7.レオ、嫉妬される(後)
一瞬黙り込んでしまったナターリアに、グスタフは目をすがめて畳みかけてきた。
「負荷も大きいから一概には言えねえが、寿ぎの巫女は、貴族令嬢にとって花形でもあるんだろ? おまえだってそれに向けて準備してきたろうに、突然出てきたハーケンベルグに、あっさり譲ってよかったのか」
「……よいもなにも、わたくし以上にふさわしい人物がいたから、その者が役割を請け負う。当然のことです」
感情がにじまないか。
声が揺れはしないか。
ナターリアは慎重に点検しながら、努めて淡々と答えた。
だって、これは真実。
貴族社会での規範だったし、偽りのない自分の考えだったから。
しかしグスタフは、猛禽類を思わせる瞳を鋭く細め、まるでこちらの隙を突くように言い放った。
「……おまえ、いつもそればっかだな」
「……は?」
「ふさわしいか、ふさわしくないか。正しいか、正しくないか。俺はそんなクソつまらねえことを聞いてんじゃねえ。おまえが、したいか、したくないかと尋ねてるんだ」
絶句するナターリアに向かって、グスタフは一歩距離を詰めた。
「お前は以前、ハーケンベルグを無欲と言ったが、俺からすれば、お前のほうがよほど無欲だよ。我がない、って意味でな」
最後の一言に、すっと心が冷えるのを感じる。
なにを、と小さく反論するが、相手は容赦なかった。
「友人のために激怒する、皇女のために平静を装う、皇子のために奔走する。耳触りはいいが、おまえ自身のために、おまえはなにをするんだと問いたくもなる」
心臓がばくばくと音を立てているのがわかった。
だめだ。
彼の問いの先には、触れたくない答えがある。
小さく「やめて……」と呟いたが、それよりも早くグスタフが言葉を重ねた。
「自分よりふさわしい者がいたら、令嬢の憧れの座も、皇妃候補の座も譲っちまう。おまえはそれでよかったのか? それに向けて時間と努力を重ねてきたなら、面白くないと思うのが普通ではないのか」
「やめて」
「だがおまえは、実に平然としているように見える。俺にはそれが不思議でならんね。おまえには、なにがしたいとか、こうなりたい、って欲はねえのか?」
「やめてください!」
大きな声で叫ぶと、相手ははっとしたように身を引いた。
その隙に腕を振り払い、ナターリアはきゅっと己を抱きしめる。
警戒する猫のような気配に、グスタフが肩をすくめた。
「悪いな、そこまで追い詰めるつもりもなかったんだが――」
「平気なわけ、ないではありませんか」
遮って低く吐き捨てると、相手は目を見開いた。
「……クリングベイル?」
「平気なわけがない。当然でしょう? 龍徴を手放し、巫女の座も譲って、なにも感じずにいられるほど、能天気な人間ではさすがにありません」
まただ、とナターリアは思った。
冷静であろうと、傍観者の立場を貫こうと思うのに、この男の前ではいつも心を搔き乱される。
普段抑え込んでいる分、制御の効かない感情が、捌け口を求めて体の中でうねっていた。
「そうよ、平気なんかではない。わたくしは今、見苦しいほど追い詰められています。ただしそれは、わたくしが皇妃や、寿ぎの巫女になりたかったからなどではない」
ナターリアは、体内の毒を吐き出すかのように、かすれた声で言い放った。
「それらの役割を失ったとき、わたくしが空っぽな人間だから――したいことなどないから、だから、嘆いているのよ!」
一度叫んでしまうと、もう戻れない。
後から後から湧き出る感情に、ナターリアは喉を震わせた。
「だって、わたくしの前には、『したいこと』よりも『すべきこと』のほうが、いつも溢れていた……!」
公爵家の娘。
ナターリア・フォン・クリングベイルは、同じく公爵家の娘だったビアンカが皇女の座に就くまで、帝国で最も身分の高い少女だった。
至高の身分に恵まれ、それにふさわしい才覚も持ち合わせていた彼女には、早くから様々な教育が施された。
未来の国母にふさわしい価値観、クリングベイルの毒の操作法、あらゆる学問。
幼かった少女には、過酷なほどの指導もあった。逃げ出したくなる日もあった。
それでも、自らのまとうドレス一着分に、ヴァイツの民の一生分の労働が捧げられているのだと知って――それが貴族の、自らの責任だと信じて、耐えた。
与えられた役割を適切にこなすことが、自分の存在意義なのだと彼女は知っていた。
皇子となって、欲することを放棄したアルベルトを見過ごせなかったのは、だから、半分は自分のためだ。
己の欲から目を背け、役割だけを完璧にこなそうとするその姿が、自分を見ているかのようだった。
彼のために奔走することで、自らへの慰めを、得ようと思った。
しかし、レオノーラの存在によって呪縛を逃れた従弟を見て――認めよう、ナターリアは、嫉妬した。
だって、アルベルトはもはや、自らの意志で王座に向かって歩きはじめていて。
それは、ナターリアとは対極にいる人間の姿だったから。
元より意志のはっきりしていたビアンカは、精霊の愛し子の地位を得て、ますますその自信を揺るぎないものにしはじめた。
憐れむべきレオノーラだって、紫の瞳に意志の輝きを浮かべて、アルベルトの隣に立つための努力を貪欲に重ねている。そう、役割だからではなく、「自分がそうしたいから」という理由で、彼女は動いている。
だから彼女は、追い込まれても龍徴を手放さなかった。――ナターリアとは違って。
「わたくしは……わたくしだけが、空っぽ。役割がないと、なにをしていいかわからない……!」
皇妃の座や、巫女の座に就きたかったわけではない。
しかし、いざそれらを譲ってしまうと、自分の存在理由がなくなってしまうようで、怖かった。
そして、そんな自分が不甲斐なかった。
「……したいことがない人間なんて、いるもんか。あんだろ、おまえにも。なにかしら」
静かに話を聞いていたグスタフが、そんなことを言う。
その声は、驚くほどに優しかったが、それに気付く余裕は今のナターリアにはなかった。
むしろ彼女は、その言葉を聞いて、くしゃりと顔をゆがめた。
「――……想いを……」
いつも滑らかな文章を紡ぐ声が、みっともないほど震える。
「誰かと、想いを、……交わしてみたかったのです……」
小さな声で告げると、白い頬を涙の雫が伝った。
震える唇を押さえるべく、両手で口元を覆う。
それでも止まらなかった嗚咽が、ひくっと、指の隙間からこぼれた。
「アルベルト様のように、真摯に誰かを慈しみ……ビアンカ様のように、心の底から笑い合って。レオノーラのように、嘘偽りなく、最後まで誰かを信じ、守り抜いて。……役割だからではなく、わたくしが相手を好きで、相手がわたくしのことを好きだから、心を揺らし、触れ合い、通わせ合う……。そういうことを、してみたかった」
言っていて、自嘲が漏れた。
なんと幼稚な。
まるで、もの知らぬ少女のような。
皇帝や愛し子、皇妃の座にふさわしくありたいと邁進している周囲に比べ、自分の欲というのは、なんて、馬鹿らしいのだろう。
こんなこと、普通の人間であれば、欲せずとも実現しているはずなのに。
「ですが」
震える喉を叱咤して、気力を掻き集める。ナターリアはグスタフのことを睨みあげると、口の端を引き上げてみせた。
「あなた様のせいで、その欲も捨てました。ロマンスなど絵空事だと、知ってしまったから。……おかげさまで、わたくし、ものの見事に空っぽですわ」
泣き崩れるのではなく、せめて相手を睨みつけることができて、よかった。
ナターリアは手の甲でさっと涙を拭うと、その身をひるがえした。
進路がふさがれているならば、わきの扉から去ればよい。
が。
「――きゃっ!」
ぐいと、またも腕を引かれて、ナターリアはバランスを崩した。
そのまま腰に手を回され、体を反転させられる。
気付けば相手の腕の中にいた。
「な、に……」
影が落ち、相手の顔が近づいているのを悟る。
軽く伏せられた琥珀色の瞳と、硬直したまま視線をかわし――
次の瞬間、唇に熱を感じた。
「…………! …………っ、…………!」
二度、腕を突っ張り逃れようとする。
が、二度ともしっかりと引き戻された。
数秒だったか、数十秒だったか――。
熱い吐息とともにグスタフが唇を離したとき、ナターリアの顔は燃えそうなほど赤くなっていた。
ふら、と腰が砕ける。
そのままずるりと床に崩れそうになったところを、再度抱き止められ、近くの長椅子に座らされた。
そうして行き場をふさぐように、立ったままの相手が、とん、と右手を長椅子の背についてくる。
彼は至近距離から、例の睦言を囁くような口調で告げた。
「ガキが、人生過去形で語ってんじゃねえよ」
「な……な、なな……な……っ」
対するナターリアは、魚のようにはくはくと口を開閉するだけだ。
グスタフは愉快そうに笑うと、ナターリアの顎を掬い、親指で唇をなぞった。
「血毒の紅を塗ったおまえはなかなかの美人だったが、泣き顔のほうが――そそるな」
「…………っ」
絶句するナターリアに、まごうかたなき肉食系導師は、ぐっと顔を寄せた。
「腰が砕けたようだが、月が上るころには治るだろう」
そのフレーズに、はっと息を呑む。
ナターリアの脳裏に、いつか聖堂で交わした遣り取りがよみがえった。
――痺れは、明け方には取れるでしょう。
「帰り道、おまえがその逆上せた顔のせいで、愚かな男どもに付け狙われないことを願ってるよ。くれぐれも、頭と頬を冷やしてから帰るように」
「……あなた……っ」
きっとまなじりを釣り上げたナターリアの髪を、グスタフはあやすように撫でた。
「ごきげんよう?」
そして最後ににやりと笑い、聖堂の奥へと去っていく。
ナターリアは呆然とその後姿を見送った。
「――……なんと、いう……」
熱が、こみ上げる。
それまでの鬱屈した思いも、葛藤も、嘆きもなにも、すべてを吹き飛ばして、源泉のような感情が体の内から湧き上がる。
ナターリアは、いまだ燃えるような頬をぎゅっと両手で押さえ込んだ。
「な、なんということを……っ。なんて、ふしだらな……! なんて……!」
情熱的な。
ナターリアは、混乱のあまりじわりと涙をにじませた。
こんな感情、自分は知らない。
だいたい、人々を導くべき導師のくせに、一回りも年下の学生に口づけるとは、なにごとなのだ。
「け……賢者候補のくせに……っ」
レオあたりが聞いたら「ぶほぉっ!」と茶を吹きそうな罵り言葉を、なんら含みなく呟いて、ナターリアは前の長椅子の背に顔を突っ伏した。
最後で台無し