古事記の巻頭文を詩人が訳す
翌日の午後図らずもうわさをしていた早川祐司君がひょっこり、田沼の病室にやって来た。
「田沼さん、またずる休みですか」
ソファーで古事記と日本書紀の同じ神話のところを照らし合わせていた田沼は、その声に眼を上げると、笑顔の早川の顔が眼に入った。
「オイオイ、死にそうな病人をとっつかまえて、その言い方はないんでないの?」と、田沼は怒った顔をしてみせる。もちろん、それは冗談である。
「やたらに休講にすると、そのうち学校も首になるかな」
「いやいや、田沼さんは講師でも、言うなれば、学校のスターですからね、これが私なら首が危ないですけど、田沼さんはべつですよ」
「少しは、悪いなとは思っているんだけど、調子が悪いことは悪いんだ。ま、さ来週には、病院を抜け出して学校に行くことはできると思うよ」
「田沼さん無理はしなくていいですよ」
「君に親切にされると、なんか気持がわるいな。優しくして、僕の講義を取ろうというコンタンだろう」
「あはは、そうです!」
「そうだろうと思った。あはは。・・・いやあ、実は君に連絡を入れようと思っていたんだよ。また、リゾート海浜病院シリーズの新作を書かされることになっちまった。今度は少し手強いテーマでね、古事記・日本書紀の謎を解くということなんだ。ああ、そう言えば、古事記・日本書紀は早川君が専門だったなと思い出したんだよ」
「まあ、国文科ですからね、知らないといったら嘘になりますけど、ご期待にそえますかどうか。まあ、遊びに来るつもりで、伺いますよ」
「それは、ありがたい。頼むよ」
「いまね、古事記と日本書紀のイザナミ・イザナギの国生みのところを照らし合わせていたところなんだが、変な事に気がついたんだ」
「ああ、それならば推測がつきますよ。きっとあれですね」
「まあ、ちょっと僕の言うのを聞いててくれ。君には聞き飽きた話かも知れないが僕にはこの発見は新鮮なんだよ」
「そうですね。前から詩人の眼で記紀(古事記・日本書紀)をみるとどんななのかなという興味はありましたから、ここではおとなしく聞いていましょう」
「うむ、いい子だ。それじゃ、はじめるぞ」
田沼は、応接テーブルにおいてある、古事記岩波文庫・倉野憲司校注2003年版を手元に引き寄せた。
「まず、太安万侶の序文に続いて、古事記本文の巻頭は始まるね、今から読むのは、もちろん私なりの解釈でかみ砕いた文だ。まず、最初に倉野氏の解釈文を読んで、本の後ろの方に載っている漢字の原文とてらしあわせるのだ。すると、どんな高名な学者であっても、現代文に関しては小説家にも詩人には負ける文章であることがままある事だから、僕なりの現代語訳が出来上がるワケだ。もちろん意味不明の単語があれば古語辞典・漢和辞典などで調べてみる。そして、僕の現代語訳を文庫本の解釈文の横に、書いてしまうんだ。したがって僕が読んだ本などは古本屋では二束三文で売り物になんない。それで僕はいつも貧乏で、チャーハンばっかり自分で作って食べるハメになるのだよ。アハハ。これはね若い頃、フランス語で書かれた詩集などの訳文の下に、僕の訳詩を書いたりしたくせのなごりなんだ。・・・あ、いけない、脇道にそれてしまった。これも君が悪いんだ、君といるとつい軽口がでてしまうからね」
祐司は、笑いをこらえて、田沼を見ている。
「ハイ、続けます。・・・天地が初めて発した時、高天原に成れる神の名は天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。この三柱の神は、連れ合いを持たない単独の神で、身を隠されていました。この時、国土は幼くて、いまだ水に浮いた油のようであり、クラゲのように漂う時、葦の芽が勢いよく生えるように成れる神は宇摩志阿斯訶備比古遲神。次に天之常立神。この二柱の神も、連れ合いを持たない単独の神でありまして身を隠されていました。上記の五神は高天原のなかでも特別の神でおられます・・・どうだ?」
「良いですね、続けてください」