8.レオ、エランドに向かう
「レオノーラ様。レオノーラ様。そろそろお目覚めください」
カイの声が聞こえる。
――ピィ! ピピィ!
ついでに、軽やかな鳥のさえずりも聞こえる。
頬に感じる陽光は春めいて温かく、規則的な振動はどこまでも眠気を誘った。
(あれ……俺、どこにいんだっけ……。鳥の鳴き声……森か? 夕飯の山菜、早く摘まねえと……あと……業務用の葉っぱ……堆肥の原料……金……カネ、カネ……)
つい通常仕様で思考が斜め上にずれていくが、ふと振動の正体に思い至って、レオは考えを軌道修正した。
(ちげえ、これ、馬車だ。乗合い馬車じゃなくて、腰痛知らずのめっちゃ高級なやつ。あれ? なんで俺、馬車なんかに――)
と、意識が徐々に浮上してきたタイミングで、
「ハーケンベルグ、起きろ。いよいよ国境を越える」
「わ!」
あまり耳慣れない低音を聞き取って、レオは跳び起きた。
きょろきょろと周囲を見回して、ようやく現状に追いつく。
微笑ましそうに隣から覗き込んでいるカイ。
向かいの席で足を組んでいるグスタフ導師。
ついでにその横の席には、籠に収められた白い鳥。
レオは、寿ぎの巫女を務めるため、エランドに向かう馬車の中にいたのだった。
「ああ……すみません。すっかり、眠って、いました……」
さりげなくよだれチェックをしながら、軽く詫びる。
すると、カイが苦笑した。
「無理もございません。エランド行きが決まってから今日の明け方まで、ろくに眠らずに過ごされていたのですから。私が何度寝台にお連れしても、そこから飛び出て、講師陣に教えを請いに行かれていましたしね」
「はは……」
副音声に「僕すっごく心配したんですけど!」という恨み節を聞き取って、レオは視線を泳がせた。
まあ確かに、ちょっと貪欲になりすぎたかな、という自覚はある。
(だって、タダで学べるのもこれが最後かと思うとさあ……)
タダで身に着けられる学問は尊い。
脱走したら同じ水準の教育は受けられないと思うと、ますます愛おしい。
要は、バイキングの制限時間間際になって、手あたり次第に料理を口に突っ込むのと同じ心理なのであった。
しかも今回、歴史や宗教学などのいわゆる机上の学問だけでなく、契約祭を自力で乗り切れるようにと、作法や馬術、おいしいお茶の淹れ方から着付け、ベッドメイキングまで、かなり実践的分野を指導してもらえた。
実践的。
すなわち金儲けに直結しやすいということだ。
侍女頭自らが完璧なベッドメイキングの仕方を教えてくれたときなど、レオはこれで上等な宿屋にも勤められると確信して身を震わせた。
技術や知識というものは、盗まれることがないぶん、最高の財産なのである。
そんなわけで、権威ある学士よりも、むしろこうした講師役を務めてくれた使用人たちにこそ、感謝の念を捧げまくっていたレオであるが、その姿が謙虚の極みと映っていることには気付いていなかった。
「まったく……契約祭のしきたりだから仕方がないとはいえ、レオノーラ様が使用人の仕事をこなす姿を見て、私たちはどれほど胸を痛めたことか……まあ、完璧すぎる仕事ぶりに、驚きも大きかったですけれど……」
「胸を痛める? なぜ? 私、あれらのことこそ、学べて、とても、とても嬉しかったのです」
ぶつぶつとこぼした文句に、そんな純粋な表情で反論されて、カイは小さく感嘆の溜息を漏らした。 まったく、主人のこの穢れなさときたら、どうだろう。
と、遣り取りを見守っていたグスタフまでもが、思わしげな顔つきになった。
「巫女のエランド滞在中には、一応女官も付くが、こいつらは巫女の使用人というよりは、聖堂付きの従事者だからな。安全の確保くらいはしてくれても、世話はしてくれない。それに、聖堂内には俺たちも立ち入れないから、そこでなにが起こっても、すぐには駆けつけられない」
そんな環境下で、貴族令嬢が自力で生活していけるかが気がかりだというグスタフに、カイはすかさず同意する。
「本当に、腹立たしい掟ですよね。『聖堂内には、清らかな乙女しか足を踏み入れてはならない』など、いったい誰が決めたのか……」
このまじめな従者は、掟のせいで敬愛する主人を一人きりにしてしまうことを純粋に怒っているのだったが、レオの解釈は少々異なった。
(あ……っ! そ、そっか、カイは、女になりたいんだもんな。心は女なのに、男だからって弾かれたら、そりゃ気分悪いよな)
同情するが、しかしなんと言葉を掛けてよいものかわからなかったレオは、ひとまずそこには触れずに二人を宥めることにした。
「あの、カイ、そんなに怒らずに……。先生も、心配のしすぎです。自分で生活、慣れています」
レオからしてみれば、服を着替えるのにも、風呂に入るのにも使用人が付いてまわる今の生活こそが異常なのだ。
一人で生活できるなんて、気楽以外のなにものでもなかった。
「レオノーラ様……」
対してカイは、少女のそんな発言に、さりげなく孤独の色を感じ取って、表情を曇らせた。
虐待されて育ったという主人。
たしかに言葉通り、自分で自分の生活を支えざるをえなかったのだろう。
(ああ……きっと、幼い手で、懸命に食事を整えたこともあったろう。寒さに震えながら、寝床を確保したこともあったろう。もしかしたら、土を掘り起こして生の芋をかじったこともあるかもしれない。それでお腹を壊したりして……それでもって、弱った体で薬草を摘みに……泥に足を取られて……ああ、なんと残酷な……!)
カイの脳内劇場のほうが、よほど少女に対して残酷である。
ひとり涙ぐんでいると、グスタフが真剣な表情を浮かべて少女に告げた。
「おまえの、そのなんでもひとりで背負おうとする心意気は買うが、俺たちにも頼ってくれ。でなければ、ヴァイツに置いてきた騎士団や、侯爵閣下に俺たちが殺される」
口調こそ軽いが、半ば本気である。
「聖なる期間のエランドに、禍々しい龍の血や兵を引き入れてはならない」という契約祭の掟に則り、魔力をふんだんに持つ侯爵夫妻や騎士団は歯噛みする思いで、ヴァイツから少女を見送ったのだから。
魔力を持たないという理由からレオノーラ付きを勝ち取ったグスタフとカイは、「くれぐれも、くれぐれも、くれぐれも道中レオノーラをよろしく」と、彼らからほとんど呪いのように護衛を委任されているのである。
少なくとも、武力関連は俺に任せてくれ、と付け加えたグスタフを見て、カイは頼もしいというように視線を送った。
「スハイデン聖騎士様がそのように言ってくださると、私としても救われる思いです。レオノーラ様の侍従としての役割は誇りを持って臨むとしても、護衛としての私はいささか力不足でしたので……。聖騎士様が同行してくださり、どれだけ心強いことか」
グスタフは「なにを」と軽く肩をすくめたが、実は伝説の聖騎士に憧れていたカイは、彼への賛美を惜しまなかった。
「実を言いますと、私もあなた様にお会いできて興奮しているのです。千人切りまでなさったという経験豊富な聖騎士……どうか、道中、私にもご指南くださいね」
「カ、カイ……」
これにはむしろ、聞いていたレオのほうが冷や汗を浮かべた。
この右手賢者の前で、どうかみだりに「経験豊富」とか「千人切り」とか、そういった単語を口にしないであげてほしい。
そして、なにを指南してもらうというのだ。
レオの心の叫びには当然気付かず、純情な少年に向かってグスタフはからかうように笑ってみせた。
「おやまあ、熱心なことで。だが残念ながら、俺にできる指南なんて、せいぜい女への迫り方くらいなもんだ」
(この人自分から地雷踏みに行きやがった……!)
ぎょっとするレオをよそに、カイは「そんな、ご謙遜を」などと朗らかに返す。
「ああ、でも、たしかにそちらのご指南もお得意そうですよね。優れた剣技に、そのお姿。さぞ、浮名を流してこられたのでしょう?」
「どうかねえ。最近じゃ、一人の女を落とすほうに醍醐味を感じるが」
「…………っ」
もう、心が折れそうだ。
肉食系劇場が、「さんざんヤンチャしたんで、最近大人になりました」という設定にパワーアップしてやがる。
レオは胸を押さえながら、たまらず切り出した。
「カ、カイ……。その……グスタフ先生は、賢者候補なのですから、そのような話題は、あまり……」
「あっ、申し訳ございません!」
たしなめられたカイは、慌てて謝罪する。
主人の言う通り、清廉を掲げる教会の人物、それも、大導師の座にも近いグスタフに向かって、女性関係を云々すべきではなかった。
カイはこほんと咳払いし、話題を変えた。
「とにかく、私も聖騎士様も、いつでも駆けつけられるよう準備しております。それに、聖堂で危機が迫った場合には、レオノーラ様には、その雪歌鳥もついていますので」
無事、肉食系劇場が終幕したことに胸を撫でおろしたレオだったが、「雪歌鳥」に視線をやって、ちょっと口元をゆがめた。
向かいの席で歌うようにさえずっている、雪のように白い鳥。
掌に乗るほどのサイズだが、時折広げる翼は大きく、優雅な曲線を描く尾も長い。
(危機を知らせてくれる鳥、ねえ……)
なにを隠そう、この鳥は皇子から授かったものだった。
出立の直前にやってこられ、道中連れて行くようにと押し付けられたのだ。
――契約祭のエランドでは、精霊の力が増すぶん、魔力が使えなくなるからね。
脳裏に皇子の声がよみがえって、レオは顔をしかめかけた。
――これは、魔力がなくても有事に連絡が取れるよう、皇家で特別に調教した鳥だ。危機が迫れば、人の言葉を覚え、馬よりも早く空を翔ける。僕たちは契約祭の掟でエランドには立ち入れないことになっているけれど、万が一のことがあればすぐに駆け付けるよ。……もっとも、そんなことがないよう祈っているけれど。
皇子はいかにも慈愛深そうなイケメンスマイルで告げていたが、レオには、そこに隠されている相手の意図が手に取るようにわかった。
やつは、レオが脱走の機会を窺っていることに気付き、監視しようとしているのだ。
きっと、レオが不審な行動を見せたとたんに、この鳥が皇子のもとへ告げ口に行く算段なのだろう。
彼が優しげな笑みを浮かべるときは、たいていレオを追い詰める策を巡らせているときなのだから。
(まったく……俺のこの手の読みの鋭さときたら、生きるのがつらいほどだぜ……)
レオは、己の危機管理能力の高さに感嘆しつつ、優雅に翼を広げている雪歌鳥にガンを飛ばした。
この鳥に恨みはないが、同時に愛着もない。
自分を追い詰めてくれてしまう前に、売り飛ばすか、羽根をむしってペンにするか、丸焼きにするか――。
(いや、食うにはちっと肉が少ねえな)
売り飛ばして逃亡資金に充てよう、と冷静に判断していると、それを察知したのか、鳥が急に「ピ、ピピィ!」と騒ぎ出した。
なるほど、なかなか聡い。
(だが、俺の脱走を邪魔させるもんか)
エランド行きが決まってから、レーナとは幾度か、手紙や水晶で打ち合わせをしたのだ。
彼女も、突然降って湧いた機会に驚愕していたが、確かにまたとないチャンスだと言ってくれた。
彼の地では契約祭の期間とその前後、魔力が使えなくなるらしいので――これが一番の想定外にしてネックだった――、レーナとは祭の最終日に国境近くで落ち合って、ブルーノの手を借りつつ、そのまましばらくエランド側に身を潜める手はずになっている。
つまり、この契約祭を力いっぱい満喫して、最後にとんずらこく、というのがレオの仕事だ。
(……夫妻には、ちゃんと手紙書かねえとな)
頭の中で計画をおさらいし、その延長で、そんなことを思う。
少女の身体になんら未練はないが、お世話になった侯爵夫妻や、弟分のカイを悲しませてしまうかもしれないことだけが、気がかりではあった。
「ああ……森を抜けたとたん、空気が変わりましたね。ぐっと気温が高くなったような」
「ここより先は精霊の土地。光の精霊が惜しみなく注ぐ祝福は、ありていに言えば日光だからな」
馬車の窓から外を窺っていたカイたちが、そんなことを言う。
それでレオは物思いを振り払い、一緒に窓の外を覗き込んだ。
外から運び込まれてくる空気は、豊かな自然の匂いを含み、そして熱を帯びている。
年中涼やかなリヒエルト育ちであるレオには、すでに少々暑いくらいだったが、エランドの中心部に近づくにつれ、さらに気温は高くなるそうだ。
だが、それも異国情緒があってよい。
人の財布の紐だって、寒いよりは暑いほうが緩みやすいと聞く。
(来たぜ、エランド!)
周囲の木々も、ヴァイツでは見慣れぬ葉の丸いものに変わってきた。
徐々に幅が広くなり、舗装されてきた道の先には、華美な彩色の施された、石造りの門が見える。
門の先にはちらほらと、窓を大きく取ったエランド様式の民家が覗きはじめた。
レオは大きく息を吸い込むと、
(金の精霊様のご加護がありますように!)
そんな祈りを捧げ、門を見据えた。