涙の終幕
パニックに陥っていたエカテリーナは、ひとつ台詞を聞き漏らしていた。
「貴女は、守るべき人々に住む場所を与えるために、今まで闘ってこられたのですか」
聖女が尋ね、悪役令嬢が答える。その場面だったのだ。
まさに今、舞台の上の全員が、いや満員の観衆が、講堂内の人々すべてが、答えを待っていた。
「……」
悪役令嬢は答えない。
あの、強気の台詞と高笑いがよく似合っていた彼女が、突然ひどく弱々しく見えて、人々はいっそう惹きつけられる。藍色の髪の少女は、答えようと唇を開きかけたまま……泣き出しそうな表情で、ふるふると震えていた。
観客は、ほぼ全員が撃ち抜かれるようにして悟ることになる。
これが、彼女の本当の姿だったのだ!
亡びた国の民を守るため、ずっと無理をして、強がっていたのだ!
本当の彼女は、なんと可憐なのか……。
……魔法学園の講堂には、ところにより最大瞬間風速50メートルのギャップ萌え旋風が、吹き荒れてしまったようだった。
頭から筋書きが吹っ飛んでしまった上、何と話しかけられたのかも解っていないエカテリーナは、答えられない。パニックがつのるばかりだ。
だがそこに、救世主が降臨した。いや、もともと同じ舞台にいた。
聖女アネモーニことフローラである。
フローラは、エカテリーナをよく知っている。そして、かつて学園に魔獣が現れた時、冷静に闘っているように見えたくせに、撃退した後になってへたり込んだ姿を見たことがある。彼女も怖がったり泣いたりする普通の人間であることを、深く理解していた。
他のクラスメイトは、何も気付いていない。彼らは、下手をすると観客以上に、エカテリーナの演技力を過大評価している。なにしろ彼女は、学園祭よりもっと前の音楽の夕べから、常に規格外の大活躍をしてきたのだ。今も、頼もし過ぎるクラスのリーダーが、迫真の演技をしていると思っている。
だがフローラだけは、エカテリーナの中で何かが起きてしまったこと、今はただ混乱の中で怯えていることに、気付いたのだった。
そして彼女は、悪役令嬢がチワワからガチ悪役に変化した時も即対応できた、ポテンシャルの塊ゲームヒロインだ。
だから、フローラは動いた。
聖女らしいおごそかな足取りで悪役令嬢に歩み寄り、彼女の前に膝をつく。上半身だけを起こしている悪役令嬢と近い目線になって、微笑んだ。
「貴女はきっと、わたくしはそんな善人ではない、とでも言うつもりなのでしょう」
それー!
自分の台詞を言ってもらって、目を見開いたエカテリーナは絶賛同意……しそうになり、いや場面的にそれやっちゃ駄目!と、あわてて顔をそむける。
観客はごく自然に、まだ素直になれないのか……と解釈して、もういいんだ、もう一人で背負わなくていいんだよ!と悪役令嬢を心の中で応援するのだった。
「人を信じられなくなるほど、苦難を味わってきたのですね。信じてほしいとは言いません、でも」
言葉を切って、聖女はお供に目をやる。
ちょっと筋書きと違う、という戸惑いをさっと隠して、水魔が笑顔でうなずいた。
「そういう訳なら、住み処はこの方に譲ります」
「我々は聖女様についていきますので!」
樹魔も笑顔で同意する。
「ちょっとの間だけ認める」
実はここまでに何度も合言葉のように『聖女様のお供はわたくし一人で充分!』と繰り返していた猿魔が、嫌そうながら言ったので、客席から小さな笑いが起きた。
聖女が、悪役令嬢の手を取る。
微笑んで、言った。
「最初から、思っていたのです――貴女を、悪い人間とは思えないと」
半ば呆然と、エカテリーナは微笑むフローラを見つめる。
ま……まとまったー!めっちゃきれいに!
まだもう少し悪役令嬢とのやりとりがあったはずなのに、すっ飛ばして大団円の空気が出来上がった!
すごい、さすが!さすがヒロイン、さすがフローラちゃん!
「あ……」
ようやく、エカテリーナは言葉を発することができた。動揺の名残で震える声で、悪役令嬢の最後の台詞を言う。
「あ……ありが、とう……」
ひし!と、聖女と悪役令嬢は抱き合った。
その二人の周囲に、白い光の珠がいくつも浮かび上がる。ぱっと弾けるとそれらはキラキラとしたきらめきに変わり、抱き合う美少女たちを祝福するように、周囲を取り巻いて輝いた。
客席から、怒涛のような歓声と拍手が湧き起こる。
そこへ、ゆっくりと幕が下りてきた。実はフローラに続いてエカテリーナの異変に気付いたレナートが、筋書きの急変に戸惑う舞台袖に、早く下ろせ!と合図して下ろさせたのだったりする。
観客は次々に立ち上がり、学園祭の劇では異例の、総立ちのスタンディングオベーションとなった。鳴り止まない、否、いっそう強く打ち鳴らされる万雷の拍手の中、大注目の劇は、これにて終幕となったのだった。
「エカテリーナ様……終わりましたよ。お疲れ様でした、ご立派でした」
フローラが言ってくれたが、エカテリーナは動けなかった。
うわあああん、やらかしちゃったよー!自分で考えた脚本なのに、頭からすっぽ抜けるってー!
フローラの肩に顔を埋めて、エカテリーナは恥ずかしさやら、劇が終わった安堵やら、助けてもらった申し訳なさやらで、ガチ泣きしてしまいそうなのを必死でこらえている。
フローラは小さく笑い、優しくエカテリーナを抱きしめた。
「こういうエカテリーナ様は、久しぶりですね」
その言葉に思い出したのは、学園に現れた魔獣と闘った時のことだ。フローラに助けてもらって、一緒にへたり込んで……。
「エカテリーナ様の助けになれたなら、嬉しいです」
「フローラ様には……いつも、助けていただいて、ばかりですわ……」
エカテリーナは、しみじみと言う。
この学園生活、小さな日常のさまざまな場面で、フローラはいつもエカテリーナを助けてくれていると思う。支えてくれていると思う。
日常の、なんでもないようなことで差し伸べてくれる手こそが、かけがえないものだと。
ささやかな、喪って初めて解るそういうものの大切さを。
私は……知ってた……。
「大丈夫?」
レナートに声をかけられて、エカテリーナは我に返った。
そして、はっ!と周囲の状況に気付く。
て、撤収ー!撤収しなきゃー!
もう舞台には次のクラスが何かを運び込みつつあり、生徒会関係者が入れ替えをうながしていた。
「も……申し訳のう存じます。フローラ様、わたくしはもう大丈夫ですわ」
あわてて立ち上がろうとしたエカテリーナだが、足に力が入らなくて、よろめいてしまう。
それを、支えてくれた手があった。
それどころか、軽々と抱き上げられた。
「エカテリーナ」