◆四の月の愚か者!(後)
すぐ隣、「聖女レオノーラ」のために建立された聖堂から、十二時を告げる鐘の音が響く。
裏に聖堂が建ってからというもの、ハンナ孤児院は数々の恩恵に与っては来たものの、深夜に響く鐘の音は、やはり少しばかりうるさい。
だがそのおかげで回想から我に返り、ハンナは再びペンを握った。
「ほら、院長。書くの止めたら? もう愚者の日になっちゃった」
「すぐ書き上げるさ」
「じゃあその前に急いで嘘をつかなきゃ」
「はっ倒すよ」
窓の外を見つめて呟くレオをよそに、ハンナは顔をしかめたまま答えた。
すでに、虚偽禁止の理由まではすべての書面に記入した。
あとは、署名するだけだ。
「……今から嘘をつくんだけどさ」
レオが切り出したのは、そのときだった。
「俺、実は、もう五年以上、ずっと後悔してることがあるんだよな」
「なんだい、そのわざとらしい前置きは」
ハンナは呆れて目をぐるりと回した。
こんなあからさまな嘘、聞いたことがない。
それでも手を止めたハンナを見て、レオは嬉しそうに笑った。
そして、声を真剣なものに戻して、告げた。
「『俺を引き取りたがるやつなんていない』って、言ったじゃん。そのこと……すごく後悔してる」
完全に、意表を突かれた。
「……なんだい、そりゃ」
「あ、声が掠れてる。ドキッとした?」
思わず声を裏返してしまうと、途端にレオがにやにやとしはじめる。
「だめだよ、愚者の日に騙されるのは、愚か者だけなんだから。良識ある大人は、どんな嘘でも泰然と受け流さなきゃいけないんだよ、院長」
「誰が騙されたって言うんだい。寒さで声が掠れただけだろ」
ハンナがつんと顎をそびやかして答えると、レオはちょっと考え、丸椅子を引き寄せた。
「隣、座ってもいい? この部屋寒いし」
「……まあ、寒いからね」
もうだいぶ春めいていたが、たしかに深夜となると多少は冷える。
ハンナ自身はさほど寒さを感じていなかったが、それで許した。
子どもの体というのは、ただ隣にあるだけで、ずいぶんと温かい。
それは、もう十四年も前、ハンナがレオを拾ってから変わらない、彼特有の体温だった。
「それで、嘘の続きなんだけどさ」
「続けるのかい」
「うん。だってまだ、虚偽禁止は発令してないもん」
ハンナはふと、書類上部のインクの乾きが甘いことに思い至った。
このまま掲示しては、インクが滲んで、せっかくの貼り紙が読めなくなってしまうかもしれない。
傍らの引き出しから、乾燥用の砂を取り出し、薄く紙に撒く。
静かな夜更けの部屋に、さらさらと小さな音が響いた。
べつにこれは、必要な作業をしているだけであって、署名の完了を引き延ばしているわけでは、ない。
「これは嘘だから、軽く受け流してほしいんだけど」
「……なんだい」
「『俺を引き取りたがるやつなんていない』って言ったとき、院長、泣きそうな顔してた」
さらさらという音が、止まった。
「まあ、嘘だけどさ」
レオは、そっぽを向いて、拗ねたような顔をしていた。
「それを見たら、もやもやしてきて、実はその夜、なんか泣きそうになった。俺、せっかくいいことしたのに、なんで院長泣きそうになってんの、って。……まあ、嘘だけど」
それでいて、座面に突っ張った腕は、触れあうほどに近い。
体温が無防備に、預けられようとしていた。
「レオ――」
「でもさあ、俺、つい最近、気付いたんだよ。わかったんだ。なんで院長が泣きそうだったか」
声を掛けたハンナを遮るようにして、レオは振り返った。
はしっこい鳶色の瞳が、真っすぐに、こちらを射抜いた。
「お祖母様――エミーリア様にぎゅって抱きしめられたときにさ。嬉しいとか、驚いたっていう以上に……懐かしい、って思ったんだ。それで、思った。ああそっか、俺、院長に何度も抱きしめられてきたんだなって」
緊張しているのだろう。
声がぎこちなく、かすれていた。
「俺、もうとっくに、院長に、引き取られてたんだなって。当たり前のことを、そのとき急に、思い出したんだ」
嘘だけど、と付け足すことも忘れて、彼は訥々と語った。
悪いことをしたら叱ってくれて、いいことをしたら褒めてくれた。
寒いときはみんなを抱きしめて、食糧が足りないときは掻き集めてきてくれた。
口が悪く、獰猛なハンナ。
でもそれは、意地悪な奴らを言い負かして、悪い奴らをぶっ飛ばすためだ。
レオが、孤児院の皆が理不尽な目に遭うと、その小柄な体で真っ先に飛び出して、矢のような速さで駆けつけてくれた。
そういうことを、自分たちはとうにされていたのではないか。
とっくの昔に拾われていた。
大切に守られていた。
それだというのに、「引き取りたがるやつなんていない」なんて言ったら、それはハンナへの侮辱だ。
レオは情けなさそうに眉を下げて、俯いた。
「……あのときは傷付けちゃって、ごめん」
「…………っ」
ハンナはぐっと、唇を噛み締めた。
(勘弁しとくれよ)
精霊に向かって叫びそうになった。
なあ、勘弁しておくれよ。
どうしてこの子が。
凍えていることにも気づかず、その痛ましさに勝手に怯んだ相手のことまで、「傷付けてごめん」と気遣う、優しいこの子が。
あの日胸糞悪い嫌がらせを受けなくてはならなかった。
親に捨てられなくてはならなかったのだ。
「院長、ごめん。まだ、怒ってる? 思い出したくないくらい? だから毎年、虚偽禁止書を貼るんだろ?」
レオは途方に暮れたように、肩を落としている。
それを見て、「違う!」と叫びそうになった。
違う。
そうじゃない。
あの日泣きそうになったのは、レオがあんまりに痛々しかったからだ。
自分が孤独であることに気付きもせず、無邪気に笑う彼を見ていられなかったから。
そして、自分には彼を抱きしめる資格などないと思い込み、絶望していたからだ。
だが。
――俺たちをあっためて、守ってくれたのは、院長だ。そうだろ!?
不意に、切羽詰まったようなレオの声が、脳裏に蘇る。
入れ替わりを終えてから迎えた最初の夏、娘の命日の夜にそう叫んだレオ。
母と慕われる資格などないと、腕を振り払おうとしたハンナのことを、彼は勇気を振り絞って、抱きしめた。
――親にすら捨てられた俺が、誰かを愛していいんだったとしたら、子どもを亡くした院長だって、誰かに愛されていいはずだ!!
あどけない瞳いっぱいに涙を浮かべ、怒鳴るようにして告げた彼。
その姿を見て、思ったものだ。
ああ、彼は「向こう」で、すっかり成長してきたのだと。
(貴族の囁くきれいごとなんざ、屁のつっぱりにもなりやしないと思っていたけど、違ったんだねえ)
「レオノーラ」を愛し抜いたという「あちらの連中」のことを思うにつけ、ハンナは唸らずにはいられない。
この子の心を溶かすなんて、大したもんだと。
エミーリア・フォン・ハーケンベルグは、愛情表現を惜しまなかったのだろう。
笑顔を向け、温かな言葉をかけ、臆面もなく「行かないで」と縋りついた。
レオが困惑するほどに、彼の心をずっと求めてみせた。
アルベルト皇子や、ビアンカ皇女もそうだ。数多の「ご学友たち」もそう。
そこには誤解も含まれていたかもしれないが、彼らは言葉を尽くし、贈り物を絶やさず、せっせと好意を伝えつづけた。
”愛している”。
ハンナたちならば、照れくさくて、阿呆らしくて、とても口には出せない感情。
だが彼らはそれを、躊躇いもなく、様々な手段で届けつづけたのだ。
大したもんだ。
自信に満ち溢れて、臆面もなく他者の愛情を乞える彼ら。
けれど――ハンナはもう、知っているのだ。
自分だって、そうした想いを口にしていいのだと。
ほかでもないレオから、教えてもらったのだから。
「……あたしもこれから、嘘をつくけど」
瞬きをして涙の衝動を逃したハンナは、やがて、しわがれた声で切り出した。
「あんたは――ハンナ孤児院のレオは、あたしの知る誰より、優しい子だよ」
「…………!」
レオが、鳶色の瞳を真ん丸に見開いて、顔を上げる。
ハンナは、「嘘だけど」の言葉を免罪符に、続けた。
「あんたに傷付けられたことなんて、一度もないよ。だって、あんたがあたしを傷付けるなんて、できるわけないもの。あんたは、誰より優しくて、阿呆みたいなお人よしなんだから。まあ、嘘だけど」
「院長……」
年なのだろうか。
最近、堪えても堪えても、涙がすぐに滲むのだ。
こうして強く拳を握っても、喉が震え、簡単に嗚咽が零れそうになる。
嘘だけど、ともう一度だけ前置きして、ハンナはかすれた声で付け足した。
「あんたは自慢の、我が子だよ」
「…………っ」
すぐ隣で、レオが拳で素早く顔を拭う。
ずっ、と鼻を啜る音が聞こえたとき、ハンナはようやく、彼がこのタイミングで部屋にやってきた理由を理解した。
レオは、自分の発言に胸を痛めてから、ずっと謝りたがっていたのだ。
けれど面と向かって言うこともできずに、だから嘘の力を借りようとした。
虚偽禁止が発令されるその前に、部屋に滑り込んででも。
あの夏の夜、レオとハンナがようやく告げることを自分に許した「愛している」の言葉。
浮かれて数日は連呼していたけれど、やっぱりそれは、あまりに尊くて、軽々しく口にできるものではないから。
「……言っとくけど、嘘だからね。真に受けて泣いてんじゃないよ。やれやれ、四の月の愚か者め」
「泣いてねえし! 院長だってさっきから、俺の嘘を真に受けて目ぇ潤ませてんじゃねえか。はー、四の月の愚か者!」
「泣いてないったら。あんたの目は老眼なのかい? それとも涙で目が曇ってるのかい?」
「泣いてねえってば! 院長のばーかばーか!」
ずっ、ずっと鼻を啜りながら、言い争う。
顔は互いにそっぽを向いているくせに、近付いた腕同士はぴたりと、自然に触れあっていた。
もちろんこれは寒いからで、それ以上の理由など、なにもない。
「あーあ、砂を集めるのが早すぎたね。インクが滲んじまった」
やがてすっかり涙が乾くと、ハンナはばつの悪さを隠すように、肩を竦めた。
「読みにくい貼り紙を掲示するっていうのもなんだからね、これはもう、貼らないでおこうかな」
「……いいんじゃね? インクが滲んだんじゃ、そりゃしょうがねえよ」
「そう思うかい?」
「そう思うよ」
しばし、沈黙。
二人はちら、と互いの顔を見やってから、同時に立ち上がった。
「……さーて。やることもなくなったし、寝るとするかねえ。あんたもさっさと寝な」
「言われなくてもそうするよ。明日も内職で大忙しだ」
そのまま、レオは踵を返す。
だが、扉のノブを掴むと、ちょっと考えた様子で、くるりとハンナを振り返った。
「院長、あのさ」
「なんだい」
「これはあくまで嘘だから、柄にもないこと言うんだけど」
レオはまさに、愚者の日に臨む少年そのものの様子で、愉快そうに目を輝かせていた。
「院長は最高で最強で世界一優しい、俺の大切な母さんだよ!」
そうして、さっとドアを抜け出ようとする。
ハンナは素早くその耳を掴み、ぐいと引っ張った。
「いてっ!」
「ああ、あたしからも特大の嘘を返してやろう。あんたは優しくて賢くて仲間思いの、あたしの大切な息子だよ!」
一息に言い切ってから、耳を離してやる。
二人はいたずらっ子のような顔を見合わせ、同時に叫んだ。
「四の月の愚か者め!」
今夜ばかりは、それが、二人の就寝の挨拶だ。
二人はくすぐったい思いを抱えたまま、それぞれ寝台に向かった。
「やれやれ、愚者の日ねえ」
上掛けを引き寄せながら、ハンナは呟く。
口元にまだ、笑みの余韻が残っていた。
胸に下げたロケットペンダントを、服の上からそっとなぞる。
なぜだか、この中に納まった髪の持ち主も、楽しそうに笑っているような気がした。
「今年だけは、禁止しないであげようじゃないか」
屑籠に放り込んだ緑色の紙を、ふふんと見つめる。
珍しく、愚者の日に対して、寛容になれる気がした。
愛している、の言葉こそ許しても、レオは日頃、けっしてハンナを「母さん」と呼ぶことはない。
ハンナもまた、レオのことを「我が子」などとは口にせぬよう、強く自分を戒めていた。
――けれど、今日はどんな嘘も、許される日なのだから。
ひねくれ者のずるさも、頑固者の弱さも、等しく許してくれる嘘の優しさに、今年ばかりは甘えてしまおうと、そう思った。
「……子どもたちは大はしゃぎだろうねえ」
数時間眠ったら、もう早起きの子どもたちが起き出してくる頃合いだ。
珍しく貼り紙のない壁を見たら、きっと彼らは調子に乗って、次々と嘘をつこうとするに違いない。
いったいどんな騒ぎになるのやら、と思いながら、ハンナはゆっくりと目を閉じた。
ハッピーエイプリルフール!
皆さまの元に、愉快で優しいたくさんの嘘が降り注ぎますように。