第5章:乖離(9)
ミストが教授に就任して以降、様々な変化が大学内部に訪れた。
まず、大学は大々的に20代の教授を宣伝し、学生の勧誘と後援者の開拓を促した。
その一方で、地域密着のアピールにも精を出し、地盤を固めた。
ミストは広報活動の為各地に飛び回り、大学内にいる事が少なくなった。
とは言え、彼の教えを受けたいと希望する学生は後を絶たず、研究室に訪れる数は殆ど減少しなかった。
また、ミスト研究室のメンバーも様変わりしていた。
リジルが抜け、その補充として学生を一名、他の研究所からゲストとして一名を招き入れた。
彼らは二人とも、ミストの研究テーマを補助する形で仕事に携わり、ミストの不在の間に実験やデータ解析などを行う役割を担っていた。
そして――――
アウロスは、毎日のように実験室に篭っていた。
魔具の材料は生物兵器、金属共に調達ルートの確保には至っていないが、単体で入手する事は困難ではなく、実験する上では不自由はない。
リジルの言葉に倣い、一応手紙は出してみたものの他に出来る事もなく、仮説と実験と分析と照合に追われる日々が続いた。
「……にしても、こうも連日泊り込みって、幾らなんでも極端じゃない?」
研究室で目覚めたアウロスに対する、クレールの第一声。
それはもう、完全に日常の一風景と化している。
「実験終わって器具片付けてデータ整理して、その後家に帰る気力はない」
「データ整理は翌日に回せば良いじゃない」
「ああ言うのは、勢いでやらないと効率が悪いんだ」
特に、同じ数式ばかり用いる計算処理には、常に惰性と睡眠欲が付きまとう。
一つ気を抜けば、たちまち行動意欲が消えてしまう。
研究の日々は、明日やれる事を如何に今日に手繰り寄せるか――――それが重要だ。
「ま、わかるけどね。珈琲飲む?」
「美味しく頂きます」
アウロスは丁重な姿勢でカップを受け取った。
芳ばしい豆の香りが鼻腔をくすぐる。
気付けとしては最適だった。
「……で、あの女も毎日付き合ってるの?」
「片付けまでは」
「はー。自分の仕事が終わって、今度は仲間の仕事を手伝って……そんな魔女何処にいるってのよ」
「魔女じゃなかったんだろ」
アウロスは適当に答えたつもりだったが、クレールにはそれがフォローに聞こえたらしい。
年齢的に微妙な小悪魔的笑みを携え、半眼でアウロスを冷やかしに掛かる。
「うはー、相互理解ってヤツですか。やっぱりそう言うのって、愛の成せる業?」
そんなクレールのふわふわした発言に、アウロスは怪訝な表情を浮かべた。
「愛?」
「あれ違った? てっきりそうだとばかり……」
「違うんじゃないかと」
全否定。
「あ、そ。ま、あの女に愛程似合わない言葉はないけど」
冷やかし甲斐がない年下の少年に辟易しつつ、クレールは珈琲を一口含んだ。
「にしても、雰囲気変わったね、ここ」
「だな。日中はうるさくて居られやしない」
「特に女の子ね。最近の子供は計算高いと言うか。『勝ち組に乗る為には早い内に取り入っとかないと』とか『教授を射るには先ず助手を射なきゃ』とか、平気で言ってたし。ま、そう言うのはレヴィに軽くあしらわれてたけど」
「あいつそう言うの得意そうだな」
ほぼ毎日、年下の女性に囲まれ、ピーチクパーチク鳴き声を聞かされている人間にとって、その手の対処はお手のもの。
何事にも言える事ではあるが、経験は大事だ。
「そう言えば貴方、あいつともギスギスしたのなくなったよね。仲直りでもしたの?」
「向こうが一方的に忌避してたのを、急に一方的に歩み寄って来ただけだ。不気味で仕方ない」
顔に青い線が入りそうな声で、項垂れる。
アウロスにとって、ある意味疲労以上に厄介な事態だった。
「機嫌が良いんじゃない? 憧れのミスト教授が偉業を成し遂げたんだし」
「あんたもね」
「わ、私は別に機嫌なんて……」
さっきまでの威勢は何処へやら。
自分の事となると、途端にどもる。
クレール女史、打たれ弱し。
その姿を珈琲カップ片手に眺めていたアウロスの耳に、扉の開く音が届いた。
同時に、まるで寒露が背筋に一滴落ちたかのような冷感が身体を撫でる。
それは、敢えて断たないでいる時のルインの気配に他ならない。
アウロスが振り向くと、案の定その姿があった。
「……またここに泊まったの?」
「あ、ああ」
「睡眠はちゃんと自室で取りなさい。疲労をしっかり抜かないと怪我の回復が遅れるでしょう?」
それだけ言って、自分の席に付く。
以前ではあり得ない風景に、クレールの目が再度妖しく光リ始めた。
「甲斐甲斐しいのね。やっぱり愛?」
「……」
ルインは一瞬すら感情を見せず、極めて静かにクレールを視界に納めた。
「俗悪な発言。御目出度い人生を送ってる証拠ね」
「なっ、何ですって!?」
怒号が響き渡ったが、ルインは意にも介さずニヤリと笑い、視線を落とす。
その様子に、クレールが拳を震わせる――――そんな光景も、これまでとは少し異なっていた。
「くっ……年下のクセに何て生意気なヤツ」
「俺を見て言うな」
そのやり取りに、ルインが再び顔を上げる。
「年齢で序列が決まるのは学生だけ。頭脳の質は生きた時間には比例しないの。歳が上と言う理由で驕るなど、勘違いも甚だしいですよ、先輩」
冷罵は続くよ何処までも。
「うあー生意気! ほんっと生意気! 年下のクセにっ!」
「だから俺を見るなって」
「良くあんなのと付き合えるね、君」
「付き合ってない」
会話のテンポだけは良かった。
「あーっ、もうっ! もうこの怒りを実験器具と腹黒学生に発散してやるから!」
「程々にな……」
物凄い勢いで何かを書き殴り始めたクレールから、視線を外す。
窓の外では朝陽が眩しく煌いていたが、躍動感や高揚感は抱かない。
研究員の朝は、いつだって気だるかった。
「ふあ~」
「眠そうにしているな」
そんな所にレヴィが出勤。
これまでならば、嫌味の一つでも吐き棄てる場面だが――――
「睡眠はしっかり取らないと、研究効率が上がらないぞ。体調管理を怠るなよ。幸い、疲労回復に良いとされている薬草入りの飴を所持している。これを舐めておけ」
「……はあ」
余りに奇妙なその気使いに、アウロスやクレールはおろか、ルインですら引いていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
新入りの男二人も出勤。
二人とも個性の欠片もない、どこにでもいる顔と声と体格と格好だった。
そして、また一日が始まる。
特別研究員とは言え、日中はミスト及び他の研究員の補助(右腕負傷中に付き資料整理等が中心)にもある程度時間を割かなくてはならない。
その間を縫って、自身の研究の資料整理。
そして夜は論文作成。
ミスト研究室は少数人数の構成で、特別研究員と言う立場もあり、アウロスは余り縦の繋がりに強制されない。
よって、通常若手研究員を大いに悩ませる『先輩の雑用』が少なく、その点ではかなり恵まれた環境と言える。
それでも、一日中動き回れば疲労は溜まる。
更に、右腕が固定されたままなので、動作に制限が掛かり、かなりの負担になった。
接骨院にも、週二回の割合で通院。
「治りが遅いですね……まだ骨がくっ付いていないと思われます」
腫れの引かない肩及び上腕部を見た院長は、全快にはまだ時間が掛かると言う診断を下した。
(上手く行かない時はこんなもんだな)
アウロスは心中で苦笑いしつつ、ルインの責任感を刺激しないかと心配したりした。
それ程に、ルインは変わった。
と言うよりは、元々の性格が表に現れて来たと言う方が正しいのかもしれない。
領主の娘と、奴隷。
そんな関係で出会った際の丁寧なお辞儀が、アウロスの記憶に鮮烈な印象を残していた。
つい最近までは消えていた記憶が、今は色濃く思い出せる――――それもまた、乖離による影響だった。
「……」
アウロスは、夢を見るようになった。
深い眠りの際に見る夢は、決まって悪夢。
相場はそう決まっている。
色彩がぼやける景色の中、それが夢だと気付くのは実に容易だった。
現実感のまるでない朧げな視界に映るのは、嘗て学生として、そして研究員として三年間滞在した【ヴィオロー魔術大学】の研究室。
そこには誰もおらず、不安定な輪郭の机、椅子、テーブル、紙くず、ゴミ箱が今にも消えそうに佇んでいた。
そんな中、机に置かれた一枚の紙だけが、くっきりと浮かび上がっている。
そこには、雑な字でこう書き殴られていた。
『いつまでいるんだよクズ 才能ない奴は何やっても無駄 消えろ』
慣れている。
いつもの事。
取るに足らない。
詰まらない。
羅列される抗拒の思念に力はなく、自身の行く先に霞が掛かる。
たかが夢。
たかが記憶。
それは非現実であり、過去。
現実であり、現在である今とは切り離せるものばかりだ。
しかし、目覚めの瞬間に見えるのは――――深穽の底。
終わりの果て。
気の遠くなりそうな闇の群れに意識が揺れ、脳が痺れる。
そして、それが連日にように続く。
時に、夢は奴隷時代の映像まで映した。
人としての扱いなど皆無だったその日々は、今も尚アウロスの身体に刻まれている。
毎日、魔術をその身に受けた。
炎、氷、風、雷、土、石、蒸気――――あらゆる種類の攻撃が、肌を蝕み、神経を削った。
その頃の、目の奥が嵐の日の海原のようにうねる感覚に苛まれ――――アウロスは体調を崩した。
「無理のし過ぎ。唯でさえ最近変な病気が流行ってるって話だし」
「そうですよー。ちゃんと休まないと身体に毒ですよー?」
周囲には怪我と無理が祟ったと言う認識をされ、アウロスは無理矢理自室に押し込まれた。
それがまるで、世界から隔離されているような錯覚を引き起こし――――深淵を更に深めた。
乖離する意識。
剥き出しになる脆弱性。
アウロスは、誰にも悟られない場所で、静かに怯えていた。