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無欲の聖女は金にときめく  作者: 中村 颯希
第三部(完結編)
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13.レオ、アツい試練を受ける(後)

 うわっと、と咄嗟に手を突くが、見事巫女装束ごとごみに盛大にハグしてしまう。

 古着でよかったと心底思う瞬間だ。


『どうだ、ごみにまみれる気持ちは!』


 少年はすっかり興奮してしまったらしく、一生懸命なにかまくし立てているが、


(――……おお?)


 もともとごみ拾いのバイトも経験したことのあるレオは――しかもヴァイツのごみのほうが数段臭かった――なんら堪えることなく、むしろ目を輝かせて、その中身を検分していた。


(やっぱこれ、マンダルの皮だ! へええ、これ、こうやって使うのかあ!)


『どうだ、ごみと蔑まれる俺たちの気持ちが、少しはわかったか?』


(刻んであるのは、きっと混ぜやすくするためだとして……あ、ちょっと表面も擦って、香りを強めてんのか? なるほどなあ、食いながらこすっときゃ、手間もかかんねえもんな。すげえ、これ、見本として持って帰ろ)


『はっ、言葉もねえか!』


(食い終わったマンダルの皮で、金を掛けずに強力消臭剤にする……。エランドの粋と知恵を感じるぜ! パねえ、エランド下町クオリティ!)


 少年の発言などガン無視し、レオは興奮に目を潤ませた。

 やはり、ここに来れてよかった。

 聖堂近辺に籠っていたのでは出会えなかったたくさんの発見が、この下町には溢れている。


(ありがとう、少年!)


 きっかけをくれた少年に感謝を伝えようと、ごみ山にうずくまったままのレオがぱっと顔を上げた瞬間、


「なにをしている!」

「レオノーラ様!」


 見知った声のヴァイツ語が、鼓膜を震わせた。

 少女の窮状を見て、とうとう女官を追い越し走り寄ってきた、グスタフとカイである。


 グスタフは素早く少年の腕をつかんで拘束し、カイはレオの横に跪くと、取り出したハンカチで甲斐甲斐しくその手を拭いだした。


「レオノーラ様……! なんて、お労しい……!」


 そうして、少年をぎっと睨みあげる。

 そのアーモンド形の瞳には、ここに来るまでにため込んでいた焦燥と苛立ちが、炎となって揺れていた。


「あなたは、自分がなにをしたのか、わかっているのか!」


 怒りのあまり、声が震える。

 なぜいたいけな主人のもとにばかり、こうも禍が降りかかるのかと思うと、不敬にも精霊に怒鳴り散らしたくなる思いだった。


 虐待されながらも清い心を失わなかった、善良な主人。

 そのまぶしいほどの魂を持つ主人に対し、精霊が与える試練は、いつもあまりに過酷だ。


 母親を奪い、安全な幼少時代を奪い。

 ようやく侯爵夫妻の庇護と皇子の愛を許したと思ったら、今度はそれにふさわしくあるための困難を与える。


 これが祝福を得るための試練であると信じて、異国の太陽に肌を焦がし、卑しい土地で剝き出しの悪意にさらされるというのは、どれほど心細いことであったろう。


 暑さに息を乱し、縋るように「母様!」と悲痛な叫びを上げ。

 あげく、汚らわしい、ごみの山に突き飛ばされるなど。


 目を潤ませ、身を震わせながらごみの山にうずくまっていた少女を見て、カイは目がくらむような怒りを覚えた。


 とそのとき、


『ちょ……ちょっと! あん……あなたたち、なんのつもりですか!』

『神聖なる試練を妨げるおつもりか!』


 追い越されていた女官たちが、慌ててこちらにやってくる。

 早口のエランド語で、なにやら抗議の言葉を上げているらしい彼女たちに、カイはかまわずヴァイツ語で言い返した。


「母様、と声を震わせるような少女をいたぶって、あなたたちの心は痛まないのか! あなたたちにこそ、精霊の罰が下りるといい!」

『なんだって……?』

『カアサマ……?』


 剣呑さだけは伝わったようだが、残念ながら完全な意思の疎通は図れない。

 もどかしさに声を詰まらせていると、向かいで少年を拘束しているグスタフが、冷静な声で指示を飛ばした。


「従者殿。エランドの地での抗議は俺が受け持とう。あんたは、ヴァイツに戻って閣下や殿下にこの事態を伝えてくれ。いいかげん、試練の域を超えている。これは国辱だ」

「は、はい……!」


 力強く頷くが、次の瞬間には眉を下げる。

 ヴァイツに戻るとなると、主人から離れてしまうことになる。

 ただでさえ守りが少ないというのに、それが心配でならなかった。


「あの……、伝令を飛ばす、という形ではいけませんでしょうか……?」


 懸念を察したのか、グスタフが「まあな」という顔になる。

 しかし彼は軽く眉を上げると、ひょいと肩をすくめてみせた。


「気持ちはわかるが、あの(・・)閣下に、あの(・・)殿下だぞ? 伝え方を間違えりゃ、一気に戦争が起きる。だが、それは得策じゃない。事態は、繊細かつ、ひとかけらの過不足もなく伝えられる必要がある。――言っている意味が、わかるか?」

「…………はい」


 事態の重大さを飲み込み、カイはごくりと喉を鳴らした。

 そうして表情を改め、背後にかばっていた少女に向き直る。

 彼女は、突然現れたカイたちと、その後のやり取りにすっかり取り残されてしまったようで、困惑したようにこちらを見上げていた。


「ええっと……カイ……? あの、これっていったい……? よく、わからないですが……私、大丈夫ですからね? 私のために、争わないで、くださいね……?」


 まるでロマンス小説のヒロインのようなセリフだが、レオとしては、掛け値なしの本音である。

 気楽なひとり旅だと思っていたのに、急にカイたちが現れてギザギザハート少年を拘束し、なんだか大事になってきてしまった。


 しかしその発言を、これまた自己犠牲的発言と取ったカイは、きゅっと眉を寄せた。


 攻撃されても平気だと言い張る少女。

 こんな主人だからこそ、本人以上に周囲が、彼女を守るために動かなくてはならない。


「……レオノーラ様。私はいっときお傍を離れますが、すぐに戻ってまいりますので」

「え? あ、は……?」

「聖騎士様。あとは頼みました……!」

「カイ!?」


 言うが早いか、カイは素早くその場から走り去った。

 どうせエランド語のできない自分には、少年や女官たちを非難することもままならないし、護衛役ならばグスタフがいる。

 ならば一刻も早くヴァイツに向かって、少女の窮状を訴えるべきだと思ったのである。


「ええと……」


 悲壮な覚悟を浮かべて走り去っていった弟分に、レオは困惑の呟きを漏らした。

 この展開自体にも付いていけていないが、最近ますます感情の起伏の激しい弟分が、少々心配だ。


 というか、本当に彼はヴァイツに戻ってしまったのだろうか。

 うっかり侯爵夫妻に変なことを告げて、炎上(ファイア)させてしまわなければよいのだが。

 過保護なカイが過保護な夫妻や侯爵軍を引き連れでもしたら、ちょっとこと(・・)だ。


(いや……リヒエルトに戻るまでは丸一日かかるだろうから、明日の脱走計画は変更なく行けるだろうけど、するってえと、カイとはこれが最後のお別れになんのか……)


 なんとも中途半端な別れ方に、つい寂しいじゃんかと眉が下がる。

 だがまあ、ほとぼりが冷めたら、少年の姿で様子を見に行けばいっか、と割り切ったレオは、ようやく、この事態の原因となった少年に視線を戻した。


 と、


『なにしやがる! 俺を縛り首にでもする気かよ!』


 ずっとグスタフに拘束されたままであったらしい少年が、きゃんきゃんと騒ぎはじめる。

 囲まれ、腕までも掴まれ、収まりがつかなくなってしまったのか、彼は褐色の顔を歪めて叫んだ。


『言っとくが、俺は謝らねえからな。先に侮辱したのはこの女のほうだ! 適切な罰を与えたと、精霊には褒めてもらいたいくらいだね!』

『なんだと? おまえ――』 


 グスタフがすぅっと目を細めると、にわかに辺りの気配が緊迫しはじめる。

 まるで、牙を剥いた獣のような獰猛な雰囲気に、少年や女官たちも一瞬息を呑んだ。


 が――


「グスタフ先生。やめて、ください」


 そのとき、まるで清かな水のような声が響き、周囲の空気が緩んだ。


 声の持ち主である少女は、困ったような顔でグスタフの腕に触れ、そっと少年から引きはがすと、目を丸くしてこちらを見ている彼に向かって、今度はにこりと微笑んだ。


『もちろん、あなたが謝る必要は全然ないですよ』


 そうして、驚くべきことに少年に合わせてか、かすかなスラングのニュアンスを伴って話しかけるではないか。


『すみません。つたないエランド語のせいで、誤解させてしまったんですよね。自分には、あなたを馬鹿にするつもりなんて、全然なかったんです。ただ、あなたたちのごみの処理方法が気になって、尋ねてみようとしただけなんです』

『え……?』

『そこは、訂正させてもらいますね。あ、あと、訂正をもうひとつ』


 少女は、そのほっそりとした手で少年の手を取り、丁寧に頭を垂れた。


『あなたが自分にくれたのは、罰じゃなくて、教えです。だから自分は、お礼を言いたい。ありがとうございます』

『な……なんだって……?』


 少年は、困惑のあまり声を詰まらせた。

 まさか、少女がごみの処理方法について聞こうとしていただけだったなんて。

 しかも、早とちりしてごみ山に突き飛ばしまでした自分を、責めるのではなく、感謝してくるだなんて。


 触れ合った手から、どきどきと鼓動が駆け抜ける。

 その白く細い腕は、ごみに触れてもなお美しく、指先からは柑橘の爽やかな香りがした。


 少女は、エランドでは見たこともない紫の瞳を優しく細め、微笑んだ。


『あなたのおかげで、あなたたちの生活が、よりわかりました。聖堂にいたのでは、けしてわからないことでした』


 これには、少年だけでなく、やりとりを見守っていた周囲も驚いた。


 その発言から、少女がエランドの貧民街にまで、理解と慈愛の手を差し伸べようとしていることは明らかだ。

 特に、以前少女が水不足を回避するために奔走していたことを知っているグスタフは、今回もまた、彼女がエランドの民に心を砕いているのだろうことを即座に悟った。


 生活を理解する。

 すなわち、ごみにまみれながら生活する貧しき人々に寄り添うということだろう。

 彼女は、ごみの山に突き飛ばされて傷つくのではなく、そこに人々の生活を重ねて心を痛めていたのだ。


 同様のことを思い至ったらしい少年は、『あ……』とただ声を震わせた。

 彼にはもはや、ごみを浴びてもなお気高く微笑んでいる黒髪の少女が、光の精霊のように思えてならなかった。


『その……す、すみません。あの……俺……! ほ、本当にすみません!』

『だから、謝らなくていいですってば』


 あえて砕けた話し方をしているのだろう、その心遣いまでもまた、尊い。


 すっかりその慈愛深さに言葉を失い、立ち尽くしている周囲をよそに、少女は汚れきった装束をちらりと見下ろすと、ふと思い出したように呟いた。


『そうだ、讃頌。聖堂に戻って、光の精霊の土地を褒め称える仕事が残ってるんだった……』


 契約祭二日目の夕刻には、それぞれが目にした土地の素晴らしさを、光の精霊に奏上する儀式があるのだ。

 だいぶ遠くまで足を運んでいる少女は、もうそろそろ引き返しはじめねばならない頃合いだった。


『……今から戻ったのでは、儀式開始のぎりぎりといったところです。おそらく、この汚れを落とし、身支度を整える暇はありません』


 それまで沈黙を守っていたカジェが、そう指摘した。

 その声には、少しだけ――そう、ほんの少しだけ、少女への心配と申し訳なさがにじんでいた。


『そうですか。大丈夫です、このまま出るので』

『え……?』


 戸惑ったのはカジェたちだ。ただでさえ嫌がらせで送りつけられた、ぼろ布のような衣装。

 しかもごみで汚れきっているというのに、そのままでよいとは。


『あ、もしやあんまり汚れてると……違う、汚れてごぜえますと、精霊様が気にしますことですか?』

『いえ……精霊は貴賤に囚われぬ存在ですから、魂が清く、巫女の装束さえまとっていれば、そのようなことは……。むしろ、あなたが嫌ではないのですか?』

『ああ、それは大丈夫です。この、ごみで汚れた衣装というのが、私には丁度がよろしいのでありますから』

『……なんだって……?』


 汚れていてこそ丁度いい。

 その言葉の真意を掴みかねて、カジェは思わず素の口調で漏らした。


 だが、少女はそれには答えず、にこっと微笑むと、踵を返し、そのまま歩きはじめてしまった。

 聖堂に帰るつもりなのだろう。


『ねえ、カジェ。今の、いったいどういう意味だと思う?』


 後姿を見守るスーリヤも、横で眉を寄せている。

 しかしその問いには、


『――知りたいか?』


 カジェではなく、ヴァイツの聖騎士が答えた。


『おまえたちが、あの子にどれだけの無体を働いていたか、知りたいか?』

『な……』


 その、猛禽類を思わせる目つきに、思わず喉が鳴る。

 じり、と無意識に後ずさっている間に、彼は呆けたような顔で佇んでいた少年を追い払うと、カジェとスーリヤを順に見やった。


 そして、周囲に聞こえないような低い声で、衝撃の一言を告げた。


『彼女は、下町のあばら家で、虐待を受けながら育ったんだ』

『なんだって……!?』

『下町って、どういうことさ! 貴族の娘なんだろ!?』


 驚きのあまり、ふたりは下町訛りで問いただす。

 グスタフが『それが素か』と片方の眉を上げたので、カジェははっと口を押えたが、今は自分たちの育ちを云々している場合ではないと判断し、きっと相手を見据えた。


『どうでもいいだろ、そんなこと。それより、どういうことだい。あの子は、そっちの国の皇子とも恋仲になるような、姫君中の姫君なんだとあたしたちは聞いたよ?』

『それは事実だ。だが――彼女が卑劣な輩に鎖でつながれ、想像を絶する幼少時代を過ごしたというのも、また事実だ』


 どちらも事実にかすりもしていないというのは、たいそう残念なことである。


『鎖だって……?』


 不穏な単語に、カジェたちが青ざめる。

 グスタフは、かつて少女を払いのけたこともある己の右手を見下ろし、その男らしい顔に悔恨の表情を浮かべて続けた。


『彼女の生まれは少々わけありでな。確かに侯爵家の血を引きながらも、彼女は母親の命と引き換えに、下町で産み落とされた。そして、彼女の美貌に目を付けた卑劣漢に監禁されていたんだ。食事も教育も与えられず、ヴァイツの厳しい冬でも、ぼろきれ一枚しかまとえなかったと聞いている』

『そんな……』

『エランド語ではわからないだろうが、彼女は母国語であるはずのヴァイツ語を話すとき、妙に言葉を詰まらせることがある。おそらくは、その男の機嫌を損ねるたびに殴られて、話すことへの本能的な恐怖を刻み込まれたんだろう。聞いた話では、けがをしても薬草すら与えられず、放置されていたそうだ。幼い手で必死に食料を掻き集め、傷ついた手で己の怪我を手当てしたことも、あったかもしれない。死んだ母を想い、泣きながら――な』


 カイから始まり、ビアンカ、ナターリア、そしてグスタフ。

 語り手による様々な補完作業を経て、レオノーラ残酷物語は、とうとう最終形態を得たようだ。

 真実との乖離っぷりが、いよいよ天元突破といったところである。


 しかし、カジェとスーリヤの脳裏では、その話と少女の言動がすさまじい勢いで符合しつつあった。


 湿った薄暗い部屋を見て、実家のようだと語った少女。

 あれは侯爵家のことではなく、彼女が繋がれていたというあばら家のことだったのだ。


 毒の中には、化膿の進行を止めるものもある。

 もしかしたら、虫の毒を有益と言い放ったのには、そのような意図もあったのかもしれない。


 ぼろ布のような衣装ですら喜んでいた彼女。

 油の一滴すら残さず料理を食べていた彼女。

 なにより――


『……カアサマっていうのは、もしやヴァイツ語で、母親のことかい』

『ああ。子どもが母親に、丁寧に呼びかけるときに使う言葉だが』

『…………』


 カジェはぐっと口を引き結んだ。

 そして少ししてから、絞り出すようにグスタフに告げた。


『……あの子。ぼろぼろの精霊布を握りしめては、毎晩、「カアサマ」「カアサマ」って呟いてた。あたしたちが覗きに行ったら、慌てたように寝台に隠して、笑ってたけど。あれは……そういうことだったのかい』


 残念ながらそういうことではなく、精霊布の編み方をマスターした末の、儲けを思っての呟きである。

 だが、それを指摘できる者は、この場にはいなかった。


『……あたしたち、なんてこと』


 涙もろいスーリヤが、その琥珀色の瞳を潤ませはじめる。

 妹分として、スラムの中でも愛されて育ってきた彼女は、ときどきカジェでも驚くくらい他人に冷酷になれるが、基本的に情が厚いのである。


 カジェもまた、ぎりぎりと手の皮膚が切れそうなほどに、拳を握りしめていた。


『……富を浴びて育った、箱入り娘じゃあ、なかったのかい……』


 今の今まで、カジェはそう思い込んでいたのだ。

 優しくできるのは、しょせん余裕があるから。

 そんな、経済的にも精神的にも恵まれた人物に、貧しく哀れな自分たちが付け込むことの、なにが悪いと。


 だが違った。

 彼女は、カジェたちと同じ貧しい下町で、カジェたちが得ていた愛情すら受けずに、亡き母だけを心の支えに生きてきた。

 それでもなお、優しさを失わなかったのだ。


 だというのに、ようやく貴族の娘として日の当たる人生を歩きだそうとしたところを、自分たちは再び、貧しさと悪意に満ちた境遇に引きずり込もうとした。

 それはなんという、悪逆の仕打ちだろうか。


 呆然と立ち尽くすカジェたちの先では、古びた衣装に、ごみをまとわせた少女が、照り付ける太陽の下を凛と歩いている。

 ひどくみすぼらしい姿のはずなのに、汗を滴らせた白い横顔がとびきり美しく見えて、そのまぶしさに、カジェは涙ぐみそうになった。


『――歩かせるのか?』


 ふたりを見下ろしたまま黙っていたグスタフが、やがて静かに切り出した。


『彼女を、これ以上。ごみと、古衣装と、悪意をまとわせたまま聖堂まで歩かせて、精霊の御前に(ひざまず)かせるのか?』

『…………っ』

『俺もかつて、おまえたちと同じような仕打ちを働いたことがあった。だが……いや、だからこそ、もうこれ以上、見過ごしてはおけない。せめて彼女は俺が担いでいく。見逃せ』


 そうして、カジェたちを置いて少女へと歩み寄っていく。

 その迷いない足取りを見て、とうとうカジェは叫んだ。


『――待ちな!』


 異国の騎士と、その先の少女までもが驚いたように振り向く。

 花のような紫の瞳が、なんの嫌悪も不信もなくこちらを見つめてくるのを受け止めながら、カジェは唇をぺろりと舐めた。


『巫女の試練を、その国の者が助けるのはご法度だ』


 もはや、取り澄ました口調に偽ることすらしない。

 少女の前では、ありのままでいたいと思った。


 スラム育ちで、教養も品もないカジェ・タルムエル。

 それが自分だ。


『だが――』

『だから、あたしたち(・・・・・)が運ぶ』


 瞠目した男に、にっと笑いかけ、カジェは傍らの妹分にきっぱりと告げた。


『スーリヤ。さっきの坊や、たしかキナフ兄んとこの甥っ子だ。さっきの詫びをしろと言いくるめて、その辺の男衆もまとめて、連れといで。あいつら、籠運びの賃稼ぎもしてんだろ。その籠もだ』

『カジェ……!』


 目を潤ませていたスーリヤが、ぱっと喜色を浮かべる。

 しかし次の瞬間には、戸惑ったように言いよどんで、カジェを見上げた。


『でも、いいの? 銀貨――』

『スーリヤ。あたしたちは豚の内臓を食べるような人間だが、母親を恋しがって泣くような子どもをいたぶるのは、豚のクソの所業だ。クソに、人間様の銀貨なんてもらっても、使いこなせやしないだろ?』


 はんと笑って言い切ると、スーリヤは一瞬虚を突かれたように黙り込み、それから、にかっと笑って頷いた。

 涙の気配など感じさせない、力強く、生き生きとした、いたずらな猫のような瞳である。


『――おっけ。任せて、ついでにジジババの家を強襲して、マンダルの皮もどっさりもらってくる』

『あと、カルの実の種もね』

『そうそう。それと、牛毛の筆と、ラズバの実。待ってて、百数える間に戻るから』


 マンダルとは、彼女たちが匂い消しに使う柑橘で、カルとは上質な油を種に宿す植物だ。

 油を搾って髪や肌に塗れば、艶が出て、ついでに害虫からも守ってくれる。

 筆は、廃物となった牛の毛から作った化粧用のもので、ラズバの実はすりつぶすと紅になる。

 どれも、彼女たちだけが知る、貧民の知恵の結晶であった。


『……掟で馬に乗れぬ以上、籠を出してくれるというのはありがたいが、いったい、なにを……?』


 さすがに化粧には疎いらしい聖騎士が怪訝そうにするのを、カジェはふんと鼻で笑ってみせた。


『まあ、見てな。スラムの知恵と、洗濯女の技術と、あたしたちの意地と誇り。全部合わせて、光の精霊様もびっくりするくらい、ぴかぴかの美少女にしてやるよ』


 少女が「えっ」と驚いたように肩を揺らす。

 そのなんの邪心も持たない様子は、まさに光の精霊そのものだ。


 かつて貧しい土地に降り立ち、その民とともに種を蒔いて泥まみれになった姿を、奇跡の力で、一瞬で禊いでしまったという精霊。


 今回その奇跡を起こすのは、貧しい人の子である自分たちだと、カジェは口の端を引き上げた。

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