エリックのトラウマ
「おー! ここがエリックの家の風呂か!」
「うちとはまた違った形をしているね」
エリックの家の浴室に入るなり、俺とシルヴィオ兄さんは感嘆の声を上げる。
すると、浴室内で反響して俺達の声が響いた。
エリックの屋敷の浴室は左側に洗い場があり、右側に半月型の湯船がでかでかと置いてあるシンプルなものだ。
「身体を洗う所は若干狭い感じだけど、湯船の方は十分に広いね」
「うちの家族はよく海に行って潮風を浴びたり、稽古をして汗をかくことが多いからな。風呂だけは立派なものにしているんだ」
確かに。海が近くて潮風をよく浴びたり、稽古をするのであればお風呂を利用する頻度は高いだろう。だとすると、当然お風呂は良いものにしたくなる。
エリック家の決断は間違っていないな。お陰で俺も立派お風呂に入ることができるのだし。
勿論、カグラの高級旅館に比べると小さなものだが、それは比べるのが野暮ってものだ。
「それじゃあ、先に身体を洗ってしまおうか」
「そうだね」
「ああ、適当に身体を洗ってから湯船に入ってくれ」
今は一刻も早く、この肌のべたつきを洗い流したい。女性陣が上がるのを待っていたせいか、俺達の身体の不快感はマックスだ。
俺達は一言ずつ交わすと、速やかに左側にある風呂椅子に並んで座った。
「そういえば、アルと一緒にお風呂に入るのは久しぶりだね」
シルヴィオ兄さんが俺の左側に座るなり、そんなことを言う。
これが普通の顔をした兄であれば気持ち悪いことこの上ない台詞だが、シルヴィオ兄さん程のイケメンが爽やかに言うと嫌悪感を抱くこともない。
「そうだね。さすがにこの年になると一人で入れるしね」
「でも、アルは三歳ぐらいから一人で入りたいって言ってたよね」
「やっぱりお風呂は一人で入る方がのんびりできるしね」
うちの屋敷の浴室が狭いという訳ではない。むしろ、ここよりも広いので家族全員が入れるくらいだ。
一緒に入るのが同じ男であるシルヴィオ兄さんやノルド父さんならばまだいい。しかし、小さな頃となるとエルナ母さんやエリノラ姉さんと入ることもあったのだ。
別に家族である二人に欲情するというわけでもないのだが、前世を合わせると俺の精神年齢は三十四歳のおっさんになるのだ。寛げるとは言い難いだろう。
だから、俺は身体がしっかりとしはじめた三歳ぐらいに一人で入りたいと言ったのである。
「でも、最初の三か月くらいはシルヴィオ兄さんがずっとついていたよね? どうして、それほどまでに見張りを付けたがっていたんだろう?」
「それは父さんと母さんが、一人でアルをお風呂に入らせたら溺れるって思っていたからだよ」
俺が疑問に思っていたことを口にすると、シルヴィオ兄さんが苦笑いしながら暴露する。
「なにそれ!?」
さすがに風呂で溺れて死ぬほど俺は間抜けじゃないよ?
「いや、だってアルって結構ボーっとしているから」
「確かに。浜辺の時のような死んだ魚のような目をしていれば、ご両親が心配するのは当然だろう」
シルヴィオ兄さんの言葉に納得するように、右に座っているエリックが頷いた。
俺だけ妙に一人で入らせてくれないと思ったら、そんなことを考えていたのか。
失礼だな。俺ってば子供の頃から凄く聞き訳がよくて、しっかりしていたはずなのに。
まあ、いいや。今はそれよりも身体をお湯で流してしまう。
壁に設置された蛇口部分に風呂桶を置く。風呂桶を見る度に、ケロリンという文字を探してしまうのは、もはや前世からの習性みたいなものだ。
壁に埋め込まれた魔導具に触れると魔力を吸い出し、代わりに温かいお湯を吐き出した。
風呂桶に十分お湯が溜まると、それを持ち上げて一気に身体にかける。
温かいお湯が汗と潮でべたついた肌を一気に洗い流す。
温かいお湯によって爽快感を得たが、腕や首の辺りにピリッとした微かな痛みが走った。
「あっ、なんかちょっとヒリッとする」
「僕も」
同じように湯をかぶったシルヴィオ兄さんも同じように感じたらしく驚いている。
「ははは、二人とも見事に日焼けをしているな。肌が赤いぞ」
「あっ、本当だ。よく見ると肌がちょっと赤いかも」
エリックに言われて自分の肌を凝視してみると、海の日差しにやられたのかほんのりと腕が赤くなっていた。どうやら日焼けしてしまったらしい。
「あー、僕は結構焼けているなー。これはちょっとお湯をかけるのが痛そう」
元から肌が白いせいだろうか。シルヴィオ兄さんの腕などは結構赤く焼けているように見える。
シルヴィオ兄さんは色白でどちらかというと肌が弱いからね。これはお湯をかけるとピリピリとした痛みが走るだろう。
「怖いなら俺がお湯をかけてあげるよ」
「い、痛い! ちょっとアルやめて! 自分でかけられるから!」
俺が風呂桶に汲んだお湯をかけてあげると、シルヴィオ兄さんが悲鳴のような声を上げて身をよじった。
何だろう。シルヴィオ兄さんの反応は妙に嗜虐心を刺激されるな。嫌がっているとわかってはいるが、もっとやりたくなる。
「くっ、日焼けしてるのはアルも同じはずだよ! えいっ!」
俺がお湯をかけていると、シルヴィオ兄さんもやられっぱなしではいられないのか仕返しにお湯をかけてくる。
しかし、それほど日焼けしていない俺には対して苦痛にもならない。ほんの少しヒリッてするくらいだ。
俺は自分にかけられるお湯を無視して、シルヴィオ兄さんにお湯をかけ返す。
「うあっ!? なんで!?」
「ふふふ、シルヴィオ兄さん。俺の方が肌は強いから、こんな軽度の痛みじゃ音を上げたりしないよ」
「ず、ずるい」
生まれ持っての肌の強さ。こればっかりはどうもできない。
そう、シルヴィオ兄さんが生まれつきイケメンなようにどうしようも……やめよう。自分で考えていて虚しくなってきた。
俺がそうやって軽く落ち込んでいると、不意に右の方から冷たい水が飛んでくる。
「「冷たっ!?」」
突然飛来してきた冷たい水をもろにかかった俺とシルヴィオ兄さんは、あまりの冷たさに思わず背筋を伸ばして叫ぶ。
シルヴィオ兄さんでもないとなると水を飛ばした犯人など一人しかいない。
俺とシルヴィオ兄さんが思わず睨むと、犯人であるエリックが楽しそうに笑っていた。
「はははっ、面白いくらいいい反応をするなぁ」
「よーし、エリック。そっちがその気だったらこっちにだって考えがあるぞ」
こちとらカグラでアーバインやモルトと散々戦ってきたんだ。人体の穴という穴にお湯を飛ばす技術は誰にも負けない自信がある。
俺がカンフーのように適当に腕を揺らめかせて臨戦態勢に入ると、エリックが静止の声を上げる。
「待て待て。俺は貴様らに意地悪をするために水をかけたのではない」
「じゃあ、何のために?」
と口で答えてはいるものの、臨戦態勢は決して解かない。カグラの風呂場でもタンマとか言いながら、不意打ちをしてきた卑怯な冒険者がいたからな。
「二人とも日焼けをしているのだろう。だったら、少し水で冷やしておくべきだ。そうすれば日焼けの痛みも和らぐ」
「そうなの?」
「ああ、そのはずだ。やってみるといい」
シルヴィオ兄さんが尋ねると、エリックがこくりと頷いた。
そういえば、そういうのを聞いたことがある。確か日焼けというのは軽い火傷と同じような状態になっているのだ。
冷やして火照りをとることで炎症の進行が抑えられるはずだ。
エリックの言葉でそれを思い出した俺は、早速とばかりに水を出す魔導具で腕を冷やす。
「あー、火照った熱をとってくれるようで気持ちいいね」
「だねー」
しばらく、俺とシルヴィオ兄さんは水を出す魔導具によって腕を冷やす。
しかし、水を出し続けるには片方の手で魔力を供給し続けなければいけないわけで、両方の腕を冷やしたい俺達には不便だ。腰だって曲げているから腰だって痛くなるし。
「あー、もう面倒くさいから魔法でやっちゃお」
俺は水魔法を発動すると、村で水球を纏わせたように日焼けした腕や首回りだけに水を纏わりつかせる。
あー、この日焼けした部分にフィットするように纏わりつく水が気持ちいい。これなら不便することなく、日焼けした場所を冷やすことができるな。
「……また貴様は魔法で変なことを」
「あはは、変だけどそれは便利そうだね。僕も頼める?」
「いいよー」
素直なシルヴィオ兄さんにも同じように水を纏わせてあげる。
「わっ、冷たい! でも、気持ちいいね」
「でしょう?」
俺とシルヴィオ兄さんは目を瞑り、しばし水の心地良さに酔いしれる。
「……ついでにこのまま魔法で頭も洗おう」
そう決めた俺は、道中で開発した洗髪のための水魔法を発動。
人間の腕をイメージして、水魔法でそれを象る。
「なっ! 今度はなんだ!? 水の腕が現れたぞ! デザートハンドの仲間か!?」
突然現れた水の腕に現れたのかエリックが驚いて後退る。
「水魔法で腕を象っただけなのに大袈裟だなぁ」
「いや、突然このような水の腕が現れたら驚くだろう。それにこの姿は砂漠にいる魔物、デザートハンドに似ているんだ。砂でできた腕の魔物で、人間の足を掴んで砂に引きずり込むのだ」
エリックの反応に呆れた俺だが、どうやら驚くに値する理由があるらしい。
エリックのお母さんである、ナターシャさんがラズール人だからラズール王国の砂漠に行ったことがあるのだろう。
「そ、そんな魔物がいるの?」
「ああ、俺も一度足を掴まれたことがあってな……。あの時は死ぬかと思ったぞ」
どんよりとした表情で過去を語るエリック。
どうやらトラウマを刺激したらしい。そりゃ、驚きもするな。
「砂に引きずり込む魔物とか怖いなぁ」
「砂漠の魔物は、曲者が多いって父さんが言うくらいだしね」
俺がしみじみと呟くと、シルヴィオ兄さんが何気なく言う。
ノルド父さんが曲者が多いっていうとは、相当なレベルなんじゃないだろうか。
やはり過酷な環境だと、そこに住む魔物も屈強に育っているのだろうな。
「ところでその両腕は何に使うんだ?」
「決まってるじゃん。こうやって頭を洗うのに使うんだよ」
何を簡単なことを言っているのだ。こんなもの洗髪をするための腕に決まっているじゃないか。俺はバカなエリックにわかりやすく理解させるために、水の腕を操作してもみもみと自分の髪と頭皮を洗っていく。
「そんな当然のように言われても困るぞ。大体そんな風に髪を洗うなどと聞いたこともない」
「仕方ないな。そんな無知なエリックにも、これの良さを教えてあげるよ」
言葉で理解させるよりも体験させた方が早い。
俺は新たに水の腕を生成して、エリックの方へと移動する。
「いや、待て。それをこっちに近付けるな!」
すると、なぜかエリックが立ち上がって逃げようとするので、俺は水の腕を操作してエリックの足首を掴んでやる。
「ひいいいいいいいっ!? やめろおおおおおお! 砂に引きずり込まれてたまるか!」
すると、エリックが全身でもがきながら叫び声を上げだした。
な、なんだこいつ、急にどうしたんだ。
「あ、アル。エリック君はデザートハンドに足を掴まれたのがトラウマなんだよ」
俺が疑問に思っていると、シルヴィオ兄さんがそれらしい推測を言ってくれる。
なるほど。デザートハンドに似ている水の腕に足を掴まれたことでトラウマを想起しているのか。
感触だってまったく砂と違うし、ここは砂漠などではない。
まったく想像力が豊かなやつだなぁ。剣士よりも魔法使いに向いているんじゃないだろうか。
俺が呑気にそんなことを考えていると、シルヴィオ兄さんがおずおずと言ってくる。
「とりあえず、水の腕を離してあげたら?」
「そうだね」
俺が水の腕を解除いてやると、もがいていたエリックが勢いよく倒れた。




