二話
「――レナ。入るぞ」
レナは診療所の二階に住んでいる。
この村の孤児は、それぞれどこかの店で住み込みで働いているが、レナの場合はこの診療所がそうだった。
つまり、俺に心無い言葉を吐かれたレナは、そのまま自分の部屋に駆け込んでいったってわけだ。
俺は診療所の主であり、レナの養い親である院長先生に許可を得て、今、レナの部屋の前に立っている。
ノックをしても返事がないので、無断で入室させていただく事にした。
部屋に入ると、誰もいない。
だがあいにく、俺はかくれんぼって奴がすこぶる得意だ。
獣だからな。
俺はベッドに歩み寄る。
下を覗き込むと、丸まっている小さなガキがいた。
「部屋の掃除か? 感心だな」
返事なし。冗談は通じなさそうだ。
俺は床に座り込み、ベッドを背もたれにして片膝を立てる。
何も言わずに、しばらくそうしていた。
なんでかって? ゼロも神父も正解ってやつを教えてくれなかったからだよ。
神父に至っては、
「人それぞれに正解がありますから」
などと、まるで聖職者のような口をきく始末だ。
実際に聖職者だろって?
うるせぇ、俺は認めねぇ。
とにかく正解が分からないから、俺は何もしない事にした。
傭兵稼業で学んだ、戦いの基本だ。
相手の出方をまず窺う。
俺がそんな風にしてぼんやりと座っていると、レナはずるずるとベッドの下から這い出してきて、何も言わずに俺の足の間におさまった。
その頬はまだ涙で濡れている。
なるほど、泣いてる顔を見られたくなかったらしい。
俺はレナの涙を拭ってやった。
暖かい涙だ。
「怒ってない?」
レナは問う。
俺は頷いた。
「怒ってねぇよ。ただ――」
「ただ?」
「情けなくてな……」
「なにが」
「化け物な事が」
言った途端に、ふたたび見た事もない量の涙がレナの目から溢れ出した。
「お、おい!?」
「よーへいは化け物じゃない! みんなを守ってくれるんだ!」
「いや、それとこれとは……」
「化物って言うのは、人を襲う奴らだ! レナの家族を殺したやつらだ!」
「レナ、お前……」
「よーへいは違う! 化物じゃない! 美味しいごはん作ってくれて、触るとふかふかで、肩車もしてくれるんだ!」
俺は天井を仰いだ。
レナは両親を化け物に――悪魔に憑依された獣堕ちに殺された。
ほんの一年ちょっと前だ。
一口に獣堕ちといっても、その見た目はそれぞれ違う。
俺は大型猫科の肉食獣だが、狼の獣堕ちも、馬の獣堕ちも、虫やトカゲの姿をした獣堕ちだっている。
性格だってそれぞれだ。
好戦的なやつ、臆病なやつ、穏やかなやつ――。
なかでも最も悪いのは、史上最悪の魔女が召喚した悪魔の入れ物として使われるやつだ。
ゼロ曰く、悪魔の暴力に理由はない。
幼子がありの巣に熱湯を注ぐような無邪気さであり、人が山野を歩くときに草花を踏み潰す自然さだ。
レナにとっての化け物は、それだ。
圧倒的な暴力と、根こそぎの略奪、理由のない殺戮。
レナは自分の命を除くすべてを奪われ、代わりに見分ける力を身に着けた。
化物と、そうでない存在を。
レナにとって、俺程度の小物は「化け物」と呼ぶに値しない。
だから――。
「……ありがとうな」
謝罪とは別の言葉を吐いた。
レナははっとして息を止め、じっと俺の目を見つめる。
「俺のために怒ってくれて」
「……でも、怪我させた」
「ああ、そんでお前も怪我をした」
「分かってる。レナが噛んだのが悪いんだって。レナが噛んだから、あいつも慌ててレナの事さしちゃったんだって……でも、じゃあどうしたらよかったの? 絶対絶対負けたくなかった。だって、負けたらあいつが正しい事になっちゃう! でもレナはあいつより小さくて……」
「そうだなぁ……」
難しい質問だった。
差別や迫害にどう対応するべきか――俺は正解を知らない。
俺が選んできたのは、いつだって無視と無関心。
無言の肯定と、問題の先延ばしだ。
だが、レナは戦う事を選んだ。
少なくとも、その勇気に対して「嫌な事を言う奴は無視しておけ」と言い放つのが、正解だとは思えない。
とはいえだ。
「……まあ、でも殴り合いはよくねぇよな。口じゃ勝てないからって殴りつけて、殴り合いに勝った方が正しいってんだったら、腕っぷしが強けりゃ正義になっちまう。そしたら俺は大正義だ」
「でも、そうじゃん」
「うん?」
「強い方が正義じゃん。正義だから強いんだ。仲間も増える。それで、戦争に勝つ」
嘘だろ、十歳賢いな。
戦争を持ち出されるとますます俺は返事に困る。
実際そうだ。殴って勝った方が偉いって図式になってる。
俺は唸った。
レナはそんな俺の膝の中で鼻をすする。
「なあ、昔話聞くか?」
「聞く」
唐突な申し出だったが、レナは受けてくれた。
ありがてぇ。
俺は、ガキの頃に聞いた昔話を思い出す。
「昔昔、めちゃくちゃ強い王様がいた。そいつは剣の王と呼ばれてて、国民はどんなにひどい事をされても、だれもそいつに逆らえなかった」
「そういうのは、別の国の、もっと強い王様に倒されるんだ」
「そう思うだろ? ところがそうはいかない。剣の王は、周りの国の王様たちとやたらと仲が良くてな。王様連中の間では、力を持ってる奴が、弱っちいやつからあれこれ巻き上げるのは当たり前ってのが常識だった」
剣の王とパンの賢者――そういう昔話がある。
南の方では有名な昔話だが、レナは北部の出身だ。どうやら聞いた事が無いらしく、ふむふむと俺の言葉に耳を傾けている。
「だがある日、別の国が突然、めきめきと力を付け始めた。領土を広げ、金を貯え、誰にも負けないような力を付け始めたんだ」
「どうやって?」
「国民に優しくした」
「いい王様だ」
レナは笑った。
俺も頷く。
「優しい王はパンの賢者と呼ばれた。腹を減らした国民に、毎日パンを分けたから。それを噂にきいた周りの国の国民たちは、こぞってパンの賢者の国に行きたがった。危険をおかしてでも国境を越えて、優秀な兵士たちもみんな、パンの賢者のけらいにしてくれって願い出た」
「それで、剣の王様を倒すの?」
「いや、倒さない」
えぇー、と。レナは不満の声を上げる。
俺も昔、お袋にこの話を聞かされた時は文句を言った。
「だが、剣の王はパンの賢者を倒そうとした。仲間の王たちを呼び集め、兵士を集め、パンの賢者の国に進軍した。そしてパンの賢者は殺された」
「はぁ!? なにそれ!? ダメじゃん!」
「そうだな。だがおかしかったのはその後だ」
俺は続ける。
剣の王が安心して自分の国に帰ると、パンの賢者はまだ生きていると噂が立った。
しかも一人だけじゃなく、何人ものパンの賢者がいるという。
剣の王は必死になってパンの賢者を殺した。
何人も、何人も。
だが1人パンの賢者を殺すたびに、自分の周りから少しずつ人が減っていく事に、剣の王は気づかなかった。
ある日、剣の王は、もう自分の命令を聞く者が誰もいない事に気が付いた。
家来もおらず、腹を減らし、孤独に泣き暮れる剣の王に、パンの賢者はパンを与える。
――そして、剣の王は二度と王を名乗らなかった。
「どういう事? なんで剣の王は一人になったの?」
レナは顔をしかめて俺を見る。
「間違ってたから」
「パンの賢者が増えたのは?」
「正しかったから」
「正しいと増えるの?」
「お前だって友達は選ぶだろうよ。腹減ってるときにパンを取るやつと、パンをくれる奴、どっちと友達になりたい?」
「そりゃ、パンくれる人だけど……」
ぐぅ、とレナの腹が鳴った。
泣くと腹が減るってのは、俺も最近知った事だ。
「こう思った奴がいるんだよ。“自分もパンの賢者みたいになりたい”ってな。パンの賢者本人が増えたんじゃねえ。同じ考えの奴が増えてった」
ふぅん、とレナは呟く。
「……つまりさ、人気者の方が、力持ちより強いってこと?」
「簡単に言えばそうだろうなあ」
「人気者になって、嫌な事いうやつも仲間にしちゃうってこと?」
「そんな感じだろうなあ」
「それ、強くなるより難しいよ? 分かってる?」
「そうなんだよなぁ」
俺は笑った。
レナは頬を膨らませて唸っている。
「それに、それにさぁ! それって、嫌なこと言う奴にも優しくしてやるって事でしょ? 怒らないでいてやるって事でしょ? そんなの変じゃん! 向こうが悪いのに!」
「まあ、納得できねぇよな。言われたい放題かよって思うよなぁ」
「よーへいの話、やっぱりわかんない!」
「俺もだんだん、自分が何言ってるか分かんなくなってきた」
この話を聞かされた時、俺はすでに周りのガキよりずっと体がでかかった。
力もあった。殴ればきっと、貧弱な人間のガキなんぞ簡単に死んだだろう。
戦うなと、そう言い聞かせられて俺は十三歳まで育った。
怪我をさせたら取り返しがつかない。力で押し切ればある程度は楽しく生きられるが、憎しみを集めれば愛を集めた者にかなわない。
一人でいきたくはないだろう。
孤独になるのはつらいだろう。
誰に愛される事がなくとも、恨みだけは買うなと言われてきた。
まあ、結局その教えは守られず、俺は村を飛び出して傭兵になったわけだが。
親不孝だな。
とはいえこうして村に帰ってきたんだ、両親も草葉の陰でブチ切れながら俺を歓迎してくれるだろう。
まあ、俺の事はいい。とっくに手遅れだ。
問題はレナだ。
チビで、力も弱いが、正義感が強くて向こう見ず――はっきり言って真っ先に死ぬ種類の性格だ。
強くなれと言うのは簡単だが、それは暴力の肯定だ。
俺は暴力を否定はしねぇが、肯定もしたくない。力に訴えるのは最終手段だと思ってる。
賢くなれと言うのも微妙だ。なにせ俺が賢くない。
さて、どうする。
対症療法なら、ある。
このままレナを、隣の村に近づかせない事で解決するとか。
それか隣村のガキをちびるほどビビらせて、二度と舐めた口がきけないようにするとか。
是非とも後者を選択したいが、それをやったが最後、本気で討伐対象にされかねない。
だからと言って、レナから同じ年頃の遊び相手を奪うのも忍びない。
「……でも、もうしないよ」
「うん?」
俺が黙って悩んでいると、レナがぽつりとつぶやいた。
「レナが怪我して、向こうも怪我して、みんな大騒ぎになった。レナは悪くなかったのに、怪我させちゃったから、レナも悪い事になったんだ」
「まあ……そうだな」
「だから、怪我はナシ。次からはもっとうまくやる」
「……そうか」
本当に、ガキってのは見た目によらず、呆れるくらいに賢い。
そして大人って連中は、見た目に反してあまりに馬鹿だ。
許したり、耐えたり、譲歩したり、受け入れたり――そういう事が苦手なのは、むしろ子供より大人のほうなのかもしれないと思った。