1661話
レイがギメカラに納豆について教えてから、数日……レイ達の姿は、再びギルムの前にあった。
「エレーナ様、気をつけて下さいね。海には陸とは全く違うモンスターがいると聞いています」
「分かっている。別に海に行くのが初めてという訳でもないのだから、そこまで気にするな」
エレーナは、以前エルク達雷神の斧やそれ以外の冒険者、騎士、軍人……といった面々と共に、クラーケンと戦った経験がある。
それだけに、初めて海に行くかのようなアーラの言葉には、どう対応したらいいものかと、多少困っていた。
そんなエレーナの姿に、レイは小さく笑みを浮かべていたのだが、ふと自分の方に一人の男が近づいてくるのを見て、そちらに視線を向ける。
男の方もレイに視線を向けられたことに気が付いたのか、笑みを浮かべて頭を下げてきた。
「レイちゃん、今日はアタシも一緒に連れて行ってくれて、ありがとねん」
そう言いながら片目を閉じたのは、レイも知っている男……少なくても外見は男だった。
背が小さく、外見からでは筋肉がついているとはとてもではないレイにしてみれば、羨ましい程の筋肉がその身体にはついている。
ギルムの増築工事が始まってから、まだそれ程経っていない頃に知り合った商人の一人。
一応商隊を率いる身分ではあるのだが、今回は商隊を仲間に預け、レイ達と行動を共にすることになった人物……ビストルだ。
どこから聞きつけたのか、レイ達が海に行くという話を知り、自分も一緒に連れていって欲しいと頼んできたのだ。
ビストルの趣味や遊びに行きたいといった理由からではなく、純粋に商売に関係しての話だ。
「ビストルなら、妙な気は起こさないし問題ないだろ。……少なくても俺達にはな」
身体は筋骨隆々といった形のビストルだったが、その性格は女だ。寧ろレイの感じた限りでは、乙女と呼んでもいい。
そんなビストルだけに、エレーナ達と一緒に移動しても、問題になるようなことはないだろうというのがレイの予想だった。
そして、実際それは間違っている訳ではない。
ビストルの好みのタイプは、引き締まった筋肉を持つ、背の高い男だ。
そういう意味では、レイ達の中に好みのタイプはいない。
……もっとも、問題がないというのは、あくまでもレイ達にとってはの話だ。
向かった先にいる村や街の男達にとっては、ビストルは獲物を狩る肉食獣の如き存在となる可能性も否定は出来ない。
(やっぱり漁村とか港街にいる男って引き締まった身体をしているってイメージだしな。……いや、そもそもそういう場所に行くかどうかも分からないし。ああ、でもどんな魚が獲れるかを聞く為には情報を集める必要があるか)
レイ達がこれから向かうのは、海。
ただし、いわゆるバカンスとかそういうのではなく、純粋に魚を獲る為に海に行くのだ。
そうである以上、いわゆる海水浴のようなものではなく、漁と言うべきだろう。
「いやぁ、こんな時にレイちゃん達に会うことが出来たなんて、本当に私は運がいいわねん」
そう言いながら、心底嬉しそうにビストルは腰のポーチを撫でる。
そのポーチは、作りや外見はエレーナの持つ物と大きく違うが、間違いなくマジックポーチと呼ぶべきものだった。
エレーナも持っている、アイテムボックスの下位互換とも呼ぶべき代物。
ただし、下位互換ではあっても、その値段は非常に高価な代物だ。
何故そのような品をビストルが持っているのかはレイにも疑問だったが、片目を瞑って『ひ・み・つ、よん』と言われてしまえば、それ以上追求することも出来ない。
いや、本当に必要があるのならその程度で追及の手を緩めたりはしないだろうが、ビストルの性格を考えれば、違法な手段で入手したとは考えられなかった。
……もっとも、自分を襲ってきた相手を返り討ちにして、偶然相手が持っていたマジックポーチを手に入れた、という可能性は否定しきれないのだが。
その理由はともあれ、マジックポーチを手に入れたビストルはレイ達が海に行くと知り、魚をマジックポーチに入れて持ってこようと考えた。
マジックポーチの能力を考えれば、何で魚? とレイも疑問に思ったのだが、本人が満足しているのを見れば、それ以上何かを言うつもりはなかった。
(それに、海に面していないギルムだと、海の魚がかなり高価だというのは間違いないし。手堅い商売ではあるんだよな。増築工事で人も集まってるから、海の魚……それも干物とかじゃなくて生の魚があると知れば、相応の値段で買う者もいるだろうし)
とはいえ、全員がその魚をありがたがるという訳ではない。
現在ギルムには、様々な場所から集まってきている者達がいる。
その中には、当然のように海の側から来た者もいる。そのような者達にしてみれば、何故魚でそこまでありがたがるのか、分からないだろう。
寧ろ、そのような者達の場合はギルム周辺で獲ることが出来るモンスターの肉の方が、希少価値は高い。
「さて、いつまでもこうしててもしょうがないし。……そろそろ行くぞ!」
そんなレイの言葉に、アーラと話していたエレーナや、他の者達もレイの側に集まってくる。
そうしてセト籠を取り出すと、それを見た瞬間にビストルは目を輝かせてセト籠を撫でる。
「セト籠だったかしらぁん? それに乗るの、楽しみにしてたの。どんな感じなのか、楽しみだわん」
興奮したようにそう言う様子は、とてもお世辞や冗談で言ってる風には思えない。
真実、心の底から楽しみにしていたと、その態度や雰囲気は物語っていた。
もっとも、ビストルがそう思うのは当然だろう。
基本的にこのエルジィンにおいて、人が空を飛ぶといった経験をすることは決して多くはない。
竜騎士になるか、それとも空を飛ぶモンスターをテイムするか、もしくは召喚魔法でそのようなモンスターを呼び出すか。
レイの場合は、表向きにはテイムとなっているが……その手の才能を持っている者は、酷く少ない。
だからこそ、ビストルはセト籠で空を飛ぶということにこれ程嬉しがっているのだろう。
(窓の類がある訳でもないし、唯一空いている上の部分を見ても、そこから見えるのはセトの腹だけだしな。……今度、窓の類を付けて貰うか?)
そう思うも、セト籠は色々と貴重なモンスターの素材を使って作られている代物であって、そのような真似が出来るかどうかは微妙なところ……というのが、レイの予想だった。
「ビストルも楽しみにしているみたいだし、そろそろ出発するか」
「グルゥ!」
嬉しそうに鳴くセトだったが、これは海に行けることを喜んでいる……のは事実だが、それよりも魚介類を食べられることを期待しての嬉しさだ。
少なくても、レイにはそう感じられたし、レイがそう感じたということは間違いないのだろう。
「キュ! キュキュ!」
そんなセトの背の上では、イエロもまた嬉しそうに鳴き声を上げている。
イエロも嬉しそうにしているが、こちらは魚を食べるのではなく、純粋に皆で出掛けるのが嬉しいのだろう。
(沢ガニとライバルになってたよな? ってことは、もしかして海でもカニとかヤドカリとかとライバルになったりするのか?)
そんな風に思いつつ、エレーナに呼ばれたイエロがセトの背を飛び立ち、他の皆と一緒にセト籠の中に入っていくのを見たレイは、セトの背を軽く叩く。
それだけでレイが何をして欲しいのかを理解したセトは、レイが自分の背に乗りやすいように少しだけ屈む。
そうしてレイはセトの背に乗り……セトは数歩の助走で翼を羽ばたかせながら空を駆け上がっていく。
ギルムの正門から少し離れた場所で行われたセトの飛び立つ様子は、ギルムに入る手続きをしている者達の視線を集める。
セトの存在を知っている者にしてみれば、そこまで目を引く行動という訳ではなかったのだが、この場にいる者の中には初めてセトを見るような者もいる。
そのような者達にしてみれば、やはりセトは色々な意味で珍しい存在なのだろう。
周囲からの視線を集めたセトは、そのまま空中で大きく翼を羽ばたかせ……やがて地上に置かれていたセト籠を四本の足で掴むとそのまま再び空に舞い上がっていく。
セト籠を持ったセトは、瞬く間にその場にいる者達の見える場所から消え、周囲の景色に同化するというセト籠の効果を発揮するのを、その場にいる者達は見ることが出来なかった。
「んー……今日もまた、良い天気だな」
「グルゥ!」
夏も終わりに近づいたとはいえ、まだ日中は十分に夏らしい天気や気温だった。
気温という意味では簡易エアコン機能を持つドラゴンローブを着ているレイにとって、そこまで気にするようなことではない。
だがそれでも、こうしてセトの背の上から夏らしい空気を楽しむことが出来るというのは、非常に贅沢で、それでいて楽しいことだった。
空には綿飴のようにも見える入道雲が幾つも漂っており、今は夏で、秋になるにはまだ早いと主張しているようにも見える。
太陽から降り注ぐ強烈な日光も、そんな入道雲の行動を応援していた。
(晩秋とか晩冬とかあるけど、晩夏ってのは……ん? 何か聞いた覚えがあるな。やっぱり晩夏という言葉はあるのか?)
夏の空を眺めながらそんなことを考えていたレイは、ふとそんな風に思う。
夏の終わりを示す、晩夏。
そんな言葉があるのかどうかと疑問に思ったレイだったが、実際に晩夏という言葉を頭の中で考えてみると、漫画や小説、ゲーム等で見た覚えがあることに気が付く。
晩夏という言葉で少し悩んだレイだったが、その考えはすぐに頭の中から消し去る。
今はそんなことを考えているような時ではなく、早く海に行くべきだと。
そう考えての判断。
「じゃあ、セト。……海に向かってスピードアップだ!」
「グルルルルルルルルゥ!」
楽しそうなレイの言葉に、それだけでセトもまた嬉しくなったのか、周囲に響き渡るような鳴き声を上げる。
……そんなセトの鳴き声に、地上にいたモンスターや動物は心の底から恐怖を覚え、セトに見つからないようにと隠れる。
また、ギルムに向かって旅をしている商人や冒険者、仕事を求めた者達も、思わずといった様子で空を見上げていた。
もっとも、中にはその鳴き声をセトのものだと知っている者もいるので、そのような者達は特に怯えたりする様子はなかったが。
そのまま数時間……海のある方に向かって飛んでいたセトだったが……
「ちぃっ、セトがいるのに何だって逃げないで向かってくる!?」
苛立ちと共に、レイはミスティリングの中から取りだした黄昏の槍を投擲する。
その槍は、空気を貫きながら飛んでいき……その先にいたハーピーの群れを貫いていく。
何匹ものハーピーが、身体や翼を貫かれて地上に落下していくのを見ながら、レイは黄昏の槍を手元に戻す。
手元に戻ってくるという、この能力があるからこそ百匹を超えるだろうハーピーの群れを相手にしても、互角に戦うことが出来ていた。
「グルルルルルゥ!」
セトの放つファイアブレスが、ハーピーの接近を阻む。
中には風の刃や鋭く尖った羽根を飛ばしてくるハーピーもいたのだが、セト籠を持っているとはいえ、レイとセトを相手にその程度の攻撃ではどうしようもない。
もっとも得意な足の鉤爪による攻撃をしようとしても、近づく前にレイの持つ黄昏の槍による一撃や、セトの放つスキルによって次々にハーピーは数を減らしていくのだが。
「とにかく、あの数が厄介なんだから、その数を減らしてしまうか」
呟き、レイは手元に戻ってきた黄昏の槍をミスティリングに収納してデスサイズを取り出す。
この場合、必要なのは大鎌という武器としてのデスサイズではなく、魔法発動体としてのデスサイズだ。
『炎よ、全てを燃やし尽くす矢となり雨の如く降り注げ』
呪文を唱えると同時に、セトに乗っているレイの近くに次々と炎の矢が生み出された。
その数、五十本程。
そうして炎の矢が全て揃ったところで、魔法を発動する。
『降り注ぐ炎矢!』
魔法名を唱えた瞬間、レイの背後にあった五十本近い炎の矢は、一斉にハーピーに向かって飛んでいく。
そうして炎の矢は、命中したハーピーを次々に燃やしていく。
本来なら魔石や素材の為にそのようなことはしたくないのだが、海に向かっている今の状況でそんなことをしている時間がないというが、レイの正直なところだった。
次々に炎の矢に貫かれ、燃えていくハーピー。
それでいながら、レイはそれでも自分達に攻撃をしようとしているハーピーを見ながら、もしかして自分達がハーピーの縄張りや巣に近づいたのか? と疑問を抱く。
ただ、現在地上にあるのは草原だけで、とてもではないがハーピーが住むような場所は近くになかったが。
(となると、巣じゃなくてハーピーの縄張りに入った? だが、今までこういうことはなかったけど)
ギルムの近くにも、ハーピーの巣はある。
以前、火炎鉱石を手に入れた――正確には生み出した――場所が、その最たる例だろう。
だが、セトがギルムの周辺を飛んでも、ハーピーが襲ってくることはない。
取りあえずこの辺りのハーピーの習性か何かだろうと判断し、レイは再びセトと共に海に向かって飛んでいくのだった。