朝起きたら領主も兵士も殺されていた日常について……
エウノルムは、健脚の持ち主ならば一日で王都へ行ける距離にある、人口1万人ほどの街だ。
小さな湖の西側に街が広がり、東側の小高い丘の上に領主の居城が建っている。
湖には、チャベレス鉱山がある北の山脈の伏流水が湧き、夏には王都から水浴を楽しむ旅行客が訪れる観光地でもある。
そのエウノルムの街では、ある噂が囁かれていた。
北に馬車で二日ほど行った街ビャムリが、チャベレス鉱山で反乱を起こした獣人族に囲まれているというものだ。
水堀を頼りに籠城したビャムリを囲んだ獣人達は1万人以上の大軍で、殆どのものが武装しているらしい。
包囲される前にビャムリから出立した早馬が知らせを届け、使者はそのまま王都に向かったという。
人族に恨みを持つ獣人族が反乱を起こしたとなれば、どれほどの被害が出るか分からない一大事なのだが、噂を信じるものは少なかった。
そもそも、エウノルムを治めているデルポリーニ侯爵が、早馬の知らせを半分ほどしか信じていない。
デルポリーニ侯爵を一言で表すならば『農耕の領主』と呼ぶのが相応しいだろう。
湖から湧き出る水を張り巡らせた農業用水へと流し、エウノルム一帯を穀倉地に変えたのがデルポリーニ家だ。
この一帯で獲れる穀物がアルマルディーヌ王国の食糧事情を支え、国を安定させるのに大きく寄与した。
そのため、デルポリーニ家には出兵の義務が無い。
この穀倉地帯を守るのが、デルポリーニ家の役目なのだ。
サンカラーンの獣人族は、古来よりアルマルディーヌ国内で略奪行為を行ってきたが、被害を受けるのは国境近くの街や村だ。
国境から遠く離れたエウノルムが、獣人達による略奪の被害を受けたことは一度もない。
出兵もせず略奪された経験も無く、デルポリーニ家の者は家臣を含めて奴隷以外の獣人族を見た経験が無い。
その奴隷も、万が一反逆して刈り入れ前の畑に火を放ったりしないように、わざわざ国が温厚な性格の奴隷を選んで送ってくるほどだ。
大きな体で力も強い、だが首輪に支配されて人族には逆らえない大人しい生き物……それがエウノルムにおける獣人族のイメージだ。
早馬をよこしたビャムリからは、救援の依頼も届けられていたが、デルポリーニ侯爵が派遣した兵はたったの10騎だけだった。
奴隷など、ベルを鳴らして従わせれば良い。ベルが無くとも少し脅せば大人しくなる……それがデルポリーニ侯爵の考えというか思い込みだった。
派遣された兵士は、いずれもデルポリーニ侯爵家の兵士で、遠乗りにでも出掛けるような気楽さで馬を走らせていた。
いくつかの丘を越え、実際の獣人族達を遠めに眺めた時には、さすがにその数に圧倒されていたが、それでも自分達なら言う事を聞かせられると兵士達は疑わなかった。
「止まれ、止まれ! 貴様らのリーダーはどこだ、さっさと連れて来い」
行列の行く手を塞ぐようにして待ち構え、居丈高に言い放った兵士達は、行列の中へと案内されると、袋叩きにされて全員が殺された。
10人の兵士を率いていた隊長格の男は、最後までなぜだと言いながら死んでいった。
元奴隷の獣人族からしてみれば、なぜ首輪もしていない自分達が、命令されただけで従うと思い込んでいたのか、兵士達の行動が理解出来なかった。
獣人族を率いているテーギィの所へ、兵士達が足止めに来たと報告が届いたのは、既に全員が殺された後だった。
テーギィもまた、兵士達の行動、そして兵士を派遣したデルポリーニ侯爵の意図が理解出来なかった。
もしや使者として送られて来た者を勘違いして殺してしまったのかと危惧したが、馬から降りもせず、頭ごなしに命令を下す使者などいるはずがない。
友好関係にある国同士が戦争を始めたいと思った時に、難癖を付けて相手に使者を害させるという方法もあるが、そもそもテーギィ達は戦うために王都を目指しているのだ。
最初から和平が目的ではないので、わざわざ切っ掛けなど用意しなくても、テーギィ達から闘いの火ぶたを切って落とすつもりでいる。
結局、進軍を続けながらテーギィは考え続けていたが、結論は出なかった。
獣人族達がエウノルムを遠く見下ろす丘に到着したのは、まだ日が高い昼過ぎだった。
テーギィはエウノルムから見つからない位置で一行を止め、休息を取りつつ夜を待った。
休息を取る間、テーギィは複数の者を偵察に向かわせた。
これまでの潰してきた街よりも、街の大きさも、人の多さも桁違いに大きなまちで、兵士達が自殺行為とも思える奇妙な行動を取った。
何か罠が仕掛けられていてもおかしくないとテーギィは考えたのだ。
夜影に溶け込むように、慎重にエウノルムに近付いた獣人達が目にしたものは、何の備えも行われていない街並みだった。
ここまでの道中、殆どの街は何の備えもなく、獣人達に容易く壊滅させられた。
獣人達が女子供、年寄りまで片っ端から殺して、他の街や集落に情報が広がるのを防いできたからだ。
だが今回は、籠城の姿勢を見せたビャムリの街から知らせが届いているはずだし、そうでなければ奇妙な10人の兵士が現れる訳がない。
テーギィは、街の近くまで誘いこんでから一斉に攻撃を加えるような罠を用意していると予測したのだが、偵察から戻った者の報告は耳を疑う内容だった。
城も、街も、全く警戒していないらしい。
あまりの無防備さに疑念を抱いたが、それでもテーギィは攻める決断をした。
目標は、湖の東岸に断つデルポリーニ侯爵の城。
正面からではなく、獣人族の身体能力を使い、崖をよじ登って侵入した。
城へと入り込んだ獣人達は、極力音を立てないようにして、門番を暗殺して味方を引き入れる。
外周を警戒していた者を排除してしまうと城の警備は無防備そのもので、時間にすれば3時間足らずで城の兵士は全滅し、デルポリーニ侯爵一家も全員が殺された。
城を攻め落とした時点でテーギィは、デルポリーニ侯爵が何の備えもしていなかったという事実をようやく確認した。
「テーギィ、街はどうするのだ?」
補佐役であるジルダに問われたテーギィは、迷う素振りもなく答えた。
「夜明けと共に街を襲う。ただし住民は、殺すのではなく王都に向かって追い立てる」
「追い立てる? なぜだ?」
「王都には堀や跳ね橋、城門などがあって、普通の方法では入り込めない。だが、目の前で国民が殺されそうになっているのに、門を閉じていられると思うか?」
「なるほど、一見自由にして逃亡させておいて、実際は人質として使うわけだな?」
「そうだ、この街には5万人ぐらいの人族がいるらしい。王都までの道程に耐えられそうもない年寄りなどは、一思いに楽にしてやれ」
夜明け前にエウノルムの街を取り囲んだ獣人族は、テーギィの合図で一斉に雄叫びを上げた。
「うおぉぉぉぉぉ!」
猛獣が吼えるが如き雄叫びが朝の大気を震わせ、エウノルムの住民は飛び起きた。
獣人族は、数人掛かりで太い丸太をぶつけ、街の端にある家から叩き壊し始めた。
家が壊される大きな物音、女性の悲鳴、年寄りの断末魔の絶叫。
平穏そのものだったエウノルムの街は、一瞬にして大混乱に陥った。
「死にたくなければ王都へ向かえ! グズグズしている奴は叩き斬るぞ!」
獣人族は、王都へ向かう道を残して街を包囲し、時間と共に包囲の輪を縮め、住民を街から追い出した。
家財道具や着替えを持ち出す時間も与えず、住民達は着の身着のままで追い立てられた。
住民が避難を終えた建物は、獣人族の手で火が掛けられた。
これほどまでの大騒ぎになっているのに、デルポリーニ家の兵士が姿を見せないことに住民達は疑念を抱いた。
「兵士共は、領主共々切り殺してやったぞ!」
「殆どの兵士は、俺達に恐れをなして王都に逃げたぞ」
獣人族の口にする言葉など信じたくないと多くの住民が思ったが、兵士はいつまで経っても現れない。
住民達は絶望的な思いに駆られながら、それでも生きるために王都に向かって歩を進めた。
夜が明け始めたばかりだったので、住民の多くは朝食どころか水すら口にしていない。
それでも目の前で、年寄りや反発した若者が殺されるのを見せつけられれば、嫌でも王都を目指して歩くしか無い。
フラフラと力無く歩く姿は、難民そのものだ。
エウノルムの獣人奴隷達は、街の外にある小屋に集められていた。
王都からの観光客の目に触れないように、エウノルムでは獣人族の奴隷は街には入れないように定められていた。
チャベレス鉱山の宿舎同様の粗末な小屋に詰め込まれていた獣人達は、解放されると歓喜の雄叫びを上げた。
3千人を超える獣人達は、王都に攻め入る軍勢に進んで参加を表明した。
選ばれた時には従順で大人しい部類の獣人達でも、劣悪な生活環境で連日過酷な労働を課せられれば不満が蓄積するのは当然だろう。
元奴隷達は、エウノルムの住民を王都へと追い立てる役割を志願した。
棍棒を片手に握って住民を追い立てる元奴隷の顔には、抑えきれない嗜虐的な笑みが浮かんでいた。
「おらっ、モタモタするな! さっさと歩け、ウスノロ!」
「よせ、歩くから……乱暴しないでくれ」
「口応えする暇があるなら、足を動かせ!」
「お前ら、こんな事をしてタダで済むと……うがぁ」
「何だと、この野郎! タダで済まないなら、どうなるんだかやってみろ!」
「がっ……ぐぁ……やめ、やめろ……」
「やめろだと! お前ら、俺達がそうやって頼んだ時に、やめてくれなかっただろう!」
「知らない……俺じゃない……」
「うるせぇ、くたばれ!」
農作業が少しでも遅れれば、殴られ、蹴られるのは当たり前だった奴隷達は、溜まりに溜まった恨みつらみを直接関係のない住民達に当たり散らす。
袋叩きにされて命を落とした住民は、道端に放り投げられ、打ち捨てられた。
エウノルムから王都ゴルドレーンへ向かう途中には、いくつかの小さな集落があったが、押し寄せる避難民に飲み込まれてしまった。
水や食糧を求めて、エウノルムの住民が集落の住民を襲うような事態も起こっていた。
僅かな休息時間も与えられず、新たに集落の住民も取り込んで、人族の避難民は王都を目指して進んでいく。
長い休憩が与えられたのは、王都手前の最後の集落で、日は西に傾いていた。
夜が明ける頃にエウノルムを出たのだから、足に自信のある大人ならば王都に着いていそうな時間だ。
休憩の間、住民達与えられたのは、1人当たり僅かな量の水だけだった。
一方の獣人族は、火を起こしこれまでに奪って来た食糧を使って、たっぷりと夕食を取って仮眠まで取った。
そして、とっぷりと日が暮れた後、テーギィは人族に再び王都に向かって歩くように命じた。
松明の明かりを頼りに、住民達は真っ暗な街道を進んで行く。
行列の先頭近くには、大きな木箱を乗せた荷馬車が混じっていた。
「エウノルムから歩き通しで逃げて来た。開けてくれ!」
ようやく王都ゴルドレーンに辿り着いた住民は、固く閉ざされた街の門に向かって呼び掛けたがが、門が開く様子がない。
門の上、明りの向こうの暗がりから声が降ってくる。
「その木箱の中身は何だ!」
「持ち出して来た家財道具だ」
「開けて見せろ!」
勿論、木箱の中身は家財道具などではなく獣人族だ。
門番と交渉している男は、家族を人質に取られ、荷車を引いていくように脅されている。
「ほら、この通り、着替えなどだ」
疑われた時のための箱を開けて、ダミーの服などを見せたが、門番は納得しなかった。
「他の箱も開けろ、全部だ! どうした、早くしろ!」
「お、脅されたんだ。家族が人質に……」
「撃てぇぇぇ! 獣人も裏切り者も、一人残らず殺せえ!」
街を囲む城壁の上から、数えきれない程の火球が降り注ぎ、一瞬にして門の前は火の海になった。
易々と街の門を開けさせるほど、ギュンター・アルマルディーヌという男は甘い人物ではなかった。