はテーブルに手をつき、座椅子から腰を浮かせた。その動きで、タンクトップの胸元が強調された。


「そうだ! 実は私、マッサージが得意なんです! ちょっとこっちにきて、うつ伏せになって!」


女性は胸の前で手を叩き、僕の手を引いて座椅子の後ろにあったシングルベッドに誘う。


「いえ、本当に気にしなくていいです」


「いいから、いいから♪」


断ろうとする言葉を遮られ、女性は半ば無理やり僕をベッドに横たわらせる。


「失礼しますね♪」


言葉と同時に、腰に柔らかな重みと熱を感じる。どうやら、馬乗りの姿勢でマッサージするようだ。


「うわっ、カッチカチ! これはほぐしがいがあるなー♪」


背中から聞こえる声に、どこか弾んだ感じがある。


「あ、そういえばお名前はなんて言うんですか?」


グリグリと腰を指圧されながら、女性が話しかけてくる。


「僕は谷々《やや》といいます。谷を重ねて、谷々です」


気持ちいいと言えなくもない程度のマッサージに身を任せつつ、背中の声に答える。


「谷々……君? 珍しい名前だね」


「よく言われます」


「元々、東京に住んでたの?」


「いえ、生まれは東北の田舎です。高校からこっちに越してきました」


「高校! 懐かしい響き~♪。っていうか、谷々君、今いくつ?」


女性はマッサージを続けながら、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。よく知らないが、こんな感じが普通なのだろうか。


「18です。今年卒業予定でしたが」


「やっぱり若いね! 高校生かー。あと半年もしたら卒業できたのに……」


「そうですね。まあ、こうなった以上、仕方ないです」


学校どころか、社会そのものが崩壊してしまった。今更、高卒という資格に意味があるのだろうか。


「まぁねぇ。あっ! ちなみに私は杏子きょうこっていうんだよ。杏の杏に、子どもの子。20歳! 君よりちょっとお姉さんだねぇ♪」


女性は自分が年上であることをアピールしてきた。最初から怪しかった敬語は、完全に無くなった。


「でも、谷々君くらいの子がよく生き残ってきたね。守ってくれる大人がいるの?」


質問の手を休めることなく、腰から始まったマッサージは肩甲骨へと進んでいた。


「いえ、最初は学校で他の生徒や先生と避難していましたが、いろいろあって今は一人で行動しています」


「1人!? ますます尊敬しちゃうなぁ! どこか拠点にしてるところはあるの?」


「生き残るのに毎日必死です。拠点と言えるほどではないですが、集めた物資の保管場所はあります」


「そうなんだ! 結構大きなリュックだから、点々と移動してるのかと思ったけど、色々集めてるんだね。すごいなー♪」


杏子さんは猫撫で声で、話を続ける。


「できることをしてるだけです。備えがあれば、今回みたいに誰かを助けられるかもしれませんし」


「……谷々君、本当にすごい人なんだね。普通、こんな状況になったらみんな自分のことで精一杯だよ。自分が生きるために他人を蹴落とす人をあの日以来たくさん見てきた。君みたいな人は初めてだな……」


肩甲骨から肩、鎖骨へと指がしなやかに伸びてくる。もはや指圧というより、撫でるような感覚に近い。


「……たまたまです」


「ううん……。誰もができることじゃない……本当に……素敵……」


両手の中指が肩から鎖骨へゆっくりと降り、骨の縁をなぞるように動く。


「……さ、次は仰向けになって」


耳元で、急に湿っぽくなった声が囁かれる。


「いえ、もう大丈夫です。充分お礼はしてもらいましたから……」


これ以上は耐えられそうになく、急いで振り返る。


すると、いつの間にか、杏子さんはタンクトップを脱ぎ、派手な蛍光色の下着姿になっていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 苗字だけじゃなくて、フルネームで紹介して欲しかったな。 話を読んでけば誰が誰だか分かるには分かるが、序盤は理解するのに時間がかかる。そのため物語に入りやすくするためにもフルネームの紹介文は…
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