21.レオ、心配される(後)
咄嗟に魔力をまとわせる皇子だが、その正体を認めて大きく目を見開く。
彼は緊張を解き、代わりに困惑の表情を浮かべると、扉に縋るようにして佇む少年に駆け寄った。
「カイ!?」
そこにいたのは、噂の少女・レオノーラ付きの侍従、カイだったのである。
「どうしたんだ、いったい。君はレオノーラとともにエランドにいるはずだろう?」
「と、突然の訪問の無礼、なにとぞお許しください、殿下……」
「そんなことはどうでもいい。いったいどうした」
息も絶え絶えといった様子のカイに眉を顰め、半ば担ぎ上げるようにして室内に連れ込む。
すでに顔見知りであるオスカーや、人懐っこいロルフも、興味深げに「どうした?」とその顔を覗き込み、冷えつつあった紅茶を水代わりに差しだした。
カイは、「申し訳ございません、差し迫っておりまして……!」と、そのカップを退けると、その場に崩れ落ち、アルベルトの膝に縋りついた。
「皇子殿下……! 私は殿下に、我が主人の窮状をお伝えするべく飛んでまいりました……!」
「なんだって……!?」
アルベルトの顔がさっと強張る。
彼は、カイの傍に屈みこむと、その肩を揺さぶらんばかりの勢いで問いただした。
「どういうことだ。レオノーラの身になにかあったのか……!? 雪歌鳥は飛んでいないぞ!」
「雪歌鳥は、日差しに晒してはかわいそうだからと、主人は部屋に留め置いているようです。それに、かの鳥は、危機を明確に認識したときにのみ飛び立つものとお聞きしました。主人はあれだけの目に遭いながらも、それを危機として受け止めてはいないのでしょう。ですが、もう、見ているこちらのほうが限界です……!」
そう身を震わせて、カイは切々と、これまでにあったことを語りだした。
巫女の住まいとして指定されている聖堂に着くなり引き離され――これは掟としても――、少女が見るに堪えないぼろをまとわされていること。
もてなしを兼ねているはずの食事では、豚の内臓が出されたこと。
聖地巡礼の試練では、少女だけが貧民街に向かわされ、強い日差しの中を延々と歩かされたこと。
口汚く罵られ、ごみの山に押し倒されながらも、母の名を唱えいじましく耐え抜こうとしていたこと――。
「なんという……」
「試練と言われればそれまでです。ですが、かような扱いを受けているのは我が主人だけで、これだけでも抗議に値するものと考えました。本日、今まさに行われているであろう讃頌の儀では、いったいどのようなことが起きるものか……。エランドでの守りと抗議は聖騎士様に託しましたが、一刻も早く奏上せねばと思い、移動陣を使い継いで、馳せ参じました」
どうやらカイは、エランドの国境を抜けるまでは早馬を駆り、その後は魔力を持たぬ身でありながら、慣れぬ陣を連続使用してリヒエルトまでたどり着いたらしい。
どうりで疲弊しきっているわけだった。
「侯爵閣下には、すでに現状をお伝えしたのですが、お怒りのあまり全騎士団を動かす大号令を発しようとされ……それが仇となり、皇帝陛下に見とがめられて、現在身動きが取れずにおります」
「……なるほど」
アルベルトは苦い顔で頷いた。
国の使節として派遣している以上、少女に関する抗議は、親族である侯爵夫妻ではなく、帝国の皇帝より向けられねばならなかった。
それを飛ばして、国の持ち物である兵力を動かそうとするのは、たしかに越権であると言わざるをえない。
道理は理解しつつも、歯噛みしているだろう侯爵の苛立ちもまた、手に取るように理解できて、アルベルトはその秀麗な顔を歪めた。
身分や権力はときに、彼らの行く先を塞ぐ。
「かといって帝国からの抗議を待とうとも、正式な婚約者というわけではないレオノーラのためにそれをするのは、反発が大きく時間が掛かる……。それで、僕のところに来たということか」
「……恐れながら」
ヴァイツ帝国は、大国だ。国の頂点に立つ皇帝が、正式に抗議を上げるとなれば、それ相応の調整や段取りが発生する。
それを待っていては、間に合わないのだ。
カイは、この契約祭の滞在中に、少女がさらなる悪意に晒されぬよう、牽制することを求めているのだから。
「そうか」
アルベルトは短く答えると、カイをソファに座るよう促し、自らもまた腰かける。
そうして、整った顎に手をやり、素早く思考を巡らせた。
精霊めいた美貌を持つ少女が、下賤の輩や卑劣な男の欲を引き寄せ、道中に襲われるといったことは、アルベルトも侯爵夫妻も最も懸念し、かつ手厚く対策したところであった。
しかし、男子禁制の聖堂に入ってしまえば、自活の不便はあれど、その手の危険はだいぶ軽減されると踏んでいたのである。
なのに、まさか主催国そのものが、帝国の姫に嫌がらせを仕掛けてこようとは。
「聖騎士様は、エランドはなにかしら意図があって、ヴァイツを挑発しているのだろうと仰っていました。だからこそ、みだりに兵を差し向けることがあってはならないと。私もそう思います。ですが……主人に万一のことがあってからでは遅いのです……! 兵を差し向けずとも、抗議なり牽制なりを行い、あと一日を残したエランドの滞在中、なんとか主人を守れぬものかと、そう思い……!」
どうかなにか手を打ってほしいと縋りついて、カイは言葉を結んだ。
黙考する皇子に代わり、口を開いたのは、それまで黙って話を聞いていたオスカーだった。
「カイ。事情は理解したが……こいつにひどく難しい要求を突き付けていると、わかっているか? 公式な抗議を上げられる立場でもない、兵力を動かす大義もない。にもかかわらず、エランドにいるレオノーラを守れるような牽制をしろと?」
「それは、そうですが……殿下なら、きっとなんとかしてくださると……」
鋭く突っ込まれて、カイは言葉を詰まらせた。
主人への忠誠を優先するあまり、とかく暴走しがちな自分ではあるが、それでも、これがむちゃくちゃなお願いなのだということは理解していた。
アルベルトはあくまで皇太子であって、皇帝ではない。そして、この国で皇太子の権限は意外に小さい。
まして、少女は現時点で、彼の正式な婚約者というわけでもない。
ついでに言えば、情に動かされて安易に皇子がエランドに駆けつけ、魔力を揮おうものなら、それだけでヴァイツは精霊に仇なしたとのレッテルを貼られる。
しかしそれでも、彼は少女に雪歌鳥を託し、なにかあったら駆けつけると言ってくれた。
カイはそれに、賭けるしかなかったのだ。
「陣の件で、こいつに皇子としての権限を超えさせた俺が言うのもなんだが、貴族社会や外交における越権問題は、厄介なものだぞ。代償を払うのはおまえではなく、こいつだ。それをわかっているのか?」
オスカーはオスカーなりに、先日の陣の件で、アルベルトに随分な負担を強いたことを、自省しているのであった。
以前は融通の利かない皇族野郎としか思っていなかったが、今は、彼が貴族社会のしがらみに苦しみながら、友のために奔走してくれる人物だと知っている。
妹とも思う少女のことはもちろん助けてやりたかったが、同時に、弟分とも親しい友人とも思いはじめているアルベルトのことも、見過ごせなかったのである。
「それは、そうですが……っ、僕にはレオノーラ様を見捨てることなんて……!」
「――カイ」
とうとうカイが涙目になりながら、素の口調で身を震わせたとき、皇子が静かに切り出した。
「わかった。エランドに行こう」
「皇子?」
驚いたのはオスカーのほうだ。
彼は精悍な顔を驚愕の表情に固めると、まじまじと年下の友人を見つめた。
「おい、わかっているのか? 魔力持ちの帝国皇子が契約祭中のエランドに乗り込んだら、それだけでエランドへの侮辱だ。こんなこと言いたくはないが、レオノーラは……身体的な被害に遭ったわけではないのにと、過剰防衛と捉えられる」
「そうですか?」
言いにくそうに指摘されても、アルベルトは冷静だった。
「彼女の境遇に照らせば、十分すぎるほどの被害でしょう。どれも、レオノーラの忌まわしい過去の記憶を刺激するような仕打ちばかりだ」
「そうだが……しかし、あいつの過去は、他国には伝わらぬよう緘口令を敷いているんだろう? その理屈は、エランドには通じない。陣に続いて、外交でも越権問題を起こしたのでは、さすがにおまえだって――」
「オスカー先輩」
言葉を重ねるオスカーに向かって、アルベルトは愉快そうに片方の眉を上げてみせた。
「あなたは、一度懐に入れた人間に対しては、随分甘くなるようですね。気持ちは嬉しいですが、――でも、心配は無用です」
そうして、先ほどは顎にやっていた手を、ひらりと翻す。
彼はにこりと微笑むと、いつもの歌うような口調で告げた。
「もとより、雪歌鳥が飛んでくるようなことがあれば、僕は皇子の身分を捨ててでも、レオノーラのもとに駆けつけようと思っていたのです。――まあ今回は、その判断基準が飛んで来てくれないので、少し悩んでしまいましたが」
「なんだと?」
身分を捨てると、こともなげに言ってのけたアルベルトに、今度こそオスカーは絶句した。
アルベルトは、その美しい笑みを崩さなかった。
「僕はね、先輩。精霊祭の日を最後に、もう『完璧な皇子』なんてものに囚われるのはやめたんです。皇子でいる間は、最高の統治者を目指す。けれど、皇子でいつづける必要はない。……優先順位を間違えてはならない」
滑らかな声には、しかし、覚悟を決めた者だけが持つ凄味があった。
アルベルトは、先ほどオスカーからもらったばかりの布袋を取り出すと、中に納まっていた銀貨を取り出し、掌の中で弄んだ。
「もちろん、愚かな皇子として、魔力を振りかざしながらエランドに乗り込んでいくような真似は、さすがにしませんけどね。せいぜい父に気付かれて、侯爵と同じく足止めを食らうのが落ちでしょうし」
「……じゃあ、どうするっていうの?」
聞いていたロルフが、困惑もあらわに狐顔を傾げると、アルベルトは彼に向かって穏やかに微笑んでみせた。
「――クヴァンツ先輩。今日は三人で、とても楽しい時間を過ごせましたね」
「……はい?」
「誰にも乱入されることなく、僕たちは大いに盛り上がりました。情報通のあなたから契約祭の話を聞いた僕が、うっかり、お忍びでエランドに行きたいと思ってしまうほどに」
「――……!」
この場にカイは来なかった。少女の窮状を聞いたから駆けつけるのではなく、自分の意志でエランドに行くのだと仄めかすアルベルトに、周囲はそろって絶句した。
「魔力持ちの帝国皇子が、契約祭のエランドに乗り込んでいったらそれは国辱ですが、魔力をそぎ落として――少しばかり体術に優れた一般人が、祭に賑わうエランドを観光することに、なんの問題があるでしょう。この一般人は、権力こそ持ち合わせていませんが、ひとりの少女の盾になることくらいはできますし、エランドの方々は気配り上手なので、なんらかの便宜を図ってくれるかもしれませんしね」
非公式な方法で牽制を掛けるということだ。
たしかに、皇子という身分を取り上げたところで、アルベルトがそこらの護衛以上に武に長けていることは事実だし、彼にはよく回る頭脳も、語学力もある。
だいたい、これだけの容貌や迫力を突きつけられれば、誰だって彼が、「ヴァイツのやんごとなき人物」であることには気付くだろう。
グレーな身分のままエランドに入り、状況に応じて、一般人として少女を見守るなり、正体を匂わせて非公式に牽制を行うなりすればよいのだ。
「たしかに……正面切って乗り込むよりは得策だと思うが、物理的にどうやって駆けつけるつもりだ? 国境までは陣で瞬間移動できたとしても、今のエランド国内で魔力は使えないんだぞ。皇子の身分を隠すというなら、皇族専用に用意されている移動手段も使えまい」
エランドには、皇族が視察に訪れたときなどのために、終日利用できる馬車や馬、専用の道の類も整備されているが、一介の学生という方便を通すならば、それも使えない。
それでは、もう半日後に迫った契約祭最終日にすら間に合わないだろう、と指摘するオスカーに、アルベルトは首を傾げてみせた。
「先輩。ベルンシュタイン商会の息子ともあろう方が、なにを仰るのですか」
「なんだと?」
「僕だって、民間の交通機関を使うときは使いますよ」
そうして彼は、掌に乗せていた銀貨をぴんと弾くと、それを受け止め、オスカーに差し出してみせた。
「天下のベルンシュタイン商会であれば、皇族専用に整えられたものより、よほど迅速に移動できる交通手段ネットワークをお持ちでしょう? 数マイルごとに走りつぶせるくらいの大量の替え馬も、近道を知り尽くした現地の案内人も用意できるはず。――それを、買わせてもらいます」
「は……」
珍しく、オスカーはあっけにとられた顔をした。
彼はしばらく呆然としていたが、やがてくっと吹きだすと、こらえきれないというように笑い出した。
「――傑作だ。皇族が、しがない商人の伝手を頼る? 魔力でも権力でもなく、金の力で事態を乗り切ろうって?」
皇族とは龍の末裔。
その魔力は絶大で、また、彼らが指をひと振りすれば、一族郎党の首がまとめて飛ぶくらいの権力だって持っている。まるで別次元の生き物。
にもかかわらず、そんな皇子が、まさか金にものを言わせるような真似をするとは。
「ああ、面白い。実に愉快だ。こんな皇族、きっと今までに誰もいなかったぞ」
腹を抱えたオスカーが、からかうように告げると、アルベルトはひょいと肩をすくめた。
「ご存じなかったんですか? 僕は聖杯でも剣でもなく、史上初めて金貨なんて龍徴を授かった――金貨王なんですよ」
告げる声に、もはや葛藤や鬱屈の色はかけらもない。
アルベルトは、以前は表情に乏しかった白皙の美貌に、今や年相応の冒険心と誇らしさをにじませて、ふっと口の端を持ち上げた。
レオ逃げてー(棒読み)