1517話
路地裏に、肉を打つ音が響く。
「げはっ、も……もう止めてくれ……頼む、俺が悪かった、悪かったから……」
二十代程の男が、そう言いながら自分が絡んだ相手……レイに向かって頭を下げる。
数発の拳をくらい、既にその顔は酷く腫れ上がっていた。
鼻と口からは血が流れて男の呼吸を乱し、周囲に幾つか散らばり、月明かりや表通りに存在する明かりを反射しているのは男の歯だろう。
まさに満身創痍といった様子の男は、数分前に戻ることがあったら絶対に目の前の相手に絡むなと、言ってやりたかった。
男の目論見通りであれば、本来なら今の自分と相手の立場は逆転していた筈なのだ。
馴染みの娼婦を抱こうと思ったら、何故かその娼婦は既に娼館からいなくなっており、半ば八つ当たり気味に本来ならまだこのような歓楽街に来るのは早いとレイに教えてやるつもりだったのだが……
完全に運が悪かったというか、絡む相手を間違えたとしか言えないだろう。
「そうですか? 僕としてはもうちょっと遊んでくれても嬉しいんですけどね。最近はあまり身体を動かす機会がなかったので、人を殴る感触というのはどうしても鈍りがちですし」
「ひっ、ひぃっ! わ、悪かった! 俺が悪かった! 金でも何でも出すから、頼むよ!」
「おや、おかしいですね。ランクE冒険者だと威張っていたじゃないですか。なのにこの程度でそこまでみっともない真似を晒すなんて……もしかして、偽物か何かですか?」
満面の笑みを浮かべて尋ねるレイに、男は恐怖以外の感情を抱くことが出来ない。
男がランクE冒険者というのは本当のことだが、それはあくまでもレーブルリナ国としてのランクE冒険者だ。
つまり、レイが知っているギルムにあるギルドに比べれば、小国で危険なモンスターが出る訳でもないレーブルリナ国のギルドの審査は、どうしても甘くなってしまうのだ。
……もっとも、強力なモンスターこそでないが、その代わりに盗賊の類は出没するのだが。
(それに、このメジョウゴみたいに大規模な歓楽街が……それも首都のロッシから外れるようにして、こうして存在してるんだ。考えてみれば、盗賊達にしてみれば格好の獲物だよな?)
なのに、何故盗賊に襲われるようなことがないのか。
そう考え、すぐにレイは納得する。
そもそも、このメジョウゴを運営しているのがアジャスの所属していた組織だとすれば、周辺の盗賊達と話がついていてもおかしくないだろう、と。
基本的に盗賊というのはどこかにアジトを構え、そこを中心に活動することが多い。
勿論それはあくまでも基本的にであって、実際には放浪しながら襲撃を繰り返す類の盗賊もいる。
だが、どちらが多いのかと言われれば、それは圧倒的に前者だった。
そうであれば、過信はともかく、普通に考えてメジョウゴが盗賊の心配をする必要はないだろうと、そう理解し……レイは改めて目の前で震えながら自分を見ている男に視線を向ける。
(情報を聞き出すには、一度徹底的に意思を折った方がいいな)
そう考え、笑みを浮かべて口を開く。
「さて、お兄さん。丁度いいから僕の実験に付き合ってくれませんか?」
「……じ、実験? それは一体……どんな実験なんだ?」
恐る恐るといった様子で尋ねてくる男に向かい、レイは満面の笑みを浮かべて口を開く。
「骨を折られ続けても、人がどれだけの時間平気なのか……そういう実験ですよ。大丈夫、僕はこう見えてそれなりに腕には自信があるので、きっとお兄さんも死んだりすることはないと思いますよ」
「ひぃっ!」
レイが口にした言葉が紛れもない本気だと、そう理解したのだろう。
男の口からは、押し殺したような悲鳴が上がる。
「わ、悪かった! 本当に俺が悪かったから、頼む! もう止めてくれ! な、な、な? ほら、俺が持ってる金も出すから」
そう言いながら、男は震える手で自分の全財産の入った革袋をレイに向かって差し出す。
だが、レイはそんな男の態度に満面の笑みを浮かべたまま……首を横に振る。
「いえ、誰も金を欲しいなんてことは言ってませんよね? 僕が欲しいのは、どれだけ骨を折ることが出来るのかという、そんな対象です。……大丈夫ですよ。こう見えて僕、骨を折るのは結構得意な方だと自負してますから」
「い、いい! それはいいから!」
「いい? ああ、喜んで実験材料になってくれるってことですか、それはありがたいですね」
いいという言葉を意図的に曲解しながら一歩踏み出すレイに向け、男は既に最初に絡んできた時の偉そうな様子は完全に消え去ったまま、慌てて首を横に振る。
「ちがう! 止めてくれ、そういう意味だ!」
「日本語って色々と難しいところがあるんですよね……」
「に、ほんご……? 何だよ、それは」
日本語という言葉の意味を理解出来なかったのか、それともそのような言語は知らないと言いたいのか。
それはレイにも分からなかったが、ともあれ自分の口が滑ったことに気が付き、小さく眉を顰め……だが、次の瞬間には再び笑みを浮かべて男に話し掛ける。
「何でもないですよ。……さて、それじゃあそろそろ始めましょうか。準備はいいですか? もっとも、骨を折る準備がどんな準備なのかは僕もしりませんけど」
「待て! 待ってくれ! な、頼む。ほら、俺がお前に絡んだのは悪かったって。その償いも十分にしただろ? なら、もう少しこう……頼む!」
目に恐れを浮かべ、それを隠すように深々と頭を下げてくる男。
そんな男の様子を見て、もう十分に意思が折れていると判断したのだろう。
そのまま近づいていき……頭を下げたまま震えている男の肩に軽く手を乗せる。
その感触に一瞬身体を震わせた男だったが、レイは笑みを浮かべたままその男に話し掛けた。
「じゃあ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、それに答えてくれるかな? そうすれば、お兄さんは見逃してあげてもいいよ? ……ただ、何も知らなかったり、ましてや嘘を吐いたりしたら……どうなるのかは、言わなくても分かってるよね?」
「わ、分かった。俺に分かることなら何でも教える。だから、もう許してくれ!」
男の言葉と態度にレイは満足そうに頷き、男に更に駄目押しをする為に数秒沈黙した後で口を開く。
「なら、このメジョウゴについてちょっと聞かせてくれるかな?」
「メジョウゴについて……? な、何を聞きたいんだ? お勧めの娼婦とかそういうのか?」
「んー……残念ながら少し違う。例えば、このメジョウゴのような場所を運営するには色々と特例みたいなものが必要でしょう?」
「……詳しくは分からねえが、多分そうだと思う」
冒険者の男に、街の運営やその許可といったことを聞いてもしっかりとした答えが返ってくる筈もない。
いや、冒険者の中にも頭のいい者はいるのだから絶対ではないが、少なくてもレイの前で震えている冒険者は、一般的に冒険者という単語で思い浮かべられるような乱暴な性格をしている男だ。
そのような人物に難しいことを聞いた自分が馬鹿だったのだろうと判断しつつ、改めて口を開く。
「じゃあ、次です。このメジョウゴには娼婦がたくさんいますけど、これだけの数の娼婦をどうやって集めたと思います?」
「は? そう言われても……村とかで食っていけない奴とか、楽して金儲けしたいとか、そういう奴が娼婦になったんじゃないのか?」
レイの口から出た問いに、男は何を言っているのか分からないといった様子でそう答える。
そこにあるのは純粋な疑問だけで、本気で女達が自分から望んで娼婦になる為にメジョウゴにやってきたのだと信じているようだった。
男の性格は粗暴ではあるが、だからこそ単純で、隠しごとが得意なようには見えない。
それは、いい意味でレイにとっては情報を得る対象でもあった。
だが、それ故に男が知っている情報はそう多くないだろうということをレイに理解させてしまう。
(しくじったな。都合よく向こうから絡んできてくれたから、色々な情報が入手出来るかと思ったんだが……いや、まだ諦めるのは早いか。他にも何か情報を得られる可能性はあるかもしれないし)
少しだけ残念に思いながら、それでもレイは改めて男に向かって尋ねる。
「じゃあ、次です。このメジョウゴ……歓楽街という名前通り、普通の街じゃないですよね? それはさっきも言いましたが、当然ながらこういう場所には独自に仕切っている者がいますよね? それこそ、ここを任されている貴族とか以外に」
いわゆる、みかじめ料や護衛料といった代物を払う必要がある相手のことだ。
正式にはどこかの貴族がこのメジョウゴを治めているという形にはなっているのだろうが、恐らくそれはブラフ……とまではいかないが、表向きの話だろうというのがレイの予想だった。
そして、実質的にこのメジョウゴを治めている組織こそが、アジャスの所属していた組織だろうと。
「それは……勿論知ってるけど、それを聞いてどうするつもりなんだ?」
恐る恐るといった様子で尋ねてくる男に、レイは何も言わず、ただ笑みだけを向ける。
そんなレイの様子を見た瞬間、男は背筋に冷たいものが走り、まだ夏で汗を掻いてもおかしくない熱帯夜だというのに、汗が引くのを感じていた。
「いや、何でもない! 何でもないから、気にしないでくれ!」
慌てたように告げる男に、レイは笑みを浮かべたまま……その質を変え、口を開く。
「賢いですね。……その賢さをもう少し早く発揮していれば、このような目に遭わなかったと思うのですが。……まぁ、僕は色々と情報が手に入って嬉しいのですが。さて、それで組織の名前は?」
「……ジャーヤ、という組織だ」
ビンゴ、と。
レイは内心で呟く。
その組織名は、当然のようにギルムの諜報部隊から聞いてはいた。
それだけに、ジャーヤという名前がここで出てくるというのはレイにとって予想通りの出来事ではあった。
しかし迂闊にその名前を出せば、怪しまれることになるということで、馬車で一緒になったコトナラに聞くようなことも出来なかったのだ。
「へぇ……ジャーヤ、か。その組織がメジョウゴを経営しているんですか?」
「そ、そうだ。けど、ジャーヤはこの国ではかなりの力を持っている組織だ。国の上層部にも繋がりを持っている奴がいるという話なんだよ。迂闊に触れられる相手じゃねえよ」
そう断言するのは、レーブルリナ国においてジャーヤがどれだけの力を持っているかを、理解しているからだろう。
(メジョウゴについての情報を俺に教えた、あの酒場で絡んできた男はジャーヤについて何も言ってなかったみたいだけど……まぁ、その辺りは言うまでもないとでも思ったのか? それともメジョウゴでは知られてるけど、それ以外ではそこまで名前を知られていないとか)
自分に絡んでくる男が情報源になっていることを微妙な感じで思いつつ、男に話の先を促すべく話し掛ける。
「それで、ジャーヤという組織の本拠地はどこにあるか教えてくれませんか?」
「お、俺が知るかよ! そもそも、ジャーヤは裏の組織だぞ!? 国の上層部とも繋がりがあるような組織なんだから、俺みたいな下っ端がそんなのを知る訳がないだろ!」
「……なるほど。まぁ、その辺は予想通りなのかもしれませんね。ですが、本拠地ではない場所なら知ってるんじゃないですか?」
「そ、そりゃあ……知ってることは知ってるけど……でも、それはメジョウゴについて少しでも知ってるような奴なら誰でも知ってるような場所だぞ?」
「裏の組織なのに、本部ではないとはいえ、アジトのある場所を大勢に知られていても問題はないのですか?」
男の口調に若干の疑問を感じているレイだったが、男は特に躊躇ったりする様子もなく頷き、口を開く。
「もしメジョウゴで何か問題が起きたら、そこに行くことになってるんだ。だから……」
交番? と一瞬疑問に思ったレイだったが、ジャーヤという組織が実質的にメジョウゴを運営しているのであれば、そのような場所も必要になるのだろう。
メジョウゴで騒動を起こせば、それはジャーヤの顔に泥を塗ることになる。
それが分かっていても、やはり酒場があり、娼婦がいるとなれば、羽目を外してしまう者も出てくる筈だった。
ましてや、メジョウゴにはレーブルリナ国以外に、他国からも人がやって来ているのだ。
ジャーヤという組織名を聞いても、分からないという者も多いだろう。
その後も、レイは男から色々と情報を聞くが、本人が言ってる通り特に何か重要な情報がある訳でもなく……それでも、細々とした様々なことを聞く。
特にお気に入りの娼婦がいつの間にか娼館から消えており、それが原因で苛立ち、レイに八つ当たりをしようと考えたと聞かされたレイは……ただ、溜息を吐くだけだった。