1587話
レイ達のいる森から、少し離れた場所。
そこには、天幕が用意され、二十人近くの兵士達の姿があった。
森にいれば木々によって和らげられる真夏の太陽の日差しを多少なりとも防ぐ為の天幕だったが、その天幕は非常に綺麗で……それこそ、これまで実戦で使われたことは殆どないのではないかと思わせるものがある。
そんな天幕の下で、一人の男が苛立たしげに叫ぶ。
「ええいっ、報告はどうした! 既に兵士達が森に入ってから、三時間は経っているぞ! なのに、何故まだ報告の一つもない!」
そう叫ぶのは、体重百kgを下回ることはないだろう体格をした、太った男。
鼻の下に髭が生えているが、頬を弛ませている丸い顔のせいか、威厳というものはない。
……いや、それ以前に全身弛んだ雰囲気とでも呼ぶべきものがあり、それが余計に威厳というものを感じさせないでいた。
「ラジャラス様、所詮平民共です。森の中で手こずっているのではないでしょうか?」
太った男……ラジャラスと呼ばれた男の周囲にいる男の一人が、自分は優れているという優越感を滲ませつつ、そう告げる。
すると他にも数人いる男達が、それに同意するように頷く。
……そんなラジャラスと取り巻き達を、天幕の外で警護に当たっている兵士達は苛立たしげな思いを抱きつつ、それを表情に出さないようにして聞き流す。
本来であれば、ラジャラスを守るのなら天幕の中で守ればいい。
だが、レーブルリナ国の貴族のラジャラスにとって、平民とはゴミに等しい存在でしかない。
そんなゴミが自分と同じ天幕の中にいるのは、絶対に許されることではなかった。
そのような態度を、自分の中だけで収めるのであればまだしも、如実に態度に出るような真似をしているのだ。
当然のように、周囲に配置されている護衛の兵士達は面白い訳がない。
ましてや、ここに配置されている護衛の兵士達はいずれもが訓練の中でも際だった成績を上げている、腕の立つ者達だ。
勿論部隊を指揮する隊長の護衛なのだから、腕の立つ者が配置されるというのは兵士達も納得出来る。納得出来るのだが……それでも自分達を指揮するのが、目の前にいるような人物であれば納得出来る筈もない。
(このオークが俺達の指揮官だぁ? ふざけるなってんだ。そもそも、部隊を指揮する立場にある奴が、何でああも太ってるんだよ)
護衛の兵士の一人が、苛立ちを我慢することも出来ずに喚き散らすラジャラスを見ながら、苛立たしく思う。
自分の中にある苛立ちが表情に出ないようにする為には、相応の苦労がある。
「そもそも、何でこんなに暑い場所で俺が待たなきゃなんねえんだ!」
「それは、やはりこの部隊を指揮するにはラジャラス様の力が必要になるからですよ」
「そうそう、この兵士達は所詮頭の悪い平民です。貴族たる我らが……ラジャラス様が指揮してやらねば、何をどうすることか」
取り巻きにそう言われ、多少なりとも自尊心が満足したのだろう。
ラジャラスは数秒前に浮かべていた苛立たしげな表情を、若干ではあるが緩める。
……当然そんな会話が聞こえていた兵士達の方は、面白くはないのだが。
しかし、ラジャラスは貴族だ。……それも、悪い意味で貴族らしい貴族。
もしここでラジャラスに不愉快な思いをさせれば、どのような報復が来るかは分からない。
所詮レーブルリナ国という小国の貴族……それも爵位で言えば下から数えた方が早い子爵でしかないのだが、それだけにラジャラスは自分の貴族らしさに固執しており、それが理由で今まで色々な騒動を巻き起こしてきた。
兵士達の中には、ラジャラスによって軍を辞めざるをえなくなった者もいる。
それだけに、どれだけ苛立ちがあるからといっても、ラジャラスに逆らうような真似をするのは絶対にやってはいけないことだった。
(腐れ貴族が。流れ矢でも飛んできて死なねえかな)
兵士の一人がそう思った瞬間、森の中から走り出てきた人影に気が付く。
一瞬敵かと思った兵士だったが、その兵士が見覚えのある人物だということを理解し、安堵の息を吐く。
森の中から出てきた兵士に気が付いたのは、貴族に内心で悪態をついていた兵士だけではない。
他の護衛の兵士達も、当然のようにそのことに気が付く。
そして兵士達が気が付いてから数十秒……森から現れた兵士が天幕の近くまでやってきたことにより、ようやくラジャラスやその取り巻き達はその兵士に気が付く。
「うん? お前は何だ? 誰の許しを貰ってここに顔を出して……」
「お待ちを、ラジャラス様」
兵士の顔を見て不愉快そうに呟くラジャラスだったが、取り巻きがそれに待ったを掛ける。
取り巻きとしても、ラジャラスの不興を買いたくはなかった。
だが、森から戻ってきたということは、何らかの情報を……それこそ任務を完了したという報告を持ってきたのではないかと、そう思ったからだ。
そのような報告を持ってきた兵士を斬り捨てるような真似をすれば、後々色々と不味いことになるのは明白だった。
勿論ラジャラスの取り巻きとして、平民に情けを掛けるといった真似をするつもりはなかったが、特に何の理由もなく兵士を処罰すれば、後々問題になるのは明らかなのだ。
「何だ?」
「この者は、恐らく任務を完了したという報告を持ってきたのではないかと。ラジャラス様の指揮で行われた以上、最初にその報告をするのはラジャラス様になります。その為、この平民も自分の身の程をわきまえ、こうして走ってきたのではないかと」
「そうですとも、さすがラジャラス様。指揮もお見事です。そこにいるだけで、兵士達のやる気も違ってきますな」
取り巻き達の言葉に、ラジャラスは激しく息を切らしている兵士を見る。
そこにあるのは、数秒前とは違って満足そうな色だ。
(馬鹿が)
そんなラジャラスと取り巻き達を見て、先程まで内心で不満を口にしていた兵士が、再びその不満を露わにする。
当然だろう。もし本当に森の中にいた敵を殲滅してやってきたのであれば、兵士の表情が青ざめ、恐怖に引き攣っていたりする筈がない。
であれば、間違いなく何かがあったのだ。
それも、数百人という兵士を向かわせたにも関わらず、どうにもならない何かが。
嫌な、非常に嫌な予感を覚えながら、護衛の兵士は息を切らせている兵士の様子を見る。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「ええい、いつまでそうしている! 早く何があったのか報告しろ! 勿論、俺にとっていい報告なのは間違いないんだろうな!」
兵士の様子に我慢出来なくなったラジャラスは、苛立ちも露わに叫ぶ。
そんなラジャラスの言葉に反応した訳ではないだろうが、それでもある程度息切れが収まってきた兵士が口を開く。
「森に入った味方……ぜ、全滅です!」
しん、と。
その兵士の口から出た言葉に、誰もが何を言っているのか意味が分からないと、沈黙を守る。
どこからか聞こえてくる、鳥の鳴き声。
先程からラジャラスに対して苛立ちを見せていた護衛の兵士も、何を言われたのか理解出来なかった。
敵の殲滅は成功したが、被害が大きい。
もしくは、敵が強くて苦戦している。
そのような報告であれば、護衛の兵士も納得出来ただろう。
だが……兵士が持ってきた報告は、味方の全滅。
とてもではないが、まともに受け取ることは出来なかった。
「い、いや、もしかしたらまだ生きてる人はいるかもしれません。ですが、あいつに……あの男に……ああ……ああああああああああああああああっ!」
何かを喋ろうとした瞬間、兵士はまともに言葉を口に出来なくなる。
それこそ、必死に押し込められていた恐怖が、その歯止めを失ったかの如く。
(何だ? 何があった?)
護衛の兵士は、急に叫びだした兵士の様子を見ながら、混乱する。
何がどうなれば、こうなるのか。
それが全く理解出来なかったからだ。
そして理解出来ないのは、他の者も同様。
いや、自分の思い通りにならないことが、ラジャラスにとっては一番許せなかった。
「ええいっ、叫ぶな! 無様に叫んでないで、何があったのか、早く説明しろ! この役立たずが!」
恐怖に叫んでいる兵士に向かい、取り巻きの一人が持っていた長剣を奪い取り、兵士に向かって振り下ろす。
勿論ラジャラスも兵士を殺すといったつもりはない。
長剣は鞘に収まっており、鈍器としてはともかく長剣としては使えないのだから。
肉を叩く鈍い音が周囲に響く。
だが……その程度では、兵士は我に返らない。いや、返れない。
それだけ兵士が見た光景は、圧倒的だったのだろう。
デスサイズと黄昏の槍を手に、血の中を舞うレイ。
その光景は、兵士とって畏怖と恐怖の象徴でしかなかったのだろう。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
頭を掻き毟る兵士に、ラジャラスは幾度となく長剣の収まった鞘を振り下ろす。
「ラジャラス様、その辺りで! 今ここで殺してしまっては、何の情報も得ることが出来ません!」
このままでは本気で兵士を殺してしまう。
そう判断した取り巻きが、慌ててラジャラスを制止する。
平民の兵士が一人死んだところで、何の問題もないのはラジャラスだけではなくその取り巻きにとっても同様だった。
だが、もしここでこの兵士を殺してしまえば、森の中で何か起きたのかという情報は何一つ得られなくなる。
それは不味い……という程度に、取り巻きは現状を理解していた。
「ぬぅ……だが、この者は自分に与えられた役割すら、満足にこなせなかったのだぞ。であれば、仕置きは必要だろう」
ラジャラスの言葉には、不満があった。
目の前の兵士に対する仕置きもそうだが、何より今もうるさく喚いているのが気に食わず、そのような相手を叩きのめすことに快感を感じていたというのもある。
だが……ラジャラスは、相手の状態をしっかりと確認してからそのような真似をすべきだった。
半ば狂ってしまって喚いている兵士に攻撃をするということが、どのような意味なのかを理解していないままで行動すべきではなかったのだ。
狂っているということは、既に兵士は常識というものを完全に忘れてしまっている。
……そう。普段であれば、攻撃をされても相手が貴族であれば……ラジャラスであれば、絶対に反撃出来ない相手だというのを分かっているだろう。
だが、常識がなくなっている今の兵士であれば、自分に攻撃してきた相手に対して反撃に出てもおかしくはない。
「ああああああああああああああああああああっ!」
「ええい、うる……」
うるさい、と。
そう叫びながら再び鞘に入った長剣で兵士を叩き付けようと思ったラジャラスだったが、次の瞬間には強い衝撃を受ける。
「ぐべぇ……」
本人は、何が起きたのか全く分からなかった。
それこそ、気が付けば顔が地面についていた……つまり、倒れていたのだ。
何が、と首を傾げながら起き上がろうとし、その瞬間頬に痛みが走る。
「ぐっ!」
痛い、と。
普段の生活により肉が余り、垂れている頬に手を伸ばす。
すると、次の瞬間には再び痛みが……激しい痛みがラジャラスを襲う。
「痛っ、何だ? 何が……」
そうして腹の肉に邪魔されながらも何とか起き上がったラジャラスが目にしたのは、護衛の兵士達によって取り押さえられている兵士の姿。
先程までと同様、激しく喚き散らしている。
ようやく起き上がったラジャラスを見て、何が起きたのか分からずに呆然としていた取り巻き達も我に返る。
「ラジャラス様、大丈夫ですか!」
「おのれ、平民風情が貴族に手を上げるなど、何を考えている!」
「殺せ、殺すのだ!」
そんな風に喚いている取り巻き達の様子を見て、ラジャラスはようやく何が起きたのかを理解する。
今、自分はあの兵士に……平民如きに殴られ、吹き飛ばされ、地面を舐めることになったのだと。
それを理解した瞬間、急激に頭に血が上ってくる。
平民風情が、と。
苛立ちに頭がどうにかなりそうになりながらも、ラジャラスは周囲を見回す。
そうして目に入ったのは、精緻な飾りを施された鞘と、そこから抜けて刃を露わにした長剣。
その刃に反射する光を見た瞬間、我を忘れてその長剣に手を伸ばす。
「貴様……殺す!」
殺気……と呼ぶには稚拙なものだったが、それでも本人はそんなことを全く気にした様子はなく、長剣を手に護衛の兵士に取り押さえられている兵士に向かって歩き出す。
その姿に、取り巻きの一人が気が付いたのだろう。慌てたように叫ぶ。
「ラジャラス様! 今は事情を聞く為に……ぐべっ!」
「うるさい。俺の前に立つな!」
取り巻きの腹を突き刺した長剣を引き抜き、叫ぶラジャラス。
だが……次の瞬間、森の中から飛んできた何かが、ラジャラスの長剣を持っている右手を吹き飛ばすのだった。