泉 鏡花「酸漿」現代語勝手訳 三
三
小銀は話す内にも、幾度か胸を圧え圧えして、
「それだけなら可いけれど、そうやって、顎をごりごり引っ擦る毎に、頬の肉がぶりりと動くと、奥歯がぐらつくらしいわね、拍子にカチカチ、カチカチと鳴るのさ。鳴るのと一緒に、キュッキュッと鬼灯を吹くんだわ。――襤褸のような袖口へ、片手を指まで引っ込めて、その手を引き攣ったようにぶるぶると震わせ、震わせ、お前、片手でその楊枝でせせった汚いものを熟と見ちゃ、赤爛れのした、……ありゃ疳の虫だと言うんだね――顎を引っ擦って奥歯をカチカチカチ、で、鬼灯をキュッキュッじゃないか。そんなことをね、何度も何度も引っ切りなしに……。
お待ち! まだあるんだよ、前触れをするの。今言ったことをね、始めようとする時に、カッと、咽喉を絞るような咳をして、その時大きな口を開けるの。吐き出すんだわ、鬼灯を。脂で黒くなった舌の尖へ出して、ぐしゃりと舐めて、どろどろと歯へ挟むの。真っ赤に染めたゴム酸漿よ。モぅ私ゃ一生ゴム酸漿は持つまいと思うよ。
そのね、カッといって開ける時は、口が耳まで裂けるようだよ。眉毛が白く、すくすくと日向に透いてね。また光の射す、あの車掌台の硝子窓にその爪楊枝を持っている肱を支いて、赤い顎を偉そうに、筋張った額を仰向けて、それはツンとしているじゃないか。
引き攣る手で立て続けに同じことをするんだよ。色艶といい、少し気もどこかおかしいらしい。――様子がね、宿場女郎のなれの果てかとも思う」
と、言葉が途絶えた。また一段と調子が弱って、
「そう言っては悪けれど、見ているだけでもむかむかと、もう胸が悪くなっている所へ、お辻、カッとその女房が口を開ける毎び、ぽちゃぽちゃと重い唾が私の顔に掛かるんだわ」
「まあ」
と一つ、重量のある膝をずんと支いて、お辻は身悶えた。
「あそこは景色の佳い所ね。紺青のような川が流れて、透き通って、……枯れた林が薄青ぅ紫がかって、昼も月夜のような中へ、私の顔なんざ構わないが、そのお前、景色の上へ、唾が黒い毒虫のように飛ぶんだもの。口惜しくなって私、身を投げようかと思った。
あんまり堪らないから、病院下から、四つ目あたりの橋の所で電車を下りたの。橋が掛かって枯れ木が続いて、広い所よ。……世界が違ったようで、ほっと息をしたけれど、頭もふらふらしてね、身体中、何か芬とする。そう言えば、その女房は硫黄のような臭がしたっけ。
何しろ、どうにかしなくちゃ辛抱できないもの。すぐ近い所にある小さな蕎麦屋に入ったの。そこで聞いたら三の橋という所だとさ。麻布かねえ。
でね、金盥を借りて、水を汲んで、『埃が酷くって』と、言ったけれど、清めのために塩をもらったから、言い訳にならないよねえ。
『金盥のお代は払いますから、打っ棄ってくださいよ』って言って、それから天ぷら蕎麦を注文したの。
それをさ、よせば可かったんだよ、ねえ、お辻」と、情けない目で熟と見る。
見られて、お辻は、
「へい」と言う。
「ただモぅ極まりが悪いから、そう注文してさ、その中、水も五、六遍取り替えて、きゅっきゅっと顔を洗ったんで、どうにか胸もちっとはすっきりしたし……出来たばかりなのを手も着けないって、病気持ちみたいで私、恥ずかしいもんだから、お汁の一口もと思って、つい今までしたこともない、梯子段の下へ隠れるように座って、――でも二階があるんだわね――そしてさ、蓋を取って口をつけたの、お辻、ただ口をつけただけなの。
そうするとお前、お蕎麦が動くとね、赤いものが、むっくり浮いたんだわ」
そう話して、小銀は、
「ああ……」と嘆息をつき、婀娜っぽく顔をしかめた。
つづく