詩人、日本書紀を訳す 三
「また他の一書が言うには、天地が未だ固まらないときは、あたかも海の上に浮かぶ根のない雲のような有様であった。その中に何ものかが産まれた。葦の芽が始めて泥の中から生え出す清らかさを持ったものである。それが人の形になった。国常立命と言う。
また他の一書が言うには、天地が始めて別れた時には、あるものがあり、葦の芽のようで空の中に生まれた。これから出られた神は天常立尊という。次に出られた方は可美葦牙彦舅尊という。また空の中にあるものがあり、浮かんだ油のようなようで、これから生まれた神を国常立尊という。
次に神が生まれた埿土煑尊、沙土煑尊である。そのつぎに神が生まれた大戸之道尊、大苫辺尊。つぎにも神が生まれた。面足尊、惶根尊である。次に神が生まれた。伊奘諾尊、伊奘冉尊である。
一書が言うには、この二柱の神は青橿城根尊の子である。
また、他の一書が言うには、国常立尊が天鏡尊を生んだ。天鏡尊が天万尊を生んだ。天万尊が沫蕩尊を生んだ。沫蕩尊が伊奘諾尊を生んだ。
正統な伝承によれば(上記一書がいうには、・・・。の前の文)、まとめると八柱の神がおいでになった。陰陽の気が混じり合い、この神々は男女の両性を持っておられた。国常立尊から伊奘諾尊・伊奘冉尊に至るまでを神世七代という」
田沼は、プリントから再び目をあげた。そして二人を見た。そして言った。
「一書云々の前には、いわば日本書紀の公式見解が書かれていて、そのあとに、異説として多くの書からの文が転載されているというのが解るね。だから、書紀は公式見解を強引に押しつけている訳ではないのだ。こんな記録があるよと、わりとフェアな姿勢なのだね。しかし、引用する書籍の名を「一書」と書いて伏せている姿勢にはフェアでない姿勢が見えるのだ。これには何か理由があるに違いないと思うのだよ。さていよいよ次はお待ちかねイザナギ・イザナミの話だよ。古事記とどう違うかに注意して聞いて欲しいね」
田沼はプリントに目を落として再び読み始めた。