古事記の不思議 二
レストランのコーヒーは濃厚で純良だった。良く磨かれたガラス戸の外は広めのテラスになっている。テラスの向こうの生け垣はサザンカで濃い緑色の葉の所々に真紅の花がいくつも花を咲かせている。その向こうに、海が見えている。
田沼はコーヒーに砂糖を入れてから、静かにかき回して生クリーム入れた。生クリームはコーヒーカップの中で、小さな渦となった。それを田村はしばらくじっと見つめた後、沙也香に眼を移して言った。
「古事記が作成されたことは、日本書紀にもその後の史書である続日本紀にも書かれていないのだ。ところが、日本書紀が作成されたことは続日本紀にしっかり書かれているんだよ。古事記が作成された事情は、なんと、君がさっき読んだ、古事記の序文によってのみ、知ることができるに過ぎないんだ。もしだよ、この古事記の序文を、古事記からはずしてしまうと、古事記は成立不明の謎の書になってしまうんだ。歴史の教科書には、古事記が成立した年代がしっかり訳知り顔にかかれているが、その知識の出所は、みなこの序文であって、他の書物ではないのだ」
「そういうことなんですか?」
「そう」
「なんか不思議ですね」
「古事記の後の史書である同じ官撰の日本書紀に無視されている古事記はどういう書であるかと不思議だ」
「それでいて、古事記序には、くどい位の古事記成立のいわれが書かれているというのは、なんていいますか調和が取れていない感じですよね」
「そう、山辺さんの言うとおりさ。この変な序によって、古事記は偽書であるという説まであるくらいなんだ。その説を裏打ちするかのように、江戸時代に入るまで古事記の存在は忘れさられていたというのだ」
「意外ですね」
「そうだろう」
「そして古事記が献上されたのが712年で、日本書紀が献上されたのが720年で、ほぼ同時に二種の歴史書が完成しているのも不可解なんだな」
「そうですね」
田沼はポケットから手帳を取り出して言った。「ここに日本書紀が献上された事を続日本紀から書き写してある。ちょっとそれを読んでみよう。それはこうだよ。・・・先にこれ、一品舎人親王、天皇の命を受けて日本紀の編纂にあたっていたが、このたび完成し、紀三十巻と系図一巻を選上した。・・・これは続日本紀の養老四年の条、つまり720年の記事なんだ。ここで言う日本紀というのは日本書紀の本来の書名なんだ」
二人の会話が途絶えた。