第九話 遥かなる行く末
2019.10/3 更新分 1/1
薄暗い部屋の中で、ルイドの意識はひっきりなしに悪夢と現実の間を行き来していた。
自分の見ている光景が夢であるのか現実であるのか、それすらも判然としない。ルイドの精神と肉体は、シムの毒によって手ひどく痛めつけられていたのだった。
(いまはいつで、ここはどこだ……このようなところで、わたしは何をしているのだ……?)
ともすれば、自分が誰であるのかも見失ってしまいそうになる。
そんなとき、ルイドは奥歯が割れそうなほどに強く噛みしめながら、懸命に自我を保たなければならなかった。
時間の感覚などは、とっくに失われてしまっている。
この薄暗い部屋に連れてこられてから、いったい何日が経過したのか。その間に何度も食事を運ばれたように記憶していたが、それも現実のことであるかは疑わしかった。
ルイドはつい先年から、ルアドラ騎士団の副官として働いていた。
それまでは遠征兵団の千獅子長として采配を振るっていたのであるが、とある戦で深手を負ったのを契機に、お役目を移されたのだった。
騎士団の一員として公爵領を守るのも、遠征兵団として進軍するのも、仕事の重さに変わりはない。公爵領の騎士団とて、間近に敵軍が迫れば打って出ることになるのだから、なおさらである。
しかしやっぱり、国境まで進軍する遠征兵団と、王都に隣接した公爵領の騎士団では、勝手の異なる部分もあるのだろう。少なくとも、遠征兵団に所属している限り、このような陰謀劇に巻き込まれることはないはずだった。
(陰謀……そう、陰謀だ)
去りし日に――それがどれぐらいの昔日であるのかは判然としなくなってしまったが、とにかく赤の月の災厄の夜に、セルヴァの王は魂を返すことになった。王のおわす宮殿ごと、滅びの炎に包まれてしまったのだ。
それと時を同じくして、ルイドの上官たる騎士団の団長が失踪した。
王の死には、その団長が関与しているのではないか――ルイドを捕らえた衛兵たちは、そのように言いたてていたのだった。
(そのように馬鹿げたことがありえるわけはない。団長殿は、武骨で、一本気で、貴族らしい駆け引きすら苦手とする御方であられた。あのような御方が、王陛下の暗殺などに加担しているわけがない)
ルイドはそのように主張したが、その言葉が聞き入れられることはなかった。
しかも衛兵たちは、正規の手続きも踏まずにルイドを幽閉して、尋問という名の拷問を開始したのである。その時点で、ルイドはいっそう上官の潔白を確信することになった。
(こやつらは、団長殿を王殺しの大罪人であるなどと疑っているわけではない。もっと何か、別の理由で団長殿の身柄を押さえようとしているのだ)
そうでなければ、審問も行わずにルイドを拷問にかける理由も見当たらなかった。
むしろ、この者たちこそが王殺しの大罪人であり、それを知った団長は身の危険を感じて行方をくらましたのではないか――ルイドには、そのように思えてならなかった。
何にせよ、団長の行方はルイドにも知れなかった。王の暗殺される前日に、団長は王都に所用があると言い残してルアドラ領を発ち、そのまま煙のように消え失せてしまったのである。
どのように手ひどく尋問されようとも、知らないものは答えようがなかった。
すると悪辣なるその者たちは、シムの毒草などを持ち出してきたのである。
「この毒草を口にすれば、どのような問いにも答えずにはいられなくなる。ただし、貴様は頭の中身に取り返しのつかない傷を負うことになるだろう。……そんな運命を享受したくなければ、あやつの居所を吐け!」
ルイドは全身の力を振り絞り、その男の顔に唾を吐きかけてやった。
その末に、シムの毒草を無理やり飲まされてしまったのである。
それ以降の記憶は、曖昧であった。
誰かと言葉を交わしたような気もするが、それがどのような内容であったのかも記憶には残されていない。おそらくは、毒草で正気を失ったルイドに対して、さらなる尋問が行われたのだろう。
それでルイドは、牢獄の中に打ち捨てられることになった。
日の光も差さない闇の中で、悪夢にうなされ続けることになったのである。
そこで何日を過ごしたのかも、ルイドは記憶していない。
ただ、いつしかルイドの身はこの薄暗い部屋に移送されて、手厚く看護されるようになっていた。
「まったく、ひどい目にあったものだね。君をこんな目にあわせた人間は必ず捜し出してみせるから、ゆっくり養生しているといい」
何者かにそんな言葉をかけられた気もするが、それすらも夢である可能性は捨てきれなかった。
場所が石造りの牢獄からやわらかい寝具の上に移されただけで、ルイドの窮状に変わりはなかったのだった。
ただ、時々忽然と我に返ることがある。そのとき目に映ったのは、いかにも清潔で病室めいた、無機質なる寝所のたたずまいであった。
おそらくは、何者かがルイドの身を保護してくれたのだろう。
しかし、行方知れずとなった団長はどうなったのか。王殺しの犯人は捕縛することができたのか。自分を幽閉していた悪漢どもたちは何者であったのか。そういった疑問に答えてくれる人間はいなかった。
(わたしの天命は……ここまでなのだろうか)
得体の知れない悪夢に脅かされながら、さしものルイドもそんな想念にとらわれることが多くなっていた。
ルイドはすでに、30年ばかりの歳月を王都の軍の一員として過ごしていた。血筋は公爵家の傍流であったが、父も祖父も兵団の一員として王国に剣を捧げていたので、自分も何を疑うことなく、その道に進んだ。これまでに斬り伏せた敵の数など、数えようという気にもなれない。ルイドが長らく所属した遠征兵団というのは、マヒュドラやゼラドの軍と真っ向から刃を交える任務を負っていたのだった。
(王都の騎士に叙任されてから、戦場で朽ちる覚悟は固めていた。しかし、まさか……このような陰謀劇に巻き込まれて、わけもわからぬまま朽ちていくことになろうとはな)
ルイドもまた、団長に劣らず融通のきかない人間であった。貴族としての社交術など薬にしたくともないし、剣の腕を磨くことと、戦術や戦略を練ることの他に、力を尽くした覚えもない。そんな人間であるからこそ、こんな陰謀劇に足をすくわれてしまったのだろうか。
(わたしがこのような陰謀劇に巻き込まれたのは、ただひとたびだけ……若かりし頃にジェノスを訪れた、あの際の一件ぐらいであろうな)
悪夢と現実の狭間で、ルイドはぼんやりと考えた。
これも毒草の影響であるのか、ルイドの心は過去の情景に導かれることも多かった。
あれは、20年以上も前のこと――ルイドが千獅子長の座を賜ってすぐの頃である。ルイドの部隊の二個中隊が、ジェノスに向かう貴族たちの護衛役を担うことになったのだ。
ジェノスは辺境の領地であり、王都からは遠く離れている。それゆえに、遠征を生業とするルイドの部隊にその役目が与えられたのであろうが、それはまったく畑違いの任務であった。彼らは貴族の護衛ばかりでなく、ジェノスを威嚇するための道具であったのだった。
「くだらねえなあ。俺たちの役割は、マヒュドラやゼラドの連中をぶった斬ることでしょう? こんな役割は、防衛兵団の連中に任せるべきでしょうよ」
当時の百獅子長を務めていたダグという若者などは、そのように言い捨てていた。
ルイドも同じ心情であったが、しかし任務は任務である。王国に剣を捧げた人間として、与えられた役目は十全に果たすしかなかった。
しかし――ルイドは果たして、その役割を全うできたのだろうか。
最終的に、ルイドは王都の貴族を告発することになってしまった。その貴族がジェノスに仕掛けた陰謀があまりに低劣であったため、黙っていることができなくなってしまったのだ。
結果、その人物は王宮内の立場をなくして、失脚することになった。告発したルイドが咎められることはなかったのだから、誰にも恥じる必要はないのだろう。
ただ、ルイドの胸には小さなしこりのようなものが残されてしまっていた。
自分は本当に、公正な目で状況を判断できていたのかどうか。それを、疑問に感じてしまったのだ。
(もしかしたら、わたしはジェノスの者たちの人柄に感化されて、肩入れしてしまっただけなのではないだろうか……いや、ジェノスの者たちというよりは……森辺の民に、というべきか)
それは、ジェノスの領土に住まう奇妙な一族であった。
王国の民でありながら、自由開拓民よりも奔放な生を送る、猛き狩人の一族である。
彼らは森の中で暮らし、自分たちだけの掟などを作っていた。西の民でありながら氏を持ち、森を母と呼び、税すら納めず、あげくには四大神に対する信仰すらないがしろにしていたのだ。
ルイドも最初は、彼らのことを嫌悪していた。
ルイドも謹厳な気性であったため、そのように奔放な生が許されていいわけがない、と考えていたのだ。
しかし、実際に彼らの姿を前にすると、そんな思いはあっけなく揺らいでしまった。
彼らはただ奔放なだけではなく、同じ人の子とは思えぬほどの力を持ち、そして――清廉な存在だったのである。
彼らに比べると、王都の貴族たちのほうが、よほど低劣な存在であるように思えてしまった。
監査官の片割れであるドレッグは怠惰であり、もう片方のタルオンは悪辣であった。そんな貴族の醜悪な部分を集めたような者たちが、清廉にして純朴なる森辺の民を、薄汚い陰謀でからめとろうとしている――そのように感じたルイドは、思わず義憤に駆られてしまったのかもしれなかった。
(あの頃のわたしにとって、それはまぎれもなく正義だった……20歳を過ぎたばかりの若さでは、それも致し方あるまい)
しかし、齢を重ねるごとに、ルイドの心情は変化していった。
あれは義憤ではなく、私情だったのではないか――と思えてきてしまったのだ。
それぐらい、森辺の民というのは強烈な魅力を有する人々であったのだ。
彼らはまるで、原初の人間のように汚れを知らなかった。それでいて、どのような人間よりも猛々しく、力に満ちていた。それは、石の都の住人たちが数百年前に捨て去ってしまった、大地の子としての勇猛さと清廉さであるのかもしれなかった。
(しかも森辺の民の中には、学師のごとき理知的な人間までもが存在した。あの、族長の供として付き添っていた、沈着な男……名前は何といったか……あの男などは、賢者と呼びたくなるほどの知性が感じられた)
そして森辺の民たちは、正体も知れない「アスタ」という人間を同胞に迎えていた。
出自もはっきりとしない怪しげな人間を、ただ信用に足る人柄だというだけで、血族に加えてしまったのである。
もちろんそれが、容易いことであったとは思わない。正体不明の人間を考えもなしに信用したというのなら、それはただの浅慮である。
しかし彼らは、違っていた。彼らは持ち前の厳格さでアスタを検分し、そして受け入れたのである。アスタは蛮勇とも思える果敢さで森辺の生活に介入し、見事に信用を勝ち取ったのだった。
(森辺の民とはきわめて閉鎖的な一族であるとされていたが、それは違っていた。彼らはただ、身分や生まれではなく心の有り様で人間を判じているのだ。相手が王族であろうと貴族であろうと正体不明の無頼漢であろうと、正しい心を持っていれば信用し、悪しき心を持っていれば敵と見なす。そういう姿勢であるのだろう)
あるいはそれは、アスタという存在を介して備わった気質なのかもしれなかった。
得体の知れないアスタという存在が、信用に足る人間であると思い知ったゆえに、外界の人間とも絆を結べるようになった――そういうことなのかもしれなかった。
何にせよ、森辺の民というのは不可思議で、魅力的な一族であったのだ。
それゆえに、ルイドは自分の立場を忘れて、肩入れしてしまったのかもしれなかった。
(それでも、わたしは、審問で罪に問われることにはならなかった。それはつまり……森辺の民の正しさが認められた、ということなのだろうか)
それ以来、ルイドがジェノスとの外交に関わることはなかった。
遠征兵団としての正しい職務に戻り、2度とジェノスの地を踏むことにもならなかったのである。
ただ、ルイドはときおり、奇妙な鮮烈さでジェノスにおける出来事を思い出すことがあった。
炎を凝り固めたかのような狩人たちの気迫や、美しい娘たち、ファの家のアスタがこしらえるギバ料理に、舌がとろけるような甘い菓子――あれから20年以上が経過しているというのに、それらの光景がルイドの中から消え失せることはなかった。
(彼らはいまでも、同じ生活に身を置いているのだろうか……あれからジェノスも、さまざまな変転を迎えたと伝え聞くが……それでも森辺の民は、やはり森辺の民としての勇猛さと清廉さを失うことなく、誇り高く生きているのだろうか……)
そのとき、どこかで何かを叩くような音が聞こえたような気がした。
それが入室を願う所作であると気づいたのは、寝所の扉が開かれた後のことであった。
「失礼いたしまーす。……あれれ、眠っちゃってるのかな?」
小さくひそめられた娘の声が、ルイドのほうに近づいてくる。
どうやら、侍女か何かが食事を運んできたようだった。
「ま、いっか。ここに置いておくから、あとでゆっくり食べてくださいねー」
カタンと、卓に盆を置く音が響く。
ルイドが半ば無意識に首を傾けると、薄暗い部屋の中で小さな人影が「わっ」と飛び上がった。
「なーんだ、起きてるんじゃん。……あ、それともあたしが起こしちゃったのかな? だったら、ごめんなさい」
小さな人影が、ぴょこんと頭を下げてくる。
口調も挙動も、このような場で働く侍女には似つかわしくない。それに、年齢もずいぶん幼いように感じられた。
「苦しくないですか? お水でも飲みたければ、お手伝いしますけど」
「では……ひと口だけ、お願いする……」
ルイドが口を開くと、老人のようにしわがれた声が発せられた。
謎の娘は「はーい」と気安く答えながら、寝台に近づいてくる。
それは、きわめて見目の整った娘であった。
小柄だが、声などの感じほど幼くはないようだ。王都では珍しい黒髪に黒瞳で、飾り気のない侍女のお仕着せにほっそりとした身体を包んでいる。
ただ――照明の加減なのか、ずいぶんと浅黒い肌をしているように見える。
そして、その明るい光をたたえた黒い瞳には、どこか見覚えがあるように感じられた。
「それじゃあちょっと、お背中のほうを失礼しますね。寝たまんまじゃお水も飲みにくいでしょうから」
少女の華奢な指先が、ルイドの背中の下に潜り込んでくる。
ルイドもずいぶん痩せ細ってしまったはずであるが、それでも武人として鍛えてきた肉体である。しかし、少女の手は意外なほどの力強さで、ルイドが身を起こすのを助けてくれた。
「これでよし、と。はい、お水です」
硝子の杯に注いだ水を、ルイドのほうに差し出してくる。
それをゆっくりと飲み干しながら、ルイドはずっとその少女の面立ちを見つめることになった。
(このような娘に、見覚えはない。しかし、この眼差しは……わたしの知っている誰かに似ているような気がする……)
そのように思ったが、ルイドの意識はまだ悪夢に片足を突っ込んでいたので、判然とはしなかった。
ルイドの目を真っ直ぐに見返しながら、少女はいくぶん心配そうに眉を下げている。
「あんまり事情は知らないのですけれど、ずいぶんおつらそうなご様子ですね。あたしはすぐに引っ込みますので、どうぞゆっくりお休みください」
「事情を……知らない? この場には、事情を知る人間しか近づけぬと聞いているが……」
靄のかかったルイドの頭に、ちりっと警戒の火花が散った。
しかし、少女がにこりと笑うと、そんな思いも霧散してしまう。
「はい。あたしは伴侶のお供で王都に出向いてきただけなんです。なんか色々と騒がしいみたいですけど、男の仕事に首を突っ込むなーとか意地悪なことを言って、伴侶は何も教えてくれないんです。ひどいでしょー?」
「しかし……それは、侍女のお仕着せであろう……?」
「あー、これはかまど仕事を手伝うのに、お借りしたんです」
そんな風に言ってから、少女はぽんと手を打った。
「そうそう! それでかまどをお借りして、菓子をこしらえてきたんですよー。まだ晩餐までには時間がありますし、よかったら食べてみませんか?」
「菓子……」
「はい。あたし、菓子をこしらえるのが得意中の得意なんです!」
えっへんとばかりに胸をそらしてから、少女は卓のほうに向きなおった。
そこから取り上げた白い皿を、突き匙とともにルイドへと差し出してくる。
「よかったら、どうぞ! 晩餐前のおやつには、ちょっと重たいかもしれませんけどねー」
ルイドは何か、得体の知れない感情にとらわれてしまっていた。
その皿の上に乗せられていた菓子は――薄闇の中で、闇そのもののように漆黒をしていたのである。
王都において、このように黒い菓子を見たことはなかった。
ルイドがこのような菓子を見たのは、20年以上も前の1度きりであった。
ルイドは震える手で、その菓子の皿を受け取った。
漆黒の菓子は、四角く切り分けられている。大した大きさではなかったが、突き匙を当ててみると、思いも寄らぬほどの重い感触が伝わってきた。
そのまま力を込めていくと、突き匙はずぶずぶと黒い生地に沈み込んでいく。
その途中で急に手応えが軽くなったので、勢い余った突き匙が、かつんと皿に衝突した。
薄暗いのでわからなかったが、それは2段の質の異なる生地で構成されていたのだ。
そして漆黒に見えるのは、部屋が薄暗いためであるのかもしれない。ルイドがかつて目にした菓子は、限りなく黒に近い黒褐色であったのだ。
小さく切り分けられた生地に、あらためて突き匙を刺し、持ち上げる。
それを口に運んでみると――舌のとろけるような甘さが、爆発した。
(わたしは、もしかして……まだ夢の中をさまよっているのか?)
その菓子は、強烈なまでに甘かった。
その甘さの中に、ほろ苦さも含まれている。それは、ギギの葉の香ばしさであった。
生地の上段はねっとりとした食感であり、甘さも風味も際立っている。
下段のほうは一転して軽やかであり、ルイドもよく知る焼き菓子の食感であった。
しかしそちらにも、甘さと風味はぞんぶんに備わっている。この黒色は、ギギの葉の色合いであったのだ。
(わたしは、この菓子を知っている……これは、ジェノスで食べた、あの菓子だ)
ルイドは呆然と、少女を振り返ることになった。
少女はにこにこと、満面に笑みを浮かべている。
「どーですか? それ、がとーしょこらっていう菓子なんです!」
「がとーしょこら……」
「はい! あたしの自慢の菓子のひとつです! あたしのお師匠には、まだまだかなわないですけどねー」
「お前は……お前は、いったい……」
そのとき、寝所の扉が荒々しく叩かれた。
そこから現れた者の姿を見て、ルイドは息を呑む。
「リミア・ファ! お前は、何をやっておるのだ! 勝手にうろちょろするなと言ったであろうが!」
「なんだよー。ようやく顔を見せたと思ったら、いきなりお説教?」
リミア・ファと呼ばれた少女は、そちらを振り返って頬をふくらませた。
炎のように赤い髪と、海のように青い瞳をした、鋭い面立ちの若者である。その若者もまた、浅黒い肌をしているようだった。
見覚えは、ない。
このように鮮烈な人間と相まみえていたならば、決して忘れることはないだろう。
しかし、そのしなやかな体躯からあふれかえっている瑞々しい生命力には、はっきりと覚えがあった。
「いいから、こっちに来い! ここは、手傷を負った者たちが身を休める場であるのだぞ?」
「だったら、そんなに騒がしくしないでよ。あたしはただ、こちらの御方に菓子を作ってあげただけなんだから!」
仏頂面をした若者にべーっと舌を出してから、少女はルイドに向きなおってきた。
「それじゃあ、ゆっくり休んでくださいね。今度は、料理も準備してきますから!」
「……だから、勝手な真似をするなと言っているのが、聞こえんのか?」
「ふーんだ。あたしはかまど番としての仕事を果たしてるだけですよーだ」
そうして暴風雨のようにルイドの心をかき乱したふたりは、寝所から立ち去っていった。
ルイドにしてみれば、やはり夢でも見ていたかのような心地である。
しかしその手には、食べかけの菓子がのせられた皿がしっかりと残されていた。
(それでは……夢ではなかったのか)
ルイドは再び、その菓子を口にした。
鮮烈なる甘みが、ルイドの頭にわだかまる靄を晴らしていくかのようである。
(森辺の民は、やはり滅んでなどいなかった……たかだか20年ていどでは、彼らの清廉な魂が澱むこともなかったのだ)
どうして森辺の民が王都にいるのか、それはわからない。
しかし、ルイドが力を取り戻せば、そういった事情を聞くこともできるはずだった。
(わたしも、もうひとたび立ち上がるのだ……王を失った王国のために、この身の力を捧げてみせよう……ここは、彼らの王国でもあるのだからな)
ルイドは、生まれ変わったような気分であった。
頭はずきずきと痛んでいるし、手足には力が入らない。しかし、その心には不屈の闘志が蘇っていた。
そして――燃えさかる心の片隅には、妙にしみじみとした感慨も生まれていた。
(リミア・ファ……あの娘は、確かにそう呼ばれていた……では、たったふたりの家人しかいなかったファの家も、どうにかして血を遺すことがかなったのだな……)
とても優しげな面立ちをした黒髪黒瞳の若者と、とても凛々しく生命力に満ちみちた金髪碧眼の女狩人の姿が、脳裏に浮かびあがる。
おそらくは今後も生涯相まみえることはないであろうその両名に、ルイドは心からの祝福を捧げることにした。