293話 海兵の動揺
モルテールン家は騎士の家である。
元々の初代カセロールが騎士であったこともそうだが、カセロールの父祖もまた馬に乗って地を駆けた一族だった。
先祖代々騎士であったことで、基本的にモルテールン家の人間は陸戦についてはやたら詳しい。殆どの知識や経験が口伝で伝わる世界で、先祖の誰も経験していないことは語られることが無い。同時に、先祖の多くが同じように経験してきたことは、失敗経験も豊富にあり、知見が凝縮されて伝わるもの。
こうこうこういう時はこうしなさい。祖父の祖父がかつて同じ状況でこうしてこうなった。
などという経験談を、代々に伝えていく。
知識と経験の継承。これは貴族が世襲されていく理由の一つであり、重要な特権の一つ。
そこらの平民に、さあ戦ってみなさいと言ったところで、どれほど優秀な人間でも必ず失敗の一つや二つやらかす。実際に過去の多くの先人がやらかしているのだから、同じ落とし穴に嵌る可能性は極めて高い。だからこそ、落とし穴を最初から教えてもらえる人間というのは、貴重なのだ。
そしてこの知識の継承は、騎士だけに行われるものではない。
大工、鍛冶師、料理人、執事、庭師、或いは農家。どんな職業でも、受け継がれていく知識や経験がある。
勿論、船乗りにも同じことが言えた。
「海は広い」
「ええ、そうですね」
ボンビーノ子爵家で第六小隊を預かる隊長ニルダ。
彼女は生粋の船乗りだ。
父親は傭兵団の頭を張っていて、船を駆って西へ東へ。縦横無尽に泳ぎ回って活躍した海の男。
その血を色濃く受け継ぎ、船を家として父の傍で育ったニルダもまた、海の女だ。
ボンビーノ家で従士として取り立てられて立身出世を果たした今でも、その存在理由が変わることは無い。
海に生き、海に生かされ、海に死ぬ。
そんな海洋民だからこそ、海の偉大さ、広大さも骨身にしみている。
モルテールン家の御曹司が只者で無いことは嫌でも知っているが、だからと言って海に関しては自分以上に詳しいはずもないと、ニルダは改めて海についてペイスに語る。
「正直に言って、ただ闇雲に網を張るって言っても、そこに魚がいなけりゃ意味がねえ。モルテールンの坊ちゃんなら分かるだろ」
「勿論です」
「それなら、どう網を張る? 考えがあるんだろ?」
海人らしく、盗賊の捜索を漁業に例えるニルダ。
海は広大である。魚を欲しても、魚の居ない海域など幾らでもあるのだ。
だからこそ漁師は漁場を秘匿する。魚の群れが集まる場所の知識は、漁師の財産だ。
ニルダは、魚の居ないところで船を出す無意味さを語り、ペイスに考えを尋ねた。
この坊やならば、作戦の一つや二つを腹に抱えていても不思議は無い。むしろ一計を案じているに違いないという確信。
「一つは定置網」
「ほう」
「港の船着き場に網を張ります。賊がまだ国内に居るのなら、船で逃げるのに必ず港を使います」
ペイスの言葉には、ある程度の道理が含まれていた。
海の上を移動するような魔法でもない限り、海に逃げるならば船を使う。
神王国の周りの海は一部を除いて外海であり、波は高く風も吹く。小舟で出れば早々に転覆の危険性がある。
ならばそれなりに大型船の寄港する港を抑えるのは道理である。
ただし、賊が海から逃げるのならば、という前提があれば。
ニルダは、このあたりが気になった。
「陸で逃げてるならどうなるんだい?」
「陸を逃げて、モルテールン家の【瞬間移動】に移動速度で勝てるなら、それはもうどうしようもないでしょう? 無駄なことを考えても仕方ありません」
「それもそうか」
ニルダの疑問は、ペイスが答えたことで氷解した。
もしも王都から逃げ出した盗賊が大地の上を逃げているのならば、完全な空間短縮が可能なモルテールン家から逃げられることは無いだろう。速さというなら、一瞬で長距離を移動できる【瞬間移動】に勝るものはまずありえない。
勿論、賊もそのことは重々承知しているはずだ。明らかに組織的に、動いている形跡があるわけで、モルテールンの下調べは入念にしているだろう。ならば、陸でモルテールンと速さを競うなどという負け確定の勝負を挑むはずもない。
「賊が南に逃げていたならば、必ずどこかで海に逃げます。僕ならそうする。海に逃げてしまえば、【瞬間移動】は無意味です。ことを起こし、火事で注意を逸らした僅かな時間的優位を活かすためにも、先行逃げ切りで大海原へ逃走。これが最も、モルテールン家から逃げられる確率が高い」
王都でモルテールン家の注意を逸らし、龍の卵を盗んだ賊。手際は実に見事だった。
当初、ペイスが想定した逃走方法は三つ。
一つは王都潜伏案。
隠密に適した魔法や、或いは潜伏する組織の協力で、龍の卵を持ったまま王都内か、或いは近辺に隠れる。ほとぼりが冷めるまで隠れきれば、相手にしてみれば勝ちだ。
しかし、この案はカドレチェク家と、非公式ながら王家が動いた時点で破棄しても良いだろうと考えられた。
元々王都の治安を預かる軍家筆頭のカドレチェク家が、本気で捜索に動いたわけだし、物量にあかせたローラー作戦でもやればまず尻尾を掴める。
第一、龍の卵というもの自体、生ものだ。出来るだけ早くに然るべき環境に置かねば、もしかすれば腐敗が起きるかもしれない。或いは卵が生きていれば孵化するかもしれない。
不確定要素を抱えたまま、息を潜めるのも愚かな話。
もう一つは、検問の届かない所から逃げる。
例えば空を飛んで逃げるような可能性も考えた。
しかし、この逃走方法だと魔力的に見て必ず数回は息継ぎや休憩が要る。
かつてペイスは、穴を掘って逃げる賊と戦ったこともあるのだ。似たような魔法を使い、検問を突破して逃げる可能性は有ると踏んでいた。
しかし、これは一見すればうまい手でも、どん詰まり。必ず捕まる悪手だ。空を飛べば遠くからでも見えるし、穴を掘れば穴が残る。魔力だって無限に続くわけもなく、空を飛ぶなら必ず休憩は必要。
どんな方法にせよ、運搬途中で一切の痕跡を残さずにいることはまず無理だし、王家には追跡に長けた魔法使いも居る。東西北の国境が厳重に封鎖されれば、最終的に逃げるのは南。モルテールン家の勢力圏である。
結局、逃げるならば最初から南に逃げ、それも出来るだけ早期に海に逃げる。検問が敷かれる前に検問を超えること。
これが、賊たちにとって、神王国の捜査体制とモルテールン家近縁の戦力を勘案した上での最適解だろう。
ペイスは強い確信をもって断言する。
「港はうちだけじゃないんだが」
「勿論その通り。後は、レーテシュ伯にも既に連絡を飛ばして、目ぼしい外国船には臨検するよう要請しました。逃げるために船足を求めれば、小舟の漁船しかないような漁村ではなく、大きな帆船を泊められる港に的を絞るべきでしょう」
「妥当っちゃ妥当だな」
神王国の東部であったり、ボンビーノ領とレーテシュ領の間であったりには、小規模な港も点在している。しかし、これらは本当に小さな漁村だ。港というより、ボートを係留する船着き場程度のもの。
ペイスの予想通り泥棒が南に逃げたのならば、ボンビーノ領以外ではレーテシュ領から船で逃げ出す可能性もあった。
ペイスは勿論そのことも踏まえ、事前にレーテシュ家に伝言を届けている。
対応としては迅速であり、網は最大限広げた上で、徐々に狭めるという原則にも則っているとニルダも頷く。
「問題は、それで捕まらない場合ですが……」
「どうするんだ?」
「一旦仕切り直しでしょう。しかし、多分大丈夫だと思いますよ」
王都と近辺は封鎖した上で虱潰しに探しているのだから、まず安心だ。
北と東と西は、他人任せながら出来得る対策はしてある。これらのどちらかに逃げれば、ほぼ間違いなく捕まえられるだろう。
南に逃げても、ずっと陸伝いなら【瞬間移動】でカセロールが対応できる。
そして海から逃げることに対して、ペイスが対応しようとしているのだ。
出来るだけの最善を尽くしたとペイスは言う。
これで捕まらないとなれば、後はもう既に海の上に居る、という可能性ぐらいだろう。
それについても、ペイスは大丈夫だろうと楽観視している。
「何でだい? 自信の根拠を知りたいね」
「ボンビーノ家には“鳥使い“が居るじゃないですか。障害物の無い広範囲な海を見渡すのに、空から見下ろすほど有用な捜索はありません。それで駄目なら、諦めも付く」
「ははは、こりゃ一本取られた。まあ、うちらに任しておきな」
確かに、海の上の探し物なら、ニルダ達ボンビーノ家のお家芸だ。
特に、鳥使いの魔法使いがボンビーノ家に仕えるようになって以降、ニルダ達海兵と、連携を取れるように訓練もしてきた。
彼女たちにとっての縄張りである海上で、しかも最も土地勘のある範囲で、探せないとしたら他の誰にも無理だろう。
そう暗に信頼を向けられたニルダは、呵々大笑する。
気合が入ったのだろう。
ニルダ達の働きにより、一つの報せがもたらされる。
「……最悪、の一歩手前ですかね」
既に、それらしき外国人が大きな船で出航済みという報せだ。
時間的には、港に網を張る僅かに前。本当にギリギリのところで逃げられてしまっているらしい。
「敵ながら、天晴れです」
「賊を褒めてどうすんだい」
「そうは言っても、この手際の良さは中々に見事ですよ? 予め完璧に手配を済ませておいて、ことを済ませるにじっと機会を狙い、いざ動き出せば迅速で果断。迷うことなく目的を達成し、逃げる時は脇目もふらずに一目散です。これが自分の部下なら鼻高々で自慢しているぐらい優秀ですよ」
余裕綽々で賊を褒めたたえるペイスに、ニルダは呆れた。
「しかしこれで尻尾は掴みました。海の上に居るとなれば、ニルダさんたちの出番です」
「あいよ、大船に乗った気持ちでいるこった」
「お願いします」
ニルダの号令の下、捜索船の用意はすぐにも整った。
日頃からボンビーノ家第六小隊の愛用する高速船で、屈強な漕ぎ手もついて無風でもそれなりに動ける自慢の船だ。いつでも動けるようにメンテナンスは万全に整えてあるし、即座に動けるように水や食料が何時でも備えてあるという手際の良さ。
任せろと自信ありげに請け負うだけのことはある。
ペイスを載せ、ニルダ達が櫂を取れば、あっという間に海の上。風と波を切り裂くようにして船は進む。
「いた!! 姐さん、見えた」
「姐さんって呼ぶんじゃないよ。今は団長と呼べって何回言えば分かるんだい。それで、方角と距離は」
「距離三百強で二時の方角」
「ああ、あれかい。あたしにも分かった」
船のマストの上。見張り台から、声がした。
台に居たのは、ニルダの部下の中でも一等目の良い熟練の船乗りで、見間違いというのはまずない。
「見つかりましたか」
ペイスが、騒ぎを聞きつけ甲板に立つ。
目のいいペイスでも、流石に海の見方は習っていない。
貴族様、あっちです、などという船員の言葉に、指さされた方を見れば確かに船があった。
「見えたかい? あれだよ。外国人を乗せてるくせに、普通の交易船を装っていた船っていうのは」
「これからどうやりますか? あの船を止めないといけませんが」
「安心しな。あそこら辺は哨戒の範囲内だ。おい、お前ら、停止命令を送れ!! 旗揚げ!!」
「「了解です、団長」」
ニルダの命令で、船員たちが一斉に動き出す。
船の奥から旗が持ち出され、マストにするすると掲揚された。
旗の意味するところはシンプルで、逃げる船に対して停船を命じるものだ。
この旗を見ておいて逃げるとなると、即撃沈されても文句の言えない代物。しかも、日頃から哨戒としてボンビーノ家の船がうろついてる海域であり、旗を無視して逃げるような船が有ればまず間違いなく捕まえられる。
「姐さん、うちの船が奴さんの船を停めた」
「よくやった。モルテールンの坊ちゃん、何とか足止めは出来たようだよ」
「よろしい。ならば先方の船まで近づきましょう」
海洋貴族のボンビーノ家は流石である。
ボンビーノ家の公船から逃げるようにして進み、停船命令を無視する船を、哨戒の為に巡回中の船が捕まえた。
こうなれば後はこっちのものだと、ペイスは賊と思しき船に近づくように指示する。
流石に龍の卵があるかもしれない船を、即沈めろとは言えない。
ゆるりゆるり、確実に接近するペイス達の船。
「姐さん!!」
「あれは……なんてこったい!!」
賊の船までもう少し。
そんなタイミングで、ニルダが嫌そうな声を出す。
「どうしたんです?」
「あちらさんの船の足止めは出来てるが、厄介なもんを揚げやがった。ほら」
「厄介なの?」
「ありゃ聖国の旗だ。しかも公用船の旗を上げてやがる」
ペイス達の船と、足止めをしている巡察の船と、そして賊の船。
それがひと固まりになっているところで、高々と掲揚された旗。旗印を見れば、聖国の公式な持ち船。公用船だった。
「つまり?」
「このままだと完璧に外交問題になるってことだな。国と国の」
敵はどうやら聖国。しかも、万が一捕まった時の用意までしていたとは周到なことである。
普通の対応ならば、ここで一旦膠着状態になるだろう。
だがしかし、世の中には普通でない人間というものも居る。
「よし、突っ込みましょう」
「はあ!?」
「総員、戦闘準備!! あそこにいる船を、強制的に接収します!!」
ペイスは、過激な命令を下すのだった。