ウィール川防衛戦2
その視線の先には再び上空へと舞い上がり、そのままの高度で待機していた龍王のフェルフィヴィスロッテの姿が小さく映る。
フェルフィヴィスロッテは上空で羽ばたきながら、その巨体の全身を使って周囲の魔力を取り込み、さらに自身の魔力を織り交ぜて強大な力を生み出すと、それを自身の頭上へと顕現させた。
それはまるで小さな太陽のように白く眩いまでの輝きを放ち、フェルフィヴィスロッテがさらにそこへ力を注ぎこんでいくと、その大きさは徐々に大きく膨れ上がっていく。
既に眼下では不死者軍のウィール川一斉渡河が開始されており、盛大な水飛沫を上げて川の中程を越えた不死者達が再びエルフ族の戦士の弓の餌食となっていた。
しかしそれは圧倒的な物量の前ではまさに焼け石に水の状態、倒された先頭の不死者を後続の不死者達が踏み潰して続々と前進して来ていた。
二十万を超える数の不死者がエルフ族の戦士の弓を全く恐れずにただただ前進して来る姿に、その戦いを見守るしかできない人族の兵士も、矢を番えて放つエルフ族の戦士らも背筋に薄ら寒いものが伝う感覚を覚えて眉間に皺が刻まれる。
しかしその時は唐突に訪れた──。
上空で強大な魔力を小さな太陽へと注ぎ込んでいた龍王が、自身が一抱えできるほどにまで膨れ上がったそれを眼下の川を渡る不死者軍に向けて解き放ったのだ。
その様子をじっと確認していたファンガス大長老が傍に待機していた者に合図を送ると、砦内でけたたましい程の警鐘が一定のリズムで繰り返し打ち鳴らされた。
「武器を置いて身を低くしろぉ!! 全員壁の外に出るなよぉ!!」
それを合図に、各隊の長が部下たちに向けて事前に取り決めてあった行動──耐衝撃姿勢を取らせるように声を上げて周囲に徹底させ始めた。
塔の屋上に立っていたブラニエ辺境伯も部下と共に壁際に身を寄せて頭を下げる姿勢をとってその時を迎えようとする中、ファンガス大長老だけは塔の屋上に仁王立ちのまま、目を爛々と輝かせながら白い歯を剥き出しにして笑っていた。
ブラニエ辺境伯がそれを見てファンガス大長老に声を掛けようとした瞬間──目の前の風景が真っ白に染まり、その強烈な目を焼くような閃光に思わず目を瞑る。
ドォォォォォォォォォォオォォォォォォォン!!!
そこに耳を劈くような爆発音と共に猛烈な突風が吹き付け、足元の大地が唸りを上げるように振動して砦全体が震撼すると、兵士達はその衝撃と恐怖に声にならない悲鳴を上げる。
そうしていると今度は頭上から無数の小石や土くれが兵士達に容赦なく降り注ぎ、次いでそこに局所的な雨が吹き降り、兵士達は一瞬で全身が泥に塗れたような姿に変わっていた。
いったい何が起こったのか──兵士達は互いの無事を確認しようと、未だに耳鳴りが残り聞き取りづらくなった耳で互いに言葉を交わそうと大声で声を掛け合う。
彼らには事前に今回の作戦の要として強力な魔法攻撃が行われる事は通達されており、それに際しての衝撃から身を守る為の行動も予め伝えられてはいた。
しかし今さっき彼らが体験した事は、誰もが想像していたものとはかけ離れた事象だった。
人族の兵士らによって騒然となる砦内だったが、それとは逆にエルフ族の戦士達は若干興奮した様子で空に拳を振り上げ、鬨の声をあちこちで上げていた。
塔の屋上に仁王立ちになっていたファンガス大長老も、鍛え抜かれて盛り上がったその胸筋を震わせながら笑い声を上げ、その興奮を一切隠そうともしていない。
そんなエルフ族の戦士達の様子に人族の兵士らもようやく落ち着きを取り戻し、各々装備の確認と合わせて周囲のもうもうと立ち込める土煙の様子に目をやる。
降り注ぐ雨のおかげで視界を塞ぐ霧のような土煙が徐々に収まり始めると、皆の視線が一様に砦の外──不死者の大軍が攻め寄せて来ていたウィール川の在った方角に向く。
そしてその光景を目にした全ての者の表情が驚愕へと変わる。
今まで目の前を流れていたウィール川は流れの途中から姿を消し、そこには巨大なすり鉢状の巨大な穴が大地に穿たれ、そこに上流からの川の水が斜面を伝って流れ落ちていた。
ソビル山脈から絶えず供給されるその川の流れは、やがてこの巨大な穴をも満たして、後にはここに巨大な湖が誕生する事になるだろう。
そして先程まであれ程の数で押し寄せていた不死者の大軍も龍王フェルフィヴィスロッテの魔法攻撃で大地の一部と共に消し飛んだのか、既にその数は半分以下にまで減っている。
ブラニエ辺境伯はそのあまりにも常軌を逸した威力を前に、ただただ口を開けて唸るような──それでいて呻くような声しか口から漏れてこず、呆然と変わり果てた景色を眺めていた。
王都ラリサへと向かう為の頑丈な石造りであった石橋も、先程の衝撃波の余波で倒壊しており、
川の中に石造りの基礎だけが僅かばかり残っているだけだ。
「ハハハハ、流石はフェルフィヴィスロッテ様といった所か! これ程とは! 全力の一撃、その場で二度は撃てぬがそれでもこの一撃で大方のケリは着いた、後は残りの始末をするだけだな」
ただ一人、その光景を愉快そうに眺めるファンガス大長老は、腰に下げていた戦槌を軽々と肩に担ぎあげて不死者の残党を睨み据えた。
流石に相手が感情を持たない不死者とあって、先程の大魔法の威力に恐怖などを感じる事もないのか、ただ愚直に前へと進み巨大な窪地となった斜面を転がり落ちたりしている。
そこには先程までの圧倒的な数からの威圧も無く、ただ命に従って前と進むだけの哀れな骸の姿だけがあり、その光景はどことなく同情を誘うものだった。
「死してその身を辱められる存在に成り果てるなど……その身を砕き土へと還し、囚われた魂を天へと還すが死者に対し我ら世に生きる者の最後の手向けとなろう」
ファンガス大長老がそう言うと担いでいた戦槌を掲げ、不死者の残党を示すように指して、塔の屋上から戦士や兵士達に大音声で呼び掛けた。
「この一撃を以て我らの勝利は揺るがぬものとなった!! しかし決して気を緩めるな! 穢れた魂の器を最後の一体まで駆逐して初めてこの地の安寧が約束されるのだ!! カナダの戦士達は蜘蛛の化け物を優先的に排除! 残りは木偶の棒を蹴散らすぞ!」
呆然としていた人族の兵士達も、ファンガス大長老の喝とそれに呼応するように声を上げるエルフ族の戦士達に触発される形で次々と武器を掲げて声を上げ、それはやがて砦全体に波及していく。
敵の半数以上が消し飛んだと言っても、まだ万の単位で不死者達が残っている現状は決して油断できるものではない。
龍王フェルフィヴィスロッテも流石に大地に新たな湖を創り出すような全力の一撃の後ではそれ程大きな力は残っていない状態だ。
しかし、勝てる希望を見出す事のできない戦いよりも、確実に勝てる未来が目の前に示された時とでは兵士達の士気はまさに天と地程も違う。
エルフ族の弓士達がさっそくとばかりに、こちらの砦を標的として駆け込んで来る蜘蛛人を数人がかりで排除をしにかかると、近接戦闘を得意とするエルフ族の戦士達も己の武器を持って、少数の隊毎に分かれて砦の外へと打って出た。
基本小隊単位で行動する事に慣れたエルフ族の戦士達は、隊長らの各自の判断によって動く事が本来の姿だが、人族の兵士らはそういった傭兵的な戦闘は得意としていない。
勇ましく砦を後にするエルフ族の戦士達の背中を見送りながらも、全体の指示を待って行動できずにいたブラニエ領軍の姿を見て、ようやく辺境伯も我に返って指示を下した。
「事前に決めた通り、まずは騎馬隊を出して砦周辺の鎧兵士共を掃討する! 蜘蛛の化け物は少数であたるのは自殺行為故、相手をする場合はエルフ族の戦士らの後衛、もしくは支援を頼れ!! 砦に取りついた敵には砦内に用意しておいた石を落として対処せよ!!」
そのブラニエ辺境伯の号令に領軍の兵士らが気炎を吐いて慌ただしく動き始める。
しかしそんな彼らより先に動いていたのは、ブラニエ辺境伯が詰めていた砦とは別のもう一つの砦で指揮を執るセクト第一王子率いるローデン王国軍の兵士達だった。
彼らは砦の正面門が開くと同時に、統率の執れた千騎の騎馬隊が飛び出し、一糸乱れぬ動きで目前に迫って来ていた不死者兵を轢き潰し、接敵した蜘蛛人に対しては馬上から長い柄を持つ槍を構えて突撃、離脱してまるで戦場を這い廻る巨大な蛇の如く敵を薙ぎ倒していく。
そんな見事な戦いを見せる騎馬隊の先頭には堂々とした騎士姿のセクト王子が在り、後続の兵達もそんなセクト王子の奮戦する姿に士気を高く維持していた。
それを塔の屋上から眺めていたブラニエ辺境伯は、その光景を眩しいものを見るように目を細めて感慨深げに溜め息を吐くと、己の皺が刻み込まれた両手に視線を落とす。
「若いというのはそれだけで力だな……。儂はもう前線で戦うような無茶は流石にできん──な」
そう言って呟いたブラニエ辺境伯は、脳裏に領都で政務をこなしているだろう自分の秘書官の姿や、領内で暮らしている愛する家族らの顔が過る。
あまりに常識外れな光景が目の前で繰り広げられ、数瞬の間呆けてしまっていた──そんな自分と違いセクト王子は逸早く立ち直ると兵士達を纏め、自身が率先して先頭に立って恐慌状態であっただろう兵士らを鼓舞して前線を駆けているのだ。
かつては自身も戦場の前線に立って剣を振るっていた事が懐かしくもあり、そして自身が明確に老いた事を痛切に感じさせられたと──自嘲気味な笑みが漏れる。
しかしそんな思考を振り払うように大きく頭を振ると、傍に立っていた自分と同じく老境の域に達しているであろう、ダークエルフ族の大長老であるファンガスの姿を探した。
だが今まですぐ傍に仁王立ちしていた巨躯の男の姿は何処にも無く、塔の上から砦内を探して見つからず、次いで戦場へと視線を戻すと、セクト王子率いる騎馬隊の進路上に立ち塞がるようにして見知らぬ巨躯の老人が立っているのを目撃する。