ウィール川防衛戦1
サルマ王国ブラニエ領西部、ソビル山脈に源流を持つウィール川はサルマ王国を南北に横断しており、その流れは自領とその他の所領とを分かつ境界線としての役割を持っている。
そんな領境となるウィール川にはブラニエ領と王都ラリサを繋ぐ街道が交差し、川を渡る為に堅牢な石橋が架けられ、それら街道や橋を警備する為の兵士らの詰所としてかつてのノーザン王国の国境砦が転用されていた。
その改修、整備された領境の砦は通常配置されている人員に対して砦の規模が非常に大きく閑散とした雰囲気であったが、今は多くの人々で溢れて戦の前の高揚感とも焦燥感ともつかぬ張り詰めた空気が漂っていた。
川傍に建つ二つの砦に詰めるのは元々この砦で警備の任にあたっていた兵士だけでなく、ブラニエ領軍にローデン王国からの援軍の兵士達、さらにはエルフ族の戦士などの姿も見受けられる。
エルフ族に関してはカナダ大森林から派遣されてきた戦士に加え、ルアンの森からは二人の長老であるイワルードとセルゲの両名に率いられる形でドラントの里の戦士の多くが参戦していた。
人族にとって普段見る事のないエルフ族の戦士達は物珍しいもので、誰もがその姿を目の端で追うのは致し方のない事だが、それが単に物珍しいからだけで耳目を集めている訳ではない。
エルフ族の戦士の中には少なくない数の美しい女性の戦士が居る事で、普段は男社会で過ごす人族の兵士らの視線を否が応にも集める事となり、それが人族の生存圏が危ぶまれるような不死者との戦いを前にしてもいまいち緊張感に欠ける浮ついた雰囲気が残る理由でもあった。
今回の作戦は長らく互いに距離を置いていた人族、エルフ族、さらに今まで迫害されてきた獣人族までが加わり、手を取り合う事によって訪れる不死者の大軍の襲撃という未曽有の危機から自分達の生存圏を勝ち取る事が目的とされる任務なのだ。
互いの勢力の間に不和を生む行為は厳禁である事は、直属の上役からも厳命されている。
しかし敢えて口にはしないが、ここに集められた人族の兵士達の多くはエルフ族と人族の力関係を正確に肌で感じ取ってもいた。
多くの物資や人員を瞬き一つの内に見た事も無い遠地へと運ぶ転移魔法を操る者、兵士らが隊を組んで討伐するような魔獣を単独で狩って来る者など、噂には聞いた事があれども実際に目の当たりにして見ると、まざまざと人族とエルフ族の力の差を見せつけられたと感じる者も多い。
要は今回の戦いで人族はエルフ族にそっぽを向かれては後がなくなるという事だった。
人族の執政者らも、まさかエルフ族が両帝国を凌ぐ程の強大な存在だったなどと思いもしなかっただろう事は、人族がエルフ族に対しての態度が今までと今とで明らかに違っている事からも一目瞭然だった。
その証拠に、上役達がこの砦の中でも千名を超えない程度の数のエルフ族らに気を使う余りに、妙に遜った態度で相対している姿を何度となく見掛ける。
しかし、誰もがそれに対しておおっぴらに不満を口にしたりはしない。
その大きな要因ともなっている者が、砦の傍に設けられた簡易広場から翼を広げて飛び立った。
龍王フェルフィヴィスロッテ──伝説や物語、戯曲や詩などでしか聞き及んだ事のなかった生物の頂点に君臨する存在が、その巨大で美しい翼を広げて空を昇って行く。
全長が八十メートルを超えるその威容は圧倒的で、身分の高低に別なく、どんなに虚勢を張った者でもあの存在を前にして同じ態度でいられる者など存在しないだろう。
まさに理屈を抜きにした力の象徴そのもの──。
エルフ族が今回の戦いの為に協力を要請した龍王──これ程の存在を動かしえる彼らエルフ族に対して、大きな態度に出ようとする者など相当な馬鹿者か勇者だけだ。
そんな誰もが畏怖する存在である龍王がいれば、自分達のような末端の兵士など居ても居なくても今回の戦いの趨勢に寄与しないだろう事は何となく誰もが理解してはいる。
しかしそれでは今回の“協力”という前提が崩れる上に人族の沽券にも関わる事になるという事は、末端の兵士であっても選抜されてこの地に立つ事になった者達には理解できる程度の頭は持ち合わせていた。
現実は明白だが、あくまでも対等な立場での協力である──と。
兵士らも自身の国や家族を守ってきたという自負があるので、その点では執政者らのこの態度には一定の理解を得られ支持されていたが、彼らがそう理解するようにこの派兵が決定された際に行われた演説で先導された感がある事は否めない。
ただ多くの兵士らは味方側に強力な援軍がいる事に前向きであったという事も大きいのだろう。
それよりも兵士らの関心は、もっぱら今回の侵攻側の不死者の大軍を率いるのがあのヒルク教国であった事にこそ集まっており、その話が執政者らの口から聞かされた時の衝撃は筆舌に尽くし難いものがあった。
そもそも今回の敵が邪法を操るヒルク教国だという話に信憑性があるかという話題で、ヒルク教国が化け物に乗っ取られているというのはあまりにも突飛な話だったからだ。
しかも他種族を排除する為の条文は兵士達が子供の頃より既にあった教義内容で、それが事実ならヒルク教はかなり以前から化け物に乗っ取られていた事になる。
語られた話の真偽は不明だが、多くの種族が集結して事に当たる事態へと発展しているのは紛れもない事実で、その事が何よりも雄弁にその話を肯定しているようだった。
そうして整理できない感情を多くの兵士が抱えたまま、事態は急速な展開を見せる。
いつも定時に空からの偵察を行う為に王都ラリサ方面へと飛んでいた龍王が、この日は飛び立って間もなく再びこちらへと戻って来る姿を見張りの兵によって発見されたのだ。
龍王はそのまま砦傍の広場へと下りた後、しばらくして砦内の兵士らの間を伝令達が走り抜けながら敵の到着と、それを迎え討つ為の準備が各隊に言い渡されていった。
先程まで雑談に興じていた兵士らの顔が俄かに緊張の色を強め、その中には今回の敵が如何なる者なのかを確認しようと、砦の外壁に巡らされた歩哨路に上がる者もいた。
そんな彼らはウィール川の対岸を透かし見るようにして一様に目を細める。
今日の空模様は薄煙のような雲が空全体にかかっており、日中でありながらどこか薄暗い印象が視界の先に広がり、何やら不吉な予感を感じさせるのは、兵士内で囁かれる噂のせいだろうか。
そしてそれは固唾を飲んで見守る多くの兵士、戦士の視線の先に現れた。
遮る物の無い川の対岸──その先にあるなだらかな丘陵が広がる草原地帯に数多くの黒い染みが広がり始め、それはやがて南北を流れるウィール川に沿う形で静かに、しかし確実にこちらへと押し寄せて来ていた。
隊列を組んだ統率された軍隊が放つ威圧ではない。
ただ漫然と東のブラニエ領を目指す足どりながら、その圧倒的な数が生み出す景色はこの世界で暮らす者にとっては初めての光景で言い知れぬ不気味な雰囲気を纏っていた。
鈍色の装備に身を固めた一見ただの歩兵にしか見えない鎧兵士──それが無数の小集団を築いてゆらゆらとした魂の抜けたような足取りで向かって来る。
それだけを見ればただの歩兵の大集団でしかなく、事前に説明を受けた不死者であるという要素は微塵も感じられなかっただろう。
しかし幸か不幸か、その向かって来る集団の中に明から人の姿からかけ離れた存在が散らばる小集団の中に一体か二体含まれており、その姿を目の当たりにした兵士達が知らずの内に声なき声を上げて小さな悲鳴を漏らしていた。
「……大地が化け物で埋まってやがる」
その光景を目の当たりにした兵の一人が誰ともなしに呟いた言葉──それは歩哨路や見張り台に上がった兵士らにも同様の感想を抱かせるものだった。
下半身は横を歩く鎧兵士の身長程もある巨大な蜘蛛で、その上には枝分かれしたような二体のかつて人間だった物が生えて、それぞれの身体から伸びた四本の腕には思い思いの武器を携えている。
魔獣でも、ましてや人でもない異形の存在──歪に繋ぎ合わされたような奇怪なそれら化け物が、ゆらゆらと歩く鎧兵士の集団を率いるようにしてウィール川を──そしてその先に在るブラニエ領へと真っ直ぐに進んで来ていた。
不死者軍到来──それを知らせる警鐘が砦内で喧しく鳴らされて、先程よりも一層砦内が慌ただしい様相を呈し始めた。
砦内に設けられた塔の屋上からそんな様子を眺め下ろすのは、この領地を預かるブラニエ辺境伯と、カナダ大森林から派遣されてきたエルフ族の戦士を統括するファンガス大長老だ。
「情報を得て、此度の事はある程度予想していた事とは言え、あらためて自身の目でその光景を目の当たりにすると信じられない気持ちの方が大きいな……これが現実なのかと」
そう言って眉間の皺を深くして唸るように呟いたのはブラニエ辺境伯だ。
彼自身が語ったように、今の光景は王都からの使者が齎した報告を聞いた時点である程度予想し、覚悟していた出来事でもあり、その予想された未来から自領を守る為に隣国のノーザン王国まで自ら出向いて支援を願い出たりもした。
そこで偶然に伝手を得たエルフ族や獣人族、さらには東のローデン王国からも支援を取り付ける事ができ、辺境伯が当初考えられた以上の戦力が今この場に集結する事となった。
後にも先にも、これ以上の戦力を揃える事は叶わないだろう──。
辺境伯は知らずの内にウィール川の対岸に押し寄せる不死者の大軍を睨み据えていた。
ここで自身が破れる事になればこの先の領都も、そこに暮らす人々の命も失われる事になる。
自然と肩に力が籠る中、彼の横に堂々と腕を組んだ姿で立っていた巨躯の戦士──大長老のファンガスがそんなブラニエ辺境伯の肩を叩き、その凄みのある顔に笑みを貼り付けた。
「顔が強張っているぞ、ウェンドリ殿。そんな顔で臨まずとも、こちらにはフェルフィヴィスロッテ様が付いておられるのだ。我々は当初の予定通りに動けば、十分に勝てる戦いだ」
ファンガスはそう言うと腰に下げていた重そうな戦槌を軽々と振り、それを足元の石床に打ち付けて鈍い音を辺りに響かせた。
「カナダの戦士達よ! 手筈通りにまずは弓持ちが連中を川に釘づけよ! 後はフェルフィヴィスロッテ様が良いように計らって下さる! 存分に我らの力を示せ!」
砦の塔の屋上からファンガスの大音声が響き、集まっていた砦内に待機していたエルフ族の戦士達が一斉に鬨の声と、自身の武器を天へと振りかざした。
それと同時に、塔の屋上では長い支柱に幾つかの色を組み合わせた旗が手際良く取り付けられ、それが離れたもう一つの砦に向けて掲げられた。
川面を滑るように吹く川風に煽られ、大きく波打つその色旗に、離れたもう一つの塔が反応するように違う色旗を向こうで掲げられる。
それを合図に両砦に詰めていた弓持ちのエルフ族の戦士達が、砦内の川に面した歩哨路や塔の屋上に上がって弓を構えてそれぞれの配置に着いた。
対する不死者の大軍の先頭はいよいよウィール川へと到達し、その中でも歩いて渡れる程に浅くなった場所に続々と集まり、その内の少数が水飛沫を上げながら川を渡り始めた。
流石に不死者といえども足の着かない深みではその流れに対抗できないのだろう、自然と川の浅い場所を目指す不死者の先頭集団の隊列は一部が突出した形になる。
蜘蛛人に先導される形で不死者兵達が続々と渡河を開始し、一部が川の中程までに到達すると、突如その不死者兵の頭が吹き飛び、そのまま膝から頽れて川の流れの中に沈む。
それを始めとして、次々と川の中央近くへと足を踏み入れた不死者兵が倒れていく。
「これはなんという……」
思わずそんな声を漏らしたのはブラニエ辺境伯だけではない。
人族の兵士らは等しくその光景を信じられないものを見るような目で眺めていた。
不死者兵らを次々と討ち取っているのは、砦内で弓を構えたエルフ族の戦士達に因るものだ。
この砦がいくら川の傍に建っているからと言っても、標的である不死者が居る川の中央付近までは優に五百メートル以上は離れている。それを川風にも影響されず、正確に敵を射貫くというのは人族の知る弓の性能を遥かに超えた別の何かであった。
そして彼らエルフ族の戦士が放つ矢は、まるでそれ自身が加速するように飛び、時には緩く弧を描いて矢を避けようとする敵を正確無比に射貫いていく。
それは人の姿と同じ不死者兵だけでなく、対象が強靭な肉体や拵えのいい防具を身に纏った蜘蛛人であっても例外ではなかった。
矢が蜘蛛人の肉体に突き刺さる時、瞬間的に矢が爆発したように周囲の肉体を抉る効果を有している事で、巨大な蜘蛛の胴体や足をもがれ、行動不能に陥った蜘蛛人に両砦から容赦無く第二、第三の追撃の矢が飛来して、その異形の怪物の息の根を止めていた。
ブラニエ辺境伯がそんな驚異的な射撃の腕を見せるエルフ族の戦士達を注視していると、彼らは皆弓を構えた際に何やら呪文らしきものを唱えている事から、彼らが放つ矢は魔法の力を帯びているのだろうと推測する事ができた。
しかし彼らエルフ族の戦士が幾ら正確無比な射撃を放てるからと言って、それで二十万以上の異形の軍隊を退けられるかと言えば答えは否だろう。
川傍に建つ二つの砦に詰めるエルフ族の戦士──その中で今攻撃に参加している弓士の数は両方の塔の人員を合わせても千名をやっと超えた程度で、敵方の不死者軍の総数二十万が相手では埒が明かないというのが現状だ。
だが相手側にもそれなりに警戒感を持たせる程度には効果があったようで、幾体かの蜘蛛人の指示でウィール川の渡河が中止され、続々と押し寄せる後続と合流するように対岸にまで戻っていく。
少数での渡河は狙い撃ちにあうという判断から、射程範囲外の川の対岸で集結し、その後に一気に川を渡る段取りに切り替えたのだろう。
その判断はまさに現世をただ宛ても無く彷徨い、生者に牙を剥くだけの今までの不死者とは掛け離れた──明確な意思を持った存在に統率された存在である事を如実に兵士や戦士達の印象に刻み付けた。
「ウェンドリ殿の言葉ではないが、聞いて知っているのと、見て実感するのとでは大きな違いだな。不死者が明確な戦況判断を下すなど、我が目を疑う光景よ」
ファンガス大長老のその言葉に、ブラニエ辺境伯も同意するように頷く。
しかし敵側のこの行動は既に予測されていた動きで、策は順調に運んでいる証左でもあった。
不死者の大軍が対岸に集結する様子を二人は塔の屋上から静かに眺め、相手がいよいよ一気に渡河へと移ろうと胎動し始める様子を目の当たりにして、その時が迫っている事を知る。
「そろそろか……」
ファンガス大長老は独りごちるようにして薄曇りの空を仰ぎ、その視線を彷徨わせるようにして目的の姿を視界に捉えた。