283話 不穏な啓示
モルテールン子爵領を含む神王国の南部。今経済的に最も伸びている地域ではあるが、その更に南方、神王国レーテシュ伯爵領と海を挟んで向かい合う大国をアナンマナフ聖国という。
一般には聖国と呼称されるこの国は、祭政一致の宗教国家である。
宗教勢力が権力を直接握っている政治体系ということで、取りも直さず魔法研究が盛んだ。
たとえば近年最も成果をあげた研究は、植物を操作する魔法によって、食料生産量を増大させるというもの。一人の魔法使いによってより効率的な農業を行うことで、特定の教区に限ってのことながら食料生産量を三割ほど増大させる結果を出し、国力の増大に大きく寄与している。
或いは他人を眠らせる魔法を、医療分野に活かす試み。元々戦場で敵に使用して活躍していた魔法であるのだが、戦いの中の強いストレスから不眠症を患う自国の兵士に使ったことがきっかけで、気患いの療養や不安感の軽減に役立てないかと研究が始まり、実用的な効果が認められている。
一事が万事この調子であり、政治、経済、軍事、外交とありとあらゆる面で魔法という超常の力が利用され、かつ大きな成果をあげてきた国。それが聖国。
そして勿論、諜報の世界でも魔法が使われていた。
「ふむ……」
金糸をふんだんに使った、豪華な服を着こんだ初老の男性が、羊皮紙を見ながら声を漏らした。
コリン=エスト=チャフラン枢機卿。
聖国の中でも商業の盛んな重要教区を預かる重鎮であり、次期教皇の有力候補者の一人と目されている重要人物でもある。現在の教皇は既にいつ身罷っても不思議の無い高齢であり、数年単位の間隔で見るならば、近々最高権力者に上り詰めてもおかしくない人物。
また諜報に関しては対外諜報に重きを置いていて、俗にいう強硬派に属する人物でもあった。
神王国に対しても、徹底的に強気の外交を行うべきという持論を持つ。
そんな男が、何事かを悩み始めた。
「猊下、何か気になる報告でもありましたか?」
考え込むチャフラン枢機卿に声を掛けたのはイサル=リィヴェート。
聖国においては存命の優れた魔法使いに贈られる、十三傑の称号を持つ一人に数えられる。
序列席次五位という凄腕の魔法使いであり、チャフラン枢機卿の庇護下にある切り札の一人。
三十になったばかりという年でありながら、枢機卿にとってはよき相談相手となっていて、一説には恋人同士という噂まである程親しい関係にある。
勿論、同性愛を戒律で禁じている宗教国家でそんな関係性は有ってはならないし、次代の教皇になろうかという野心家がそんな下らない下半身スキャンダルを起こすはずもないのだが、だからこそ冗談としては面白おかしく、市井の噂になるのだ。
自身の右腕とも半身とも言われる腹心の問いに、枢機卿は手に持っていたものを渡す。
「この報告を見てみろ」
魔法使いイサルは、枢機卿の溜息の原因に目を通す。渡された羊皮紙には枢機卿お抱えの諜報部隊からの報告の概要が書かれていた。
勿論、報告内容をそのまま書いているわけでは無い。聖句を隠語に使った、聖職者でもかなり研鑽を積んだ人間でなければ読めない暗号となっている。
例えば書き出しは『荘厳なる水に片手を浴するところの儼に慎まんとする者より、いと清廉なる御方に宛てたるも恐み奏上致します』などと始まっている。
普通の人間にはとてもまともに読めない。清廉なる御方というのが、かつて自らの身を律するために肉の類を一切食べず、贅沢を戒めるために簡素な服以外は何も持たずに暮らした聖人になぞらえて、不正を正す役職にあるチャフラン枢機卿を指す、などという意味を知る人間は、普通とは言わない。
もっとも、敬虔な信徒でもあり司祭の資格までもつ魔法使いイサルにとっては普通に読み下せる内容だった。
伊達に枢機卿の腹心をしているわけでは無い。
つらつらと内容を見るにつけ、イサルの眼は厳しさを増す。
「龍が出た? しかも倒した?」
「ああ」
聖国は、神王国と比べて歴史が長い。それだけに古臭いしきたりや時代遅れのような伝統が蔓延っていて、旧態依然とした体制に不満を持つ者も少なくない。
しかし同時に、蓄積された叡智も存在する。
特に過去を調べる学問においては、周辺国の比ではないほどの知の財産が相続されてきた。
人々が文明と呼べるであろう社会を作り上げた、太古の昔から知識階層であった宗教者達によって積み重ねられてきた、研鑽と思考の重なりというものが聖国の最も大きな財産でもある。
より古くまで過去を正確に遡ることのできる聖国。だからこそ、余の国ではおとぎ話や伝説上の生き物とされている大龍が、確実に存在していた過去を知っていた。
数多生まれて消えていった古代の国々。その多くは、天変地異や戦争によって消えていったわけだが、中には大龍によって消えた国もある。
聖国の歴史学者は確かな文献からこの事実を知っていて、聖職者の教養を身に着けている枢機卿は知識として学んだが故に、記憶の端に残っていた。
それだけに大龍が出現し、かつ討伐されたという報告には驚きが伴う。
「いや、これは……幾ら何でも嘘でしょう」
「本当のことだ。既に情報の裏どりを複数の筋で行った」
枢機卿も最初に報告を受けた時、真っ先に思ったのは『何処の馬鹿がこんな出鱈目な報告をあげたのか』という思いだった。
聖国の中でもチャフラン枢機卿配下の諜報部隊は優秀である。とりわけ神王国に対しては徹底して鍛え上げた精鋭を送り込んでいるのだ。それがこんなあり得ない報告を上げてくるなど、箍が緩んでいるとしか思えない。
そのため、報告してきた部署の責任者を呼びつけ、叱りつけた。叱責を受けた人間は実に災難であるが、報告をあげた人間でもそれは仕方がないと思えるほど荒唐無稽な話だ。
報告に間違いがないと駄目押しされたことで、更に裏どりを徹底させ、それでも同じ情報があがってくることに流石に信じるしかない状況になったのが先日のこと。その上で改めて間違いがないか、再確認させた報告が今手元にあるもの。
従って、今見ている情報というのも、龍を倒した日付そのものは相当前の話を再調査した内容だ。情報源と一次情報の信憑性まで申し添えられてあるとなれば、これ以上の正確な報告など不可能。
ここまでくればもう信じざるをえない。
「じゃあ、本当に? 龍ですよね?」
「ああ」
「物凄く大きなトカゲが正体なんてことも無く?」
「ああ」
蜥蜴であればどれだけ良かったか。
世の中には人間よりも大きな蜥蜴というのも居るだろうが、今回の報告に上がってきたそれとは大きさの桁が違う。人よりも大きいどころか、ちょっとした山ほどの大きさがあるのだ。
モルテールン領に運ばれた強大で巨大な物体は、みようと思えば遠く離れた山からでも確認できる大きさ。確認するのに苦労は要らない。
人の出入りも多い領地であることから、諜報員が間近で確認した上で送ってきた報告である。ただの大きな蜥蜴を大龍と言い張っている可能性はゼロだ。
「しかも倒した?」
「ああ」
何よりも驚くべきは、そんな大怪獣とも言うべき存在を、討伐してしまったことにある。
文献に曰く、一国を滅ぼした伝説さえあるという化け物。それをこともあろうに一地方領主の息子が僅かな手勢で倒してしまったというのだから、もはや驚きを通り越して呆れるほかない。
「ひゃああ、凄いこともあったもんだ。歴史に残る偉業ってやつじゃないですか」
「紛うことなき歴史的偉業だ。千年は語り継がれる英雄譚だろう。忌々しいことだがな」
「はあ」
国崩しとも恐れられる神話の怪物に、才知溢れる若者が勇気をもって立ち向かって勝つ。これほど爽快で心躍るストーリーも中々無いだろう。全ての吟遊詩人が小躍りしながら歌にして、全部の劇場で役者たちが劇にすること疑う余地もない。
そして、この偉大なる業績は色褪せることなく残り、後世に伝わっていくことだろう。
人が個人で為し得る最上級の武勇伝だ。これを超える成果など、歴史を千年遡ってみても存在しない。最も詳細に記録を残す聖国の記録でだ。
つまりは、千年に一度あるかないかの偉業ということ。これから先、もしかすれば人類の歴史が続く限り語られ続けるかもしれない。
忌々しい。
そう、実に忌々しいのだ。人類史に輝き続けるであろう不滅の金字塔を、よりにもよって仮想敵と目する連中にしてやられたのだ。悔しさというなら歯噛みしながら夜も眠れなくなるほどである。
「ただでさえ厄介な異端者共が、これで更に調子に乗ることだろう」
「そうでしょうね。盛んに喧伝することでしょう」
神王国と聖国は、主に宗教的な違いから決して相入れない存在。自分たちの信仰こそ正義と掲げる聖国にとってみれば、全く別の教義と信仰を持つ神王国は、自分たちの国の存在意義すら揺らがせる国である。
互いに互いの国を罵り合って久しい。神王国の目ざとい連中は、ここぞとばかりに業績を掲げ、自分たちの素晴らしさと正しさを訴えることだろう。
悲しいかな、大龍の討伐という大偉業には、聖国として対抗する術がない。やられっぱなしになる。
調子に乗りやがってと切歯すること頻りだ。勿論、チャフラン枢機卿もその一人。
自分たちの正しさを信じて疑わない信仰者として、何故よりにもよって神王国の人間が偉業を為したのだと悔しがる。
「正しき信仰は何処に行ったのか。神が与える試練とは、過酷なものだ」
「はあ」
聖国の教義では、神とは時に人に対して試練を与えるものとされていた。親が子供に対して、愛するが故に厳しく当たることもあるように、神は敬虔な神の子を愛するが故に試練を与えるのだと。親の愛が躾けとなるように、神の愛は苦難となる。
だがしかし、困難を乗り越えた先には成長があり、人としての高みがあるとされていた。
より多くの艱難辛苦を経て、苦汁を舐めてこそ神の愛という真実に近づく。
大龍のこともそうだ。
より大きな試練を乗り越えたモルテールン家には大きな喜びが生まれた。これこそ神の御心であろう。ならば、今自分たちに降りかかっている苦労もまた、乗り越えた先には大きな喜びがあるはずだ。
枢機卿は、そう自分の心を奮い立たせる。
「不信心な異端者は、いずれ大きな天罰が下る。神は我らと共にあるのだから」
それは、腹心に聞かせる言葉ではなく、自分に言い聞かせる言葉だったのだろう。
「最も尊き御主上は、どうするべきだと?」
一人自分の信仰と向き合い始めた枢機卿を現実に引き戻したのは、魔法使いの言葉だった。
最も尊き主上。すなわち現在の神の代理人たる教皇のことだ。
神の言葉を代行するもの。つまりは最も偉大な人物であるという共通認識の上に教皇という存在がある。
彼の言葉はそのまま神の言葉とされるわけで、信徒である男たちが最も気にするのは教皇の発言だ。
枢機卿は軽く頷き、部下の疑問に答える。
「より正しき形にするべきであると仰せだ」
「より正しき?」
どうとでも取れそうな曖昧な言葉だ。
これは、代々の教皇の癖のようなものである。
神の言葉を代行するということは、つまりは失敗や失言が許されないということ。絶対に間違ったことを言ってはならないし、口から発した以上は取り消してもいけない。
だからこそ、どうしても曖昧な言葉が多くなる。後からなら何とでも言い訳できそうなふんわりとした言葉を使い、抽象的で曖昧模糊とした言説を多用する。
教皇の言葉を、つまりは神の言葉を翻訳し、下々に明確な行動として指示することもまた聖職者の務めであった。
「そう。より大きな力には、より大きな責任が伴う。それを理解していない蒙昧なる異端者共が、不当に利得財貨を貪るのは正しき行いとは言えん。違うか?」
「それはその通りかと」
「ならばそれらは正しく導き手の元に齎されるべきであろう。より大きな責任を果たせる者の元に」
「左様で」
モルテールン家が巨額の利益を得て、大きな利権を手にしたという。
ならば、それを正しく使うように導くのは正しき信仰を持つ者の務め。
正義は我らにありと、確信する者たち。
「失礼します」
何がしか、不穏な空気が漂っていた中。枢機卿の元にまた新たな報せが齎された。
速報性を重視した連絡であり、最重要の情報と分かる形で届けられたもの。布に走り書きのようにして書かれているだけに、情報収集を行っている現地から直接届いたものなのだろう。
「やはり神は我らをお導き下さる。これは啓示に違いない」
チャフラン枢機卿は、ニヤリと口元を歪めるのだった。