悪役令嬢の歌
あー……心臓が口から出そう。
頭の片隅で、エカテリーナは思う。
一人きりの舞台から見渡す満員の客席は、あまりに広く遠く感じる。ユーリがエカテリーナを光の繭のようなスポットライトで包んでくれているせいもあって、なんだか、夢の中の出来事のようだ。
そういえば、廃墟を一人で彷徨っている夢を、昔何度も見たような気がする。あれは、今生で見た夢だろうか、それとも前世で利奈が見た夢だったろうか。
トランス状態、というのはこんな感じなのかもしれない。緊張すら、遠く定かではない。
そんなエカテリーナは、客席から見れば、憂い顔をうつむけて悲しげにたたずむ、美しい少女だ。悪役令嬢の衣装をまとってはいても、そうしていれば、公爵令嬢エカテリーナが持つ気品が露わになる。
どこか心細げですらある、先ほど登場した時とはまったく違う様子に、観客たちは目を見張っていた。
オーケストラボックスのピアノの前に座るレナートが、エカテリーナと視線を合わせて頷くと、その指先から聴き慣れた前奏を紡ぎ出す。
夢見るような表情で、エカテリーナは歌い始めた。
……美しい夢を見ていた。
希望は光り輝き、愛はすべてに勝り、救いの手は必ず、差し伸べられると……。
うろ覚えだった歌詞を、これもうろ覚えのためだいぶ適当にレナートに歌って聴かせて作り直してもらったメロディーに合わせて、皇国語で歌えるように訳すと、こういう感じになる。
レナートがキーをメゾソプラノに合わせてくれて、少し低い歌声は優しく、だからこそ、薄氷の下に哀しみがひそんでいることを予感させた。
客席は、水を打ったように静まり返っている。
意外であるに違いない。登場した時のエカテリーナは高笑いに毒々しい衣装、悪役がはまりすぎに見えていた。話題の公爵令嬢、未来の皇后最有力候補。それがああいうお方とは……と、役柄と本人を混同して、笑っていた者も多かったのだ。
けれど……。
令嬢の歌声は、美しかった。
確かにオリガとは、レベルが違う。この劇の練習に日参してオリガの歌を何度も聴いていた、一部の生徒にとっては物足りないに違いない。
しかし、この世界この時代、人々が求める歌のレベルはそれほど高くない。SNSも動画配信もありはしない、それどころか、音を記録できるレコードすらまだ発明されていないのだ。音楽を聴くには、音楽家を家に招くか、劇場に足を運ぶしかない。
ここにいるのはほぼ全員が貴族であるから、それなりに音楽に親しんではいるだろう。が、地方に住んでいれば、一流の歌手の歌声を聴く機会はまずない。
エカテリーナは一流の歌手であるディドナート夫人に学び、前世の合唱で学んだ発声の知識もあり、天性で優れた音感も持ち合わせている。本人が思うより、この世界における評価ははるかに高い。
そして、天才レナートの伴奏によるサポートがある。今まで何度も、オリガにディドナート夫人のアドバイスを伝えるために歌うエカテリーナの伴奏をしてきたことで、レナートは彼女の歌い方を知っている。歌いやすいよう全力で合わせ、また細かいミスのフォローもして、歌とピアノがトータルで美しいよう、レナートが調整して弾いているのだ。
さらに、楽曲の美しさ。この世界より数百年進んだ世界で、世界的に愛され歌い継がれてきた、名曲中の名曲。この世界の人々にとっては、洗練の極みだ。聞き惚れる他にない。
演奏と楽曲の魅力を加味すれば、これほど美しい歌声を生まれて初めて聴いた……と、そこまで感動している者が観客の中に多々いることも、不思議な話ではないのだった。
夢はまぼろし、とエカテリーナは歌う。求めた手は踏みにじられ、獣たちが襲うと。
願いは焼かれ、闇に閉ざされ、心を引き裂かれ―――――。
この歌最大の聴かせどころ、五段階に音程を上げながら歌声を強くしていく難所。
身を振り絞るように歌いながら、エカテリーナは腕を振り上げ、何かを掴み取ろうとあがくような仕草をした。まるで、蜘蛛の巣に絡めとられた蝶が、逃れようともがくかのように。
彼女、劇中の悪役令嬢は、運命のいたずらで悪に身を堕とさざるを得なかったのだと、もう観客は察している。苦しげにかろうじて歌い切る様子もただ哀れで、こみ上げる涙を抑えきれず手巾で目元をぬぐう者さえ見受けられた。
……実は腕を上げるのは、より声を出すためのテクニックであったりする。
前世、部活の友達が有名ボイトレの配信動画で見たと教えてくれたことであり、ディドナート夫人が経験則で知っていて教えてくれたことでもあった。エカテリーナとしては、とにかく声を出すのに必死だっただけなのだ。
しかしたまたまこの場面には、ばっちりはまった。
怪我の功名である。
探し続けているわ、安らぎのふるさとを……
夢はまぼろし、風が嘲笑う
難所を越えても、歌は続く。
本来の曲では、このあたりは、歌い手の女性を捨てた男を待ち続けているという歌詞だったと思う。まるで父を待ち続けて不幸に亡くなった母アナスタシアそのもののようで、エカテリーナはとうてい訳すことができず、大幅に変えてしまった。
作詞家さん訳詞家さん前世の関係者の皆様、ごめんなさい。
そう思っていたのは訳していた時のことで、今はとにかく必死だ。これから歌のクライマックス、叫ぶような絶唱と、儚く哀しい調べがくる。
夢の亡骸、と哀しく続けたあと――両手の指を鉤のように曲げて振り上げ、体を折ってエカテリーナは悲痛に、いま地獄に灼かれ……!と叫ぶように歌った。
圧倒され、観客は息を呑んでいる。
夢はもう二度と――――……。
叫びから一転しての、哀しいロングトーン。両手を拳にして胸に押し当て、エカテリーナはすべての息を振り絞って、歌い上げる。
……最後のフレーズの前に、エカテリーナは長い溜めを入れた。こっそり必死で息継ぎをして、回復するためである。
胸に 還ら ない……
必死の回復も効果はわずかで、最後は、消え入るような声になったが。
それがまた、哀れを誘ったのだった。
あああ終わった!苦しいいい!めっちゃしんどい!
どうにか立ち続けてはいても、エカテリーナはもはや酸欠状態で、気が遠くなりかけている。轟音のように耳に響くのは、自分の動悸の音ばかり。
だから……はるか彼方に思える客席で沸き起こった、怒涛のような拍手と、大波のようなスタンディングオベーションに、エカテリーナは気付くことができなかった。