第138話 勝利の行方
「ユーリくんっ、向こうは大丈夫です! 時間通りにやれます!」
カケドリに乗って駆けてきたミャロが、到着するなりそう言った。
時計を見る。
今朝、リャオと時刻合わせした時計は、打ち合わせの時間の一分前を指していた。
「橋はどうだ!」
「もう渡り終えます!」
「わかった! お前は先に橋を渡れ!」
「はいっ―――では、ご無事で!」
ミャロはそう言うと、橋の方角に駆けていった。
「撒菱の残りを撒けッ!!」
俺が叫ぶと、何人かが腰袋に手を入れ、撒菱をひっつかみ、迫りくる敵の頭上にばらまくように投げた。
数が少ないのでちびちび使っていたが、もう最後だ。
リャオの担当正面は、敵に向かって下り坂になっているので、燃えた荷車を突っ込ませるといった派手なこともできるが、こちらは勾配がないので、やれることが限られている。
こちらは圧倒的劣勢なので、まともにぶつかりあえば、子供と大人が力比べをするように、一瞬にして力負けしてしまう。
撒菱を投げれば敵列の中でランダムに足を負傷する者が出るので、そいつらがいわば障害物となり、勢いが鈍る。
「よし、最終線まで退くぞっ!! 退け、退けえッ!!」
手で大きくあおりながら叫ぶ。
同時に、自分も走り出した。
足が痛む。
勢いで敵の大将を狙撃した時に負った火傷だ。
足の裏の皮が、一歩踏みしめるたびに、焼き付くように痛む。
敵方も負けじと追いすがってくる。
目と鼻の先には、一際目立つように付けられた白線があった。
後ろを見て、ひどく遅れている後続がいないことを確認したあと、
「切り倒せっ!!」
大声で叫んだ。
森の少し奥まったところでスタンバイしていた木こりを見ると、戸惑った顔をしている。
なにをのんびりとしていやがる。
一瞬、殺意が沸いた。
「いいから、切り倒せッ!!!」
もう一度そう言うと、木こりは斧を振り上げ、既に大きく切り込みの入った木に叩きつけた。
一度では倒れなかったようで、二度、三度と斧が打ち下ろされた。
全員が線をまたいでから、たっぷり三秒ほど後、ギギギィ……と繊維が千切れる音を響かせながら、木が倒れてきた。
その時、敵は眼前に迫っていたが、最前列の連中は、倒れてくる木に気づき、上を見ながらタタラを踏んで止まった。
押しつぶせなかったのは痛いが、こちらに残る敵がおらず、応戦する必要がないのは助かる。
「よし、このまま橋を渡るぞ――! 傷を負っている者は、荷物を全て捨てて走れ!!」
後ろを見ながら駆け出すと、倒れた木が、ズゥン……と地面をうち、枝のついた樹冠を道に横たえているのが見えた。
*****
橋に辿り着くと、ほぼ同時に等距離の木を切り倒してきたらしいリャオの隊が、到着したところだった。
リャオの隊もまた、こちらと同じように、ボロボロだ。
「リャオ」
「ユーリ殿」
さすがに疲れた様子で、肩で息をしている。
眼と眼が合うと、お互い通じ合うものを感じた。
「おまえら、先に渡れ!」
俺が言うと、
「ユーリ殿に従え! 渡れるものから渡れ!」
と、リャオのほうも指示を飛ばした。
手勢がぞろぞろと渡り始める。
橋には、難民のしっぽが残っているくらいで、殆どは向こう側に渡っていた。
向こう側は大分詰まっているようなので、ただ通り抜けるように渡って終わり、というわけにもいかないだろうが、そのうちには渡りきりそうだ。
このタイミングを測るのはミャロの役目だったが、本当に過不足がない。
最良と言って良いタイミングで、同時にたどり着くことができた。
「すまんな。結局、戦うことになっちまったようだ」
俺がそう言うと、リャオは心外そうな顔をした。
「こういう戦いなら構わない。俺は絶死の戦が嫌だっただけだ」
まあ、そうだよな。
玉砕死守前提の戦いと、通常の撤退戦では話が違ってくるし。
「できれば、その戦いもしないで済ませたかったがな。まあ、無理だったか」
俺の方でも死人が出たし、リャオのほうでも犠牲者は一人二人では効かないだろう。
幸運にも生き残った兵どもは、必死に橋を渡っている。
死にたい人間など一人もいない。
特に、死地から逃れられる寸前とあれば、なおのことだ。
「そちらのほうも、ずいぶんと怒り心頭の様子だな」
と、リャオが言った。
リャオも、こちらも、稼げている時間は一分もない。
嵌められたことが解っていても、いや、だからこそか、敵は血眼になって迫ってきている。
まだ若干遠いとはいえ、十分に目視できる距離だ。
リャオが登ってきた登り口のほうからも、攻め上げてくる兵どもが見える。
次々に木を乗り越え、もう木は先頭の後ろに隠れ、上の方の枝しか見えなくなっていた。
「お前のほうもな。ずいぶんからかったんだろう」
「まあな」
ふっ、と自然に笑みが浮かんだ。
おかしみが湧いてくる。
敵が、死が、壁となって迫って来ているのに、それほど恐ろしくもない。
それは、いかな逆境にあっても、自分が彼らをコントロールできているという感触があるからだろうか。
「んで、あいつは何をやっている」
「研いでるんだろう」
俺が見た先では、ドッラが道端にしゃがみこんで、一生懸命に槍を研いでいた。
見るからに荒い砥石で、水筒の水をかけながら、ガシガシガシと煙をふきそうな勢いで研いでいる。
とにかく刃が付きゃいいんだ。って感じだ。
その姿は、異様であった。
幾度も剣を受けたのか、横に置いてある兜も傷だらけなら、なぜか二重に羽織っている鎖帷子も、ボロ布のように所々千切れている。
眉のあたりに被せるように、鉢巻のような布を巻いていて、これは真っ赤に染まっていた。
おそらく頭に傷を負っていて、血が目に入らないよう巻いているのだろう。
どんだけ戦ってきたんだ。
「ドッラ、やれんのか?」
俺がそう声をかけると、ドッラは仕上げに水筒の水を槍にかけ、砥糞を落とし、立ち上がると、水筒の残りを飲みほした。
砥石と水筒を、道端に放り捨てる。
砥石は、上質の仕上げ砥ともなれば軽々に捨てられないほど価値があるが、荒砥はぶっちゃけただの砂岩なので、捨てても問題ない。
「そのために休んでいた」
ドッラは言った。
槍を片手に近寄ってくると、汗の乾いた濃い体臭と、血臭の入り混じった独特の臭いがした。
少し見なかっただけなのに、圧力が違う。
人が変わったというか。
仮にも戦場を経験したからだろうか。
「頼めるか」
「おう」
「鉄砲が出てきたら、欄干に寄れ。どうにかする」
俺は持っていた鉄砲を掲げて見せた。
これは最初に会敵した斥候が持っていたもので、俺がアルビオ共和国から輸入したものよりモノが悪いが、あれより銃身が短く、取り回しが良い。
「よし、じゃあ、行くか」
「ああ」
リャオが歩きはじめた。
俺も追うようにして橋に足をかける。
敵はもうすぐそこまで迫っているが、こちらの兵は橋を渡りきれていない。
やはり、向こう側がつかえているようだ。
俺は、橋を真ん中まで来ると、欄干に背をつけて鉄砲の用意を始めた。
もう、鉛玉は二発しかない。
「後ろから八名、槍衾の用意!!」
たまたま、列の最後尾にいたのがリャオの兵だったため、リャオが指示を出した。
「お前もだ、ガーニィ!! 槍を立てておけ!!」
俺が名を知らない兵に指示を飛ばす。
俺とドッラが取り残されているので、槍は構えず、立てておくのだろう。
刺さったら大変だ。
「来いっ!!」
ドッラの裂帛の大声が聞こえた。
敵が追いついたのだ。
顔を上げてそちらを見ると、敵の集団の眼前で、ドッラが槍を担ぐようにして天に突き刺し、構えていた。
橋は、敵味方の怒号が入り混じり、喧騒に包まれている。
その中でさえも鮮烈に響いた声は、敵を威嚇するに十分だったろう。
が、恐れをなし最前列が怯えたところで、後ろからの勢いがある。
いっとき止まることすらなく、敵は押し寄せてきた。
間合いに入った瞬間、「オラアッ!」という掛け声とともに、ドッラの槍が凄まじい勢いで振り下ろされた。
訓練によって鍛え上げられ、技を覚え込んだ巨身から繰り出された槍は、騎士がとっさに掲げ上げた盾を、苦もなく砕く。
肩口から侵入した鉈状の穂先が、細い縄網でも裂くように、鎖帷子ごと敵の胴体を割った。
真っ二つに切り開かれたのかと思うほどの斬撃を見舞った後、ドッラは止まらず動いた。
その場で一回転し、勢いを乗せて小さく一歩を踏み込みながら、這うように身をかがめた。
足元を一迅の風が撫ぜるように、槍が走った。
竹でも割るような容易さで、足が四本、橋上にはじけ飛ぶ。
ドッラは足を大きく振って、踊るように体勢を整えると、石畳を蹴って距離を作った。
豪快だ。
ドッラの恵まれた体格だからこそできる芸当で、俺では無理な立ち回りであった。
一瞬、憧れに似た感情が胸に去来する。
が、戦場に物語的な情緒などはなく、橋は一人の英雄の独壇場ではなかった。
敵は止まることなく押し寄せてくる。
足をぶった切られた騎士は揉むようにして後ろに流れ、あるいは頭をかばいながら踏み越えられ、敵の流れは大して滞らない。
俺は後ろを見た。
列はまだ橋の四分の一ほども残っている。
ドッラは真ん中くらいの地点にいて、ジリジリと下がっている。
ああ、糞。
最後の火炎瓶、取っとけば良かったか。
「もたねえぞ! もっと早く下がれねえか!」
リャオが叫んだ。
ドッラは後退しながらも槍を繰り出し、敵を屠っているが、集団の圧力はいかんともしがたい。
一歩下がり、二歩さがり、それが十歩になり、隊列の後端まで迫るのは、あっという間だった。
俺は羽織っていた服を脱いで、欄干の外、つまり川に放り投げた。
「おいっ! まだ渡りきっていないぞ!」
リャオが焦った声で言う。
「大丈夫だ! 全部は崩れん!」
たぶん。
俺の合図に従って、上流の森の中から弓手が二人現れ、持っていた松明の炎を矢に移し、射放った。
火矢が尾を引いて、橋の中央、橋脚のところに放たれる。
俺は欄干から身を乗り出し、橋脚の根本を見た。
燃え落ちた橋の反対側に置かれているのは、燃えやすい枯れ葉をたっぷりと付けた枯れ枝の山だ。
火矢の一本がそこに入ると、一瞬の間を置いて、勢い良く燃え上がった。
*****
「その火を消せ!」
その声は、敵のほうから聞こえてきた。
クラ語だ。
聞き覚えのある女の声……というより、叫びだった。
男どもが放つ大声の中では、微かにしか聞こえないが、良く通る異質な声は、妙に耳に残った。
女は、橋の反対側に立って、一生懸命に声をあげているようだ。
「水筒の水でもなんでもいい、火に水をかけろっ!!」
なんてことを言うやつだ。
というか、良く火に気づいたな。
まあ、でも無理だろ。
火が燃えてるのは橋脚の根っこのところだ。
橋の上からはよっぽどある。
水筒の水を撒いたところで、落ちる間に散ってしまい、水しぶきになるだけだ。
「ドッラ! 巻き込まれるなよ!!」
俺がそう叫んだ時だった。
ボムッ、というくぐもった爆発音がしたのと同時に、橋が大きなせきをしたように震えた。
上手く崩れるか、一瞬緊張が走る。
俺は、橋脚の根本を少しばかり石工に崩させ、そこに火薬をしこたま詰めた。
その時、輪石を爆発で割るように、楔も据えておいた。
石造のアーチ橋は、アーチを形作る輪石が要となっている。
整って輪状に組まれた石は、上から下へと寄りかかる形で半円を作り、アーチの上に積まれた何トン、何十トンもの石塊の重みを支えている。
支えているだけでなく、その重みによって輪石同士がぎゅうぎゅうと押され、接触面に強烈な摩擦抵抗が生まれることによって、横に動かないようになってもいる。
そこを崩せば、どうなるだろうか。
橋は、全体が緩んだ。
敷き詰められたまま動かなかった石畳に隙間ができ、力学的な寄る辺をなくした橋は、自らの重みで形を失いはじめた。
「おい、ドッラ!」
ドッラは、俺の声が聞こえていないのか、揺れる橋の上、槍を構え一歩も引かぬ様子を見せていた。
いやいや、引けよ。
そこは引こうよ。
変なテンションになってんのか。
奥州平泉での弁慶的な。
「聞こえねえのか!」
俺は一歩橋のほうに足をのばし、ドッラの腰帯を引っ掴んで思い切り引っ張った。
「うおっ」
ドッラが変な声を出した。
「死ぬぞ!」
たたらを踏んだドッラを、重い荷物を放り投げるように転がした後、ふわりと、ひどく懐かしい感覚を覚えた。
エレベーターが下がる時というか、飛行機が降りる時のような、あの感覚だ。
うわ、崩れてる。
崩れ行く石畳を蹴るが、固い地面ではなく、蹴ったぶん反対へ動いてしまう何かを蹴った感触しかしなかった。
それでも体は少しながら動き、俺は右手を伸ばした。
腰下まで落下したところで、誰かが手を掴んだ。
何者かの手を掴み返しながら、崩れた橋の石くれの壁面に足をつく。
握った手を頼りながら、踏み上がるように壁を踏み上がり、一足で橋を登った。
力強い手に引っ張られながら、よたよたと立ち上がる。
「大丈夫か」
手を取っていたのは、リャオだった。
「おお、助かった」
危なかった。
興奮と、今頃やってきた恐怖で、ゾクッと体が震えた。
間抜けなことに、左手には鉄砲がまだ残っている。
捨てりゃ良かったのに、持ったままだった。
まあ、助かったならいいか。
俺は、後ろを振り返った。
*****
橋は、消滅していた。
下を見ると、細かい砂煙をわずかに立てながら、瓦礫が川に洗われている。
川面まで達した瓦礫に取り付いている敵兵も幾らかはいるが、時化の日の岸壁のように、冷たい水がざっぱざっぱと叩きつけられている。
これでは、すぐに流されてしまうだろう。
意外なことに、崩れる時の勢いがあったのか、真ん中の小島の上に残っている奴はいなかった。
あれだけ橋に満ち満ちていた敵兵は、ほとんどが海ならぬ川の藻屑となったようだ。
反対側からこちらへ通ってくる方法は、なさそうだ。
そして、俺はもはや、祖国に居た。
「終わった……のか」
思わず口をついて、言葉が出ていた。
シヤルタを出てから、これほど長い期間、精神をすり減らし、気を揉み続けてきた難題が、今終わった。
その実感があった。
帰るまでが戦争とはいえ、ひとまず終わった、と考えてもいいのだろう。
「ああ、勝ったな」
リャオが言った。
勝った。
それは、まるで初めて耳にする概念のように、耳に響いた。
確かにそうだ。
そうか、勝ったのか。