1606話
「はい、ジャーヤに連れてこられる前は商人の下で御者をやってました」
「そう、じゃあ採用ね」
スーラの言葉に、女は嬉しそうな表情を浮かべる。
御者をやるということは、馬車を動かす……つまり御者台に座ることが出来るのだ。
歩くのに比べると、疲労は大分少ないのは間違いなかった。
そんな女に、周囲からは羨ましそうな視線が向けられる。
当然だろう。昨夜歩いた疲れが、まだ完全に癒やされた訳ではない。
昨日は午後に突然奴隷の首輪が外れ、レジスタンスと協力してメジョウゴを抜け出し、それを防ごうとしたジャーヤの兵士と戦い、日付が変わるくらいまで歩き続けたのだ。
疲れという意味では、まだ完全に取れた訳ではなかった。
中には筋肉痛で歩くのもやっとという者も、少なくない。
馬車に乗れるのは、怪我をしている者や身体が弱く歩くのが遅い者限定となっている。
病気の者がいないのは……強引に女達を連れ去ってきた者達も、娼婦として働けない相手であれば連れてくる意味がないと知っていたからだろう。
そんな中、御者として馬車に乗れるというのは非常に羨ましいことなのは間違いなかった。
「あの、家で馬車の御者をやっていたことはあります。ただ、そんなに長期間って訳じゃないんですが」
「そう。取りあえず採用。ただ、今日は経験者の人と一緒に御者をやってちょうだい。それで問題ないようなら、明日からは任せるわ」
そんな風にやり取りをしている中……少し離れた場所では、馬車に馬を繋ぐ作業が行われていた。
これもまた、素人が適当にやるような真似をすれば途中で馬が馬車から外れてしまい、後続の馬車に大きな迷惑を掛ける。
だからこそ、経験者がしっかりと指導する必要があった。
「ちょっと、そこ! 馬が嫌がってるでしょ。馬に出来るだけ負担のない形で馬車を牽けるように注意しなさい! それから、そこ! 馬と遊んでばかりいない!」
御者もそうだが、馬を牽かせるようにしっかりと繋ぐやり方を知っている者も、そこまでは多くない。
だが、この場には千人近くの人間がおり、そうなれば当然のように何人かの経験者はいた。
「あんたはあっちの馬車ね。そっちのあんたも馬車。……あんたは歩く速度が遅い訳じゃないんだから、しっかりと歩きなさい!」
また、少し離れた場所ではレジスタンスの何人かが、馬車に乗る人物を決めている。
「ちょっと、何で私が馬車に乗っちゃだめなのよ! 別に私一人くらいいいでしょ!」
「却下よ、却下。何度も言ってるように、馬車に乗るのは歩くのが遅い人だけ。……言っておくけど、わざと歩くのを遅く見せかけてとかしたらここから出ていってもらうから、そのつもりでいてね」
その言葉に女は不満そうな表情を浮かべるが、それ以上不満を口にしたりはしない。
この集団から追い出されれば、食べ物や飲み物といった物全てを自分で何とかしなければならないと分かっているからだ。
恨めしそうな視線をレジスタンスの女に向けつつ、それ以上不満は口にしないで大人しく引き下がる。
「ああいう女が妙な真似を考えると、厄介なことになりそうだな。一応気をつけておけよ?」
「それは私に言うのではなく、スーラに言った方がいいのではないか?」
エレーナの言葉に、近くにいたヴィヘラが頷く。
尚、いつもであればレイ達と一緒にいるマリーナは、現在精霊魔法を使って水を準備しており、ここにはいない。
「スーラなら、その辺の事情は分かってると思うぞ。……ただ、ああいう奴等が大人しくしているのは、俺達がいるからだと思うけど」
抑止力という意味では、それこそレイ達以上の存在はそうないだろう。
この場にいる全員が、昨日行われたジャーヤの兵士達との戦い、そしてロッシから馬車を奪った件で追撃してきた騎兵達に圧勝……それこそ文字通りの意味で鎧袖一触といった結果になったのを、その目で見ているのだ。
そのような戦力のいる場所で、レイ達と敵対するような真似をするのは命知らずでしかない。
であれば、レイ達がいなくなった後で自分達が楽を出来るように行動するべきだと、そう考えてもおかしくはなかった。
レイが近いうちにこの集団を離れるというのは、既に大勢に知られている話である以上、その選択は決して間違いという訳ではないだろう。
「その辺は……レジスタンスの方で何とかなると思うがな。シャリアを始めとして、レジスタンスに協力している者の中には腕の立つ者も多いし」
エレーナの目から見ても、シャリアはそこそこの強さを持っていた。
それこそ、部下に欲しいと思うくらいには。
「裏から何かされたら、ちょっと不味そうにも感じるけど?」
ヴィヘラの言葉に、そうかも……と思わず納得をするレイとエレーナ。
そんな二人を……いや、この集団を見ている者の姿があった。
正確には、現在レイ達がいるのは街道から少し離れた場所にある草原である以上、街道を歩いている者からは普通に見ることが出来る。
そして、千人近い人数がそこにいるのを見れば……ましてや、その大部分が女であるということに気が付けば、当然ながら視線を集めてしまう。
何人かは勇気を出して女達にこの集団は何かと聞きに行こうとした者もいたのだが、護衛をしているレジスタンスの者達が警戒する視線を向けてくれば、そう簡単に近づくような真似も出来ない。
中には親切から声を掛けようとした者もいたのだが、やはり下心のある方が多かったのは……娼婦の服装をした女がこうも集まっているのを考えれば、仕方がないのだろう
ともあれ、今日がこの集団で迎える初めての朝ということもあり、馬車の件もあって色々時間が掛かったが……それでも午前九時すぎくらいには出発出来るようになった。
(起きたのが大体午前七時くらいだったことを思えば、まぁ、合格点か)
女の身支度には時間がかかるということは知っているレイだったが、それでもこれだけの人数が出発の準備を整えるのに二時間くらいで済んだのは満足出来る結果だった。
もっとも、それは殆どの者達がある程度の荷物を持ってきたとはいえ、着の身着のままに近いからということでもある。
この先、村や街により、それぞれが必要な物資の類を集めていけば、それに比例するように出発するまでの時間が伸びるという可能性は高い。
ただ、レイは身支度で時間が掛かっても、それを待つつもりはない。
本当に身支度に時間が掛かるのであれば、人より早く起きて準備をすればいいのだから。
もしも、まだ準備が出来ていないから出発するのを待ってと言われても、レイはそれを気にせずに出発するだろう。
そんな風に考えつつ……レイ達一行は、その場を出発するのだった。
「暑い……ちょっと、何で今日に限ってこんなに暑いのよ」
「私は痒いわ。モンスターが来ないのはいいけど、出来れば蚊とかの虫もどうにかして欲しいんだけど」
「疲れた。少し休憩したい」
出発してから二時間程。
それだけの時間歩いていると、やはり疲れを口にする者も出てくる。
また、夏らしく太陽は強烈に自己主張しており、降り注ぐ日光はまさに肌を焼くかの如き暑さ。
せめてもの救いは、女達の着ている服が娼婦の服……露出が激しく、布地が少ないものだということだろう。
もっとも、その服装の為に日焼けを防ぐといったことが出来ないのは、痛し痒しといったところかもしれないが。
(マリーナに頑張って水を十分に用意しておいて貰ってよかったな)
歩いている者達が水筒に入っている水を飲み、飲み終わった水筒を他の者に回し……とやっている光景を目にし、レイはマリーナに頑張って貰った甲斐があったと、安堵する。
だが、同時に水筒の数が足りないのも事実であり、次の村や街に立ち寄ったら水筒をあるだけ購入しておいた方がいいだろうと判断する。
「あああ、でも昨日飲んだあの水がまた飲みたいわ」
「言わないでよ。言われれば、それを飲みたくなるでしょ」
レイから貰った流水の短剣で生み出された水の味を思い出したのか、それを飲みたいという声がレイの耳に聞こえてくる。
それに対して、言われれば飲みたくなるのだからと文句を言っている女の声も聞こえてきたが、レイは今この場で流水の短剣を使うつもりはない。
昼食の場でもその水を与えたりするつもりはなく、夕食の時に全員に水を振る舞う予定だった。
毎日、夕食に流水の短剣から生み出される水を楽しみにしているのであれば、それが楽しみとなって気力を生み出す元となるだろう。
もっとも、それもレイ達がこの集団と一緒に行動している時でなければ飲むことが出来ないのだが。
「馬車に水の入った樽を用意した方がいいかもしれないな」
「そうね。セトが全部の馬車を引っ張る必要もないんだから、ある程度離して馬車を配置すれば、水筒を持ってない人でも水に困ることはないでしょうし」
給水車……という表現は多少違うかもしれないが、レイの中ではそのようなイメージだったのは間違いない。
ミスティリングの中に樽は幾つか入っているので、用意するのにもそれ程時間が掛からないのは間違いなかった。
レイの近くを歩いているマリーナも、そんなレイの意見には賛成なのか、特に不満そうな様子はない。
そうして取りあえず昼まで歩き続け……途中で何度か千人近いレイ達の集団に対し、すれ違った相手が驚くといったことはあったが、それ以外は特に問題もなく進むことが出来る。
昼食でレイが用意したのは、オークの肉。
まだ大量に在庫はあるので問題はないのだが、それでもそろそろオークの肉を追加したいと思うこともある。
「上手い具合にオークが襲ってきてくれないもんかな」
「グルゥ?」
昼食後の休憩の最中、レイは呟く。
既に馬車に樽は置いてあり、それを飲む為のコップも用意してある。
樽の中の水も、マリーナの精霊魔法によって用意されていた。
これから午後ということもあり、日差しはますます強くなるだろう。
塩も用意した方がいいのか? と思わないでもなかったが、取りあえずその辺は後々どうにかしようと後回しにする。
そうしてソファの如きセトの身体に寄りかかりながら呟かれたレイの言葉に、セトが喉を鳴らす。
大半が女というこの集団は、オークにとっていい獲物なのは間違いのない事実なのだ。
(セトが周囲を威圧しなければ、オークを呼び寄せるのも可能か?)
だが、問題なのは、やはり女達の安全をしっかりと確保出来るのかということだった。
オークを狩る為に女達を危険に晒し、更にはオークの巣穴に連れていかれるなどということになれば、洒落では済まない。
(となると、女を餌におびき寄せるんじゃなくて、積極的に狩りにいった方がいいか。セトの嗅覚があれば、オークを見つけるのは難しい話ではないし。……もっとも、あくまでもオークがいればの話だが)
辺境のギルムであれば、探す気になればオークを見つけるのは難しい話ではないだろう。
だが、ここは辺境ではないのだから、そう簡単に目当てのモンスターが見つかる筈もない。
勿論オークが存在しないという訳ではない以上、現在レイ達がいる周辺にオークが生息している可能性もない訳ではないのだが。
「別にオークじゃなくても、熊とか猪とかでもいいんじゃない?」
「……肉の量だけを考えれば、そうなんだろうけどな」
熊や猪の肉も、決して不味いという訳ではない。
寧ろ肉として考えれば十分美味い部類に入るだろう。
だが、オークの肉はそれ以上に美味なのだ。
折角食べるのだから、美味い肉を食いたいと思うのは冒険者として……いや、生きる者として自然なことだった。
当然他に何も食料がなければ、話は別なのだが。
そう説明するレイの言葉に、ヴィヘラは納得したような、それでいて呆れが混ざった表情を浮かべる。
レイが料理に拘るというのは知っていたが、何もこんな時までと、そう思っているのだろう。
(それに、基本的にモンスターじゃない肉ってのは、ある程度熟成させないとそんなに美味くないんだよな。いや、不味い訳じゃけど、美味くなるまで時間が掛かるというか)
解体した肉を馬車に吊しておくか? とも考えたのだが、そうなると夏だけに上手く調整しないと腐るし、何より臭いが酷いことになる。
それはそれで他の獲物をおびき寄せるという点ではいいのかもしれないが……
そこまで考え、やはりレイは首を横に振る。
「どうしたのよ、いきなり」
「いや、これからはなるべく遭遇したモンスターや動物といった食料になる相手は倒していった方がいいと思ってな。解体とかするのに時間は掛かるだろうけど、ないよりはあった方がいいだろ?」
「そうね。特に私達がいなくなった時のことを考えれば、干し肉とか作った方がいいかもしれないわね」
「……そうだな」
レイとしては、単純に肉を集めておけばそれでいいと思っていただけに、干し肉を作るという考えはなかった。
それだけに、少しだけヴィヘラの言葉に感心したのだった。