挿入話〜薔薇の棘、水仙の毒〜
申請を終えたフローラが執務室へやって来たのを潮時に、エカテリーナはフローラと連れ立って寮へ帰って行った。
「お兄様の貴重なお時間をいただき、申し訳のう存じますわ。皆様にもご迷惑をおかけいたしました。ですけれど、どうかお仕事はお早めに切り上げて、お休みになってくださいまし」
一同に頭を下げ、いつものように働き過ぎを心配したエカテリーナに、皆が笑みを返す。
「近頃、忙しすぎるのはお前のほうだ。早く休むんだよ」
「はい、お兄様の仰せの通りにいたしますわ。皆様、ご機嫌宜しゅう」
そう言ってエカテリーナが部屋から去り、従僕のイヴァンが部屋の扉を閉める。
――すっと部屋の空気が変わった。
「ノヴァク、先ほどの報告の続きを」
「セルノー河の橋のひとつで、息絶えた老女が発見されたことまではお話ししましたな。それがノンナ・ザレスであったと、確認が取れております」
淡々とした声音でノヴァクが言い、アレクセイも顔色も変えずうなずいた。
ノンナ・ザレス。かつて祖母アレクサンドラの侍女であった老女だ。
アレクサンドラの死後も主人を崇め、皇都へ来てまもないエカテリーナに『今のお嬢様のなされようは貴婦人とはほど遠い、わたくしがアレクサンドラ様のような立派な貴婦人にしてさしあげます』と言い放ったものの、エカテリーナには鼻であしらわれ、アレクセイの怒りを買って、出入りの業者への支払いを着服していたことを暴かれてユールノヴァ公爵家から解雇された。
その後、ユールマグナ公爵家に身を寄せようとしたものの、すげなく追い払われ、行き場を失って皇都の片隅で鬱屈しながら余生を送っている……はずだった。
「泳がせるのではなく消したか。ならば、送り込んだ先が金の流れの要である可能性が高いな」
「そう考えられます。あの女も、鉱山のカナリア程度には役に立ちました」
祖父セルゲイの没後、アレクサンドラがユールノヴァ公爵家を牛耳っていた頃に、巨額の横領が行われ、その金はユールマグナ家に流れて行った。アレクセイと側近たちは、その流れを追って、ユールマグナが金を着服した事実を立証できる証拠を掴もうと、追跡を続けているのだ。
アレクサンドラの側近くに仕えていたのだから、ノンナはある程度は、アレクサンドラとユールマグナの癒着に関わっていた可能性がある。そう推測してノヴァクが配下の者をノンナに近付かせたのは、夏休みに入ってユールノヴァに帰郷する前のこと。
アレクセイたちがユールノヴァで過ごす間に、配下の者はユールノヴァの関係者であることを気取られることなくノンナに取り入り、彼女の境遇を嘆いてみせた。
そして言葉巧みに、彼女を誘導する。二つの公爵家のために長年尽くしてきたのなら、それなりの報酬をもらうのは当然。正面から訪ねて駄目だったのなら、伝手をたどって金のありかを探してみては――と。
ノンナは、たちまちその気になったらしい。そして、アレクサンドラに仕えていた頃に遣いとして訪ねた先や、逆にアレクサンドラを訪ねてきた人物など、ユールノヴァからユールマグナに流れた金が辿ったであろう心当たりを探り始めた。
……そのあげくに姿を消し、皇都を貫いて流れる大河セルノー河で、遺体となって発見されたのだ。海まで流れて消えることなく、河の両岸を繋ぐ橋の橋脚に引っ掛かっていたというのは、殺害者に一矢報いようとする執念もしくは怨念だろうか。
最後まで、履き違えた矜恃と金への執着だけを抱えて生きて死んだらしいノンナのことを、アレクセイもノヴァクも、悼みなどしない。
アレクセイは生まれながらの支配者階級であって、人の屍の上に君臨することを厭いはしない。統治者のために生きる者があり、統治者のために死ぬ者がいることを、当然と受け止めている。
が、ふと妹が去った扉に目をやって、呟いた。
「解っているだろうが、エカテリーナに知られることのないように。ユールノヴァの女主人を侮辱した痴れ者であろうと、人の死を知ればあの子の心に影が落ちるだろう……あの子には、暖かいもの、優しいものだけを目にしていてほしい。あの子が人に与える通りのものを、あの子自身も受け取るべきだ」
「決してお嬢様のお耳に届くことのないようにいたしましょう」
ノヴァクも近頃はたいがいお嬢様に甘い。……まさかそのお嬢様が内心で『ご意見番が機能してくれないー!』と嘆いているとは夢にも思っていないが。
「しかしこの先へ如何にして進むか、ですな。横領自体は状況にあぐらを描いた傍若無人なやり口でしたが、今の、痕跡を消す動きは素早く容赦がない。それこそ毒蛇のように。手の者を送り込んでも同じことになるか、最悪は逆にこちらが辿られるやもしれません」
「……押すばかりが能ではあるまい。追い込んでいるのはこちらだ、しばらくは表の経済で攻めれば、いずれ綻びを見せるのではないか」
アレクセイが商業流通長のハリルに視線を向ける。ハリルは異国の美貌ににやりと笑みを浮かべた。
「あちらはその点では、素早くも容赦なくもありませんので。商売で戦争をさせていただけるなら、侵略してお見せいたしましょう」
「よかろう。ただしあまり派手にやれば、マグナが陛下に泣きつく可能性がある。陛下が問題視なさらないギリギリのところまで切り込め」
「御意」
ハリルは笑顔で頭を下げる。
「では私は、あちらの派閥を切り崩しにかかりましょう。セレズノア侯爵家がこちらに従ったことで動揺が広がっている今が、好機ですので」
ノヴァクが涼しい顔で言った。かつて国政を牛耳る宰相だった祖父セルゲイを支えた老練な彼にとって、貴族たちの派閥を崩すのは手慣れた作業だ。
……派閥の動揺はセレズノアのことだけでなく、次代の皇后を立てるのはユールノヴァという見方が固まりつつあるためでもあろう。が、それについては、ノヴァクは触れない。今はまだ。
と、鉱山長のアーロンが挙手した。
「念のため、博士を皇都へお呼びしたいですがよろしいでしょうか」
「大叔父上を?」
アレクセイは怪訝な顔をしたが、すぐにうなずいた。
「虹石魔法陣だな。あの件が知られれば、多くの貴族が反ユールノヴァに回り、形勢が逆転する恐れがある」
エカテリーナがその存在を知った時、前世の蒸気機関に匹敵すると考えた、虹石魔法陣。兄妹の大叔父アイザック・ユールノヴァが生み出したそれは、発動した魔力を、虹石と魔法陣の特性により自動継続することができる。まだ研究段階だが、実用化されれば、この世界に産業革命を巻き起こすであろう。
しかしそれは、現在は貴族が独占する魔力の恩恵を、魔力を持たない人々も享受できるようにするものだ。貴族たちの反発は必至であるため、今はまだ秘中の秘となっている。
「はい。今のままユールノヴァ領の旧鉱山に居てくだされば安全とは思いますが、あそこも人の出入りが多く、よそ者が入り込んでも解りません。それに、ふらりと何処かへ調査に出向いてしまうことも有り得る方です。万一、博士の身柄を押さえられでもしたら……博士は研究内容を隠すことなどできない方です。すべて知られてしまうでしょう。
博士を皇都へお呼びして、身辺をお守りしつつ、お嬢様のガラス工房などに興味を向けていただければ最善かと。博士なら、お嬢様にとっても有用な発明発見をしてくださるかもしれません」
アーロンの、眼鏡の似合う学者風の容貌に熱意があふれていた。かつてアイザックの助手だったアーロンは、今もアイザックの熱烈な信奉者なのだ。
「ふむ」
少し考え、アレクセイはうなずいた。
「いいだろう。大叔父上はれっきとしたユールノヴァの一員、皇帝皇后両陛下にも覚えめでたい高名な学者だ。この皇都でその身に危害を加えるほど、マグナも愚かではないはずだ。お呼びしろ」
「御意」
嬉しげに、アーロンは頭を下げる。
「今からお呼びするなら、この冬は皇都で過ごしていただくことになりますな。祭りや新年を、ユールノヴァの血族たる方々がご一緒されるのは喜ばしいことです」
ノヴァクが言い、ハリルが微笑んだ。
「十二月にはお嬢様の誕生日もありますね。博士に一緒に祝っていただければ、お嬢様もきっとお喜びになることでしょう」
「そうだな。あの子のために、幸せな日にしてやりたい」
その日のために準備しているものを思い浮かべて、アレクセイも唇をほころばせる。
だがそんな甘やかな想いを自分に許したのはわずかな間で、すぐに若き公爵は表情をあらため、冷徹な統治者の顔に戻った。
「次の件を」